第64話 森で選ぶこと
翌朝、実習経路の変更が正式に伝えられた。
昨日、アルスたちが見つけた痕跡の先で大型の魔物が確認されたらしい。ただし詳しい説明はなかった。種類も、数も、生徒にはまだ伝えられない。
シリウスが小さな声で言う。
「やっぱり何かいたんだな」
「いたことは分かった。でも、昨日見た跡の主と同じかは分からないよ」
アルスが答えると、シリウスは「ああ、そうか」と頷いた。
分からないところを勝手に埋めない。昨日覚えたばかりのことだった。
二日目の後半は、変更された経路を使って森の浅い区域を巡回する。目的は魔物を探すことではなく、地形の確認と班行動の継続だった。
五人は昨日と同じ順番で森へ入った。シリウスがやや前、レインがその後ろ。アルスが中央に入り、アイリスとリリアが後方を支える。
ただ、昨日とは少し違う。
シリウスは前へ出る距離を短くしていた。レインも前だけではなく、時々アルスたちの位置を確認している。アルス自身も魔素へ集中しすぎず、仲間の歩き方や周囲の地形を見るようにした。
しばらくは何もなかった。
鳥の声もある。小動物の気配もある。昨日のような不自然な静けさは感じない。
「今日は普通だな」
シリウスが言った。
「普通って分かるようになっただけかもしれないよ」
レインが答える。
「それちょっと嫌だな。昨日まで普通じゃない場所を普通だと思って歩いてた可能性あるってことだろ」
「あるね」
「言わなきゃよかった」
アイリスが笑う。その空気のまま、五人は森の中を進んだ。
昼前、地形が少し変わった。木の密度が下がり、右側に緩い斜面が続いている。左は低い草が広がり、その先に細い沢が見えた。
シリウスが沢の方向を見て足を止める。
「水ある」
レインも地図を見る。
「休憩地点はもう少し先だけど、位置だけ確認しておこうか」
沢へ直接下りることはせず、高い場所から流れを見る。水量は少ない。濁りも目立たない。
アルスは腰の試作一号へ触れた。予備水はまだ使っていない。今日も普通の水筒で足りている。
収納魔道具は便利だったが、あるからといって何でも頼る必要はない。それも少しずつ分かってきた。
「行こう」
レインの声で再び歩き始める。
その数分後だった。
アルスが最初に足を止めた。
「待って」
四人が止まる。
何かがいる。昨日ほど曖昧ではない。木々の向こうから、はっきりと大きな魔素の反応が近付いてくる。
シリウスがすぐ低い声になる。
「方向は?」
「前。少し左」
「近い?」
「昨日の跡より、ずっと近い」
レインが周囲を見る。
右は斜面。左は沢。後ろは今歩いてきた道。正面には木が多い。
「戻る?」
アイリスが聞く。
「まず戻ろう」
レインが答えた。
全員が反転する。
走らない。けれど速い。
十歩ほど戻ったところで、後ろから枝の折れる音がした。
一度。
もう一度。
昨日聞いた小さな生き物の音とは違う。
重い。
シリウスが振り返る。
「来てる」
木の間から何かが見えた。
大きい。
人に似た形。
でも人ではない。
緑がかった厚い皮膚。太い腕。体格はアルスたちより明らかに大きい。その手には、粗末だが十分に武器になる太い木の棒が握られている。
シリウスが息を呑む。
「オーク」
資料で見た姿と一致する。
昨日の大きな足跡。折れた木。幹についた傷。
それを見た瞬間、アルスの中で昨日の情報が一つに繋がった。
でも、今は確認している場合ではない。
オークはこちらを見た。
そして走り出した。
「戻る!」
レインの声。
五人も速度を上げる。
戦えるかどうかではない。まず距離を取る。
シリウスならオークより速い。アルスもレインも走れる。だが五人全員で移動するなら、速い人間だけの速度では動けない。
リリアの荷物。
アイリスの杖。
全員の足場。
森の中。
レインが前を見ながら言う。
「右の斜面、上がれる?」
シリウスがすぐ確認する。
「行ける。でも荷物あると遅い」
「左は?」
「沢。足取られる」
後ろからまた音。
距離が縮まる。
アルスが振り返る。オークは速い。直線なら、いずれ追い付かれる。
「このままだと来る」
レインが頷いた。
「なら場所を選ぶ」
少し先。木が二本、狭い間隔で立っている。その周囲だけ地面が比較的平らだった。
レインが指す。
「あそこ」
五人が走り込む。
木を背負わない。逃げ道は残す。オークが一度に自由に振り回せる幅を狭くする。
レインが荷物を外した。
「ここで一度止める」
シリウスも鞄を下ろす。
「倒す?」
「逃げるために止める」
その言葉で、全員の目的が揃った。
レインが前。
アルスがその右。
シリウスは左側へ回れる位置。
アイリスとリリアが後ろ。
オークが近付く。
木の棒を振り上げる。
「来る!」
レインは受けなかった。
横へ避ける。
棒が地面へ叩き付けられた。
鈍い音。
土が飛ぶ。
アルスは思わず一歩引いた。
あれを剣で正面から受けるのは危ない。
オークが棒を持ち上げる。その間にレインが浅く踏み込み、腕へ剣を当てた。
深くは入らない。
皮膚が厚い。
「硬い!」
オークがレインを追う。
アルスが横から入る。
足。
身体強化。
蹴る。
オークの膝が少し崩れる。
でも倒れない。
むしろ振り向いた。
「アル!」
アイリスの声。
アルスはすぐ下がる。
次の瞬間、棒が横を通った。
風が顔へ当たる。
遅れていたら。
そう考える暇はない。
オークがアルスを追おうとしたところで、シリウスが反対側から動いた。
石を投げる。
頭ではない。
肩。
当たる。
オークがそちらを見る。
「こっち!」
シリウスはすぐ離れる。
攻撃というより、視線を奪った。
レインが言う。
「それでいい!」
オークが一人を追えば、他が空く。
でも、誰も深く入らない。
アイリスが杖を向ける。
火球。
小さい。
狙いはオークではない。
足元。
地面へ当たり、火花と土が上がる。
オークが反射的に止まった。
その隙にアルスたちは距離を取る。
「今なら離れられる?」
リリアが聞く。
レインが後ろを見る。
道は空いている。
「行こう!」
全員が動く。
オークは一瞬遅れた。
でもまた来る。
シリウスが後ろを見ながら走る。
「まだ追う!」
アルスも反応を確認する。
強い。
近い。
「来てる!」
レインが言う。
「もう一回止める!」
今度は五人とも迷わなかった。
戦って勝つためではない。
距離を作るため。
場所を選ぶ。
動きを止める。
離れる。
それだけ。
二度目は、一度目より少し速かった。
レインが正面へ出る。
オークが棒を振る。
避ける。
アイリスが横から火を見せる。
オークの視線が動く。
シリウスがその逆から足元へ石を蹴り込む。
アルスは正面へ出ず、オークの動く方向を見る。
左。
一歩。
二歩。
そこで。
オークの足元に木の根。
「レイン、右!」
レインが動く。
オークが追う。
根を踏む。
体がわずかに傾く。
アルスがそこへ肩を当てた。
倒すつもりではない。
姿勢をさらに崩す。
オークが片膝をつく。
「離れる!」
五人が一斉に走った。
今度は。
かなり距離が開いた。
それでもしばらく走る。
誰も止まらない。
アルスは魔素の反応を確認し続ける。
近付かない。
少しずつ。
弱くなる。
「止まったかも」
シリウスが聞く。
「本当?」
「少なくとも近付いてない」
さらに歩く。
まだ止まらない。
森の中継地点へ続く道が見える。
そこでようやく。
速度を落とした。
リリアが最初に言った。
「全員、怪我を確認します」
シリウスが地面へ座り込む。
「今?」
「今です」
「分かった」
レイン。
腕。
問題なし。
シリウス。
昨日処置した踵。
少し痛む。
アイリス。
問題なし。
リリア。
問題なし。
アルス。
「右腕」
リリアが言った。
アルスが見る。
自分では気付いていなかった。
袖。
少し裂けている。
さっき棒を避けた時。
木の枝に引っ掛けたらしい。
皮膚にも浅い傷。
「全然気付かなかった」
「そういうものです」
リリアが処置する。
アルスは腰の試作一号を見る。
予備薬は。
まだ使わない。
リリアの通常分で足りる。
でも。
もし。
もっと大きな怪我だったら。
もし。
薬が足りなかったら。
そこにある。
今日初めて。
収納魔道具の中の薬が。
ただの試験用品ではなく感じられた。
レインが少し離れた場所で剣を見る。
「斬れなかった」
シリウスが言う。
「皮膚硬かったな」
「うん。でも無理して倒しに行かなくて良かった」
アイリスが杖を下ろす。
「私も攻撃そのものはほとんどしていません」
アルスが言う。
「でも二回止まった」
アイリスの火。
シリウスの牽制。
レインの位置。
リリアの後方確認。
アルスの感知。
誰か一人が。
決定的な一撃を入れたわけではない。
でも。
全員が帰れる距離を作った。
シリウスが少し笑う。
「倒してないけど、勝った?」
レインは考えてから首を振る。
「勝ったっていうより、目的は達成したかな」
「目的?」
「全員で離れること」
シリウスが頷く。
「じゃあそれでいい」
五人は中継地点へ戻る。
昨日より。
報告する内容は具体的だった。
オーク一体。
武器あり。
こちらを追跡。
交戦。
二度距離を取り。
離脱。
現在位置は不明。
全員軽傷以下。
アルスは、自分たちが倒していないこともそのまま伝えた。
報告が終わると。
五人は少し離れた場所へ座った。
シリウスが水を飲む。
「昨日より怖かった」
レインも頷く。
「僕も」
アイリスが言う。
「でも昨日戻ったから、今日は少し違いましたね」
アルスが見る。
「何が?」
「危ないと思ったら離れていいって、もう分かっていました」
確かに。
もし昨日。
大きな足跡を見つけた時。
無理に先へ進んでいたら。
今日とは違ったかもしれない。
準備もない。
地形も見ていない。
相手が何かも分からない。
今日は。
見えた。
追われた。
そして。
必要な時だけ戦った。
リリアが静かに言う。
「戦うことと、逃げることは反対ではないんですね」
レインが頷く。
「逃げるために戦うこともある」
アルスはその言葉を覚えておく。
戦闘。
勝つ。
負ける。
資料では。
そう分けて考えやすい。
でも。
現実は。
もっと途中が多い。
追い払う。
止める。
守る。
離れる。
時間を稼ぐ。
全員で帰る。
アルスは記録板へ書いた。
――オーク一体と接触。
――追跡を受けたため交戦。
――討伐を目的とせず、離脱距離確保を優先。
――地形を利用し二度行動を阻害。
――全員離脱。
その下。
少し考える。
――戦闘の目的は、敵を倒すこととは限らない。
最後にもう一行。
――先に目的を決めれば、必要な戦い方も変わる。
シリウスが横から読む。
「今日は結構戦ったのに、それを書くんだな」
アルスが笑う。
「戦ったから分かったんだよ」
森の中には。
まだオークがいる。
昨日の痕跡の主と。
今日の一体が同じなのかも分からない。
それを確認するのは。
今の五人の仕事ではない。
五人は。
全員戻った。
今日は。
それで十分だった。




