第65話 使わなかったもの
中継地点へ戻ったあと、五人はすぐに休めるわけではなかった。
報告を終えた後も、装備の確認が残っている。剣。杖。靴。鞄。水。薬。魔石。そして収納魔道具・試作一号。
レインは剣の刃を布で拭きながら、小さく息を吐いた。
「思ってたより傷ついてる」
オークへ深く斬り込めたわけではない。それでも何度か硬い皮膚へ当てたせいで、刃の一部がわずかに曇っている。
シリウスが覗き込む。
「折れてないならいいだろ」
「折れてからじゃ遅いよ」
「それもそうか」
アイリスも杖を確認していた。火球自体は大きく使っていないが、森の中を走った時に枝へ何度か当てている。リリアは使った薬と包帯の残量を数え、アルスは試作一号の表示を確認する。
予備薬。
予備水。
予備魔石。
三つ。
空き二つ。
今日も収納魔道具の中の予備薬は使わなかった。
アルスは少し考えた。
「リリア」
「はい?」
「今日、僕の腕に使った薬って、あとどれくらいある?」
リリアは自分の鞄を開く。
「通常分なら半分以上残っています。シリウスの足にも使いましたから、出発時よりは減っていますけど」
「じゃあ収納の予備はまだそのまま?」
「はい」
アルスは試作一号を見る。
使わなかった。
でも、不要だったわけではない。
今日の傷がもっと深ければ。
誰かが二人同時に怪我をしていれば。
リリアの鞄を落としていれば。
その時には必要だった。
シリウスが言う。
「使わないなら薬の枠、もったいなくない?」
アルスが顔を上げる。
「昨日までならそう思ったかも」
「今は?」
「使わないで帰れるなら、それが一番いいものもある」
レインが頷く。
「予備ってそういうものだね」
アイリスも続ける。
「魔石も同じです。全部使い切る前提なら、もう予備ではありませんから」
シリウスが少し考える。
「つまり、空振りで正解?」
「空振りって言い方は変だけど、近いかな」
リリアが笑った。
その日の午後、実習内容は変更された。
森の深い側へは入らない。中継地点の周囲で、装備の点検、簡単な索敵、負傷者が出た場合の移動方法を確認する。
オークとの接触があった以上、無理に予定を続ける必要はない。
シリウスは少し残念そうだった。
「もう森入らないのか」
アイリスが見る。
「さっきまで追いかけられていましたよね?」
「それとこれは別」
「同じです」
レインが笑う。
「今日はもう十分じゃない?」
シリウスは森を見る。
「まあ、足も少し痛いしな」
リリアがすぐ反応した。
「少し?」
「本当に少し」
「見せてください」
「さっき見たじゃん」
「歩いた後に悪くなっていないか確認します」
「はい」
完全に逆らわなくなっていた。
アルスはそのやり取りを見ながら、少し面白く感じる。
森に入る前は、それぞれの役割を自分たちで説明できた。
レインは前衛。
シリウスは斥候。
アイリスは後衛攻撃。
リリアは回復。
アルスは周囲を見る。
でも実際に外へ出ると、そんな一言では足りなかった。
シリウスは足跡を見る。
レインは戦う場所を選ぶ。
アイリスは敵を倒すのではなく進路を変える。
リリアは傷だけではなく疲労を見る。
アルスは魔素を見るだけでなく、全員の位置を見る。
役割は同じでも、中身が増えている。
午後の訓練では、一人が動けなくなった場合を想定した。
最初の負傷役はシリウス。
「なんで俺?」
レインが答える。
「足痛いって言ったから」
「本当に歩けるぞ」
「訓練だから」
「納得いかない」
それでも地面へ座る。
条件は右足を使えない。
五人でどう移動させるか。
アルスとレインで肩を貸す。
やってみる。
歩きにくい。
シリウス自身の荷物まで持ったままでは、三人ともすぐに動きが遅くなる。
アイリスが言う。
「荷物を分けた方がいいですね」
シリウスの鞄を外す。
レインの荷物も一部下ろす。
リリアが持つ。
それでも重い。
アルスは試作一号を見る。
「一枠空いてる」
シリウスの鞄全部は入らない。
でも、重い物だけなら。
水筒。
予備食。
小さな金属器具。
それらを五つ目の空き固定点へまとめる。
外へ残る鞄が軽くなる。
アイリスが持つ。
「かなり違います」
レインもシリウスを支え直す。
「これなら動ける」
シリウスが支えられながら言う。
「俺を入れられれば一番楽なのに」
全員が止まった。
リリアが即答する。
「生き物は入れません」
「冗談だよ」
アルスも言う。
「試さないよ」
「分かってるって」
ティアの研究室でも、生物を使った境界試験は禁止していた。
便利になったからといって、何でも入れる道具ではない。
むしろ、できることが増えるほど、やらないことも決める必要がある。
負傷者移動の訓練は何度か繰り返した。
今度はレイン。
次はアイリス。
体格。
装備。
持っている武器。
人が変われば、運び方も少し変わる。
最後にリリアが負傷役になった時、シリウスが言った。
「リリアが動けなくなると困るな」
「どうしてですか?」
「回復する人いなくなる」
全員が少し黙った。
それは当たり前のことだった。
でも。
今まであまり考えていなかった。
回復役が倒れた時。
誰が回復役を回復するのか。
アルスが言う。
「薬を全員が使えるようにした方がいい」
リリアが頷く。
「簡単な処置なら、全員できた方がいいと思います」
レインも続ける。
「収納魔道具の薬も、リリアしか場所を知らない状態はまずいね」
アルスが試作一号を開く。
予備薬。
一番。
それを全員で確認する。
リリアが言う。
「止血用。消毒用。痛み止め。種類が分からなくならないようにしましょう」
シリウスが中を見る。
「一枠に全部入ってるの?」
「小袋で分けています」
「暗い場所でも分かる?」
今度はリリアが止まった。
アルスも見る。
色だけでは。
夜。
見づらい。
「触って分かるようにする?」
アイリスが言う。
「袋の形を変えるとか」
レインも言う。
「紐の結び方でもいいかも」
リリアは少し考えてから頷いた。
「帰ったら作り直しましょう」
アルスは記録板へ書く。
――薬品識別を視覚だけに依存しない。
収納魔道具の改善点が、また一つ増えた。
でも。
今度は魔法陣ではない。
外装でもない。
中に入れる物の使い方。
道具単体ではなく。
それを使う人間側の準備。
夕方。
二日目最後の食事を取る。
昨日のような特別な温かい料理はもうない。
普通の保存食。
シリウスが少し残念そうに噛む。
「昨日の飯、良かったな」
レインが笑う。
「今日もあったら良かった?」
「毎日欲しい」
アルスが言う。
「じゃあもっと入るようにしないと」
「作ろう」
「簡単に言うね」
「研究するのアルだし」
「君も手伝うでしょ」
「そうだった」
アイリスが言う。
「でも、本当に容量は欲しくなりますね」
リリアも頷く。
「五枠で足りない場面が、もう出ています」
アルスも同じことを考えていた。
試作一号。
リンゴ五個。
それが最初の目標だった。
できた。
そして。
実際に外へ持ってきたら。
すぐに足りなくなった。
失敗ではない。
使ったから。
次に欲しいものが見えた。
それは。
研究室で数字だけ見ていた時とは違う。
夜。
見張りの順番は昨日より均等にした。
アルスが二回連続になることもない。
シリウスの足も悪化していない。
オークの反応もない。
森は静かだった。
交代前。
アルスとレインが並んで周囲を見ている。
レインが小さな声で言う。
「今日、怖かったね」
アルスは少し驚いた。
レインは戦っている時。
かなり落ち着いて見えた。
「怖かった?」
「うん」
「そう見えなかった」
「アルも」
アルスは自分の右腕を見る。
小さな傷。
「あの棒が横を通った時は怖かった」
「僕は最初に振り下ろされた時」
少し笑う。
同じだった。
レインが続ける。
「でも、怖いから逃げるって悪いことじゃないんだなって思った」
「うん」
「前は、前衛なら逃げちゃ駄目だと思ってた」
アルスはレインを見る。
「今は?」
「逃げるために前に立つこともある」
今日。
まさにそうだった。
オークを倒すためではなく。
全員が離れるために。
レインは前へ立った。
アルスは少し考えてから言う。
「それ、レインらしいね」
「そう?」
「うん」
レインは少し笑った。
「アルも逃げる時まで観察してたけどね」
「してた?」
「ずっと後ろ見てた」
「追ってくるか見ないと」
「そういうところ」
何がそうなのかは。
聞かなかった。
しばらく。
二人で森を見る。
何も起きない。
それでいい。
翌朝。
三日目。
帰還の日。
荷物をまとめる。
使った物。
残った物。
壊れた物。
全部を確認する。
試作一号の中。
予備薬。
残った。
予備水。
少し使った。
予備魔石。
使わなかった。
空き枠。
一度、負傷者移動訓練で使った。
アルスは記録する。
――予備薬、未使用。
――予備魔石、未使用。
そこで一度止まる。
以前なら。
使わなかったものは。
役に立たなかったものとして書いていたかもしれない。
今日は違う。
その下に。
――未使用の予備も、使用可能な状態で保持すること自体に意味がある。
シリウスが覗く。
「長い」
「分かるように書いてる」
「使わなかったけど必要、でよくない?」
アルスは少し考える。
「それでもいいな」
「採用?」
「意味は同じ」
シリウスが得意そうに笑った。
三日間。
収納魔道具の中には。
最後まで使わなかったものがある。
戦闘でも。
何もしていない時間がある。
見張りでも。
何も起きなかった時間がある。
でも。
使わなかった。
起きなかった。
戦わなかった。
それらは。
何もしていないのとは違う。
準備して。
見て。
選んだ結果。
何も起きなかった。
五人は荷物を背負う。
学園へ戻る道。
三日前より。
少しだけ同じ荷物が軽く感じた。




