第63話 森に残る違和感
フォレストウルフと別れてから、五人の歩き方は少し変わった。
速くなったわけではない。
むしろ、少し遅くなった。
シリウスは前へ出すぎない。
レインは時々後ろを見る。
アイリスは杖を握ったままではなく、必要な時だけすぐ構えられる位置へ置いている。
リリアは誰か一人だけを見るのではなく、全員の歩き方を順番に見ている。
アルスも、魔素の動きだけを追うのをやめていた。
木。
地面。
音。
四人。
その全部を見る。
それでも、見落とすものはある。
だから五人でいる。
それが、さっきより少しだけ実感として分かっていた。
しばらく歩くと、シリウスがまた手を上げた。
今度は急ではない。
少し前から何かを見ていたらしい。
「どうした?」
レインが小さな声で聞く。
シリウスは足元を指した。
「これ」
地面。
土がめくれている。
一本。
二本。
細い木の根が途中で切れていた。
アイリスがしゃがむ。
「踏まれた?」
「たぶん」
アルスも見る。
人の足跡ではない。
フォレストウルフとも違う。
もっと大きい。
深い。
そして。
歩幅も広い。
レインが言う。
「大きいね」
シリウスが自分の靴を横に置く。
「俺の倍くらいある」
リリアが周囲を見る。
「一つだけですか?」
「分からない」
シリウスは少し先へ進む。
地面。
草。
木の幹。
一つずつ見る。
「同じのが続いてる」
アルスは魔素へ意識を向ける。
さっきのフォレストウルフのような明確な反応はない。
でも。
何か。
変な感じがする。
「アル?」
レインが気付く。
「何かある?」
「まだ分からない」
「何か感じる?」
アルスは少し迷ってから頷く。
「近くじゃないと思う。でも、こっち側だけ魔素の流れが乱れてる」
シリウスが見る。
「魔物?」
「分からない」
そればかり。
でも。
分からないことを。
分からないまま言う方がいい。
ティアにも何度も言われた。
分かった気になるな。
レインが地図を見る。
「この先に何かある?」
アルスも覗く。
細い沢。
少し開けた場所。
その先。
また森。
実習経路は。
そこを通る。
アイリスが言う。
「迂回できますか?」
「できるけど、かなり遠回りになる」
シリウスが言う。
「足跡だけで変える?」
レインはすぐには答えなかった。
アルスも。
考える。
一つ。
大きな足跡。
周囲の魔素。
少し乱れている。
でも。
敵そのものは見えない。
近付いてくる反応もない。
「もう少し情報を取る?」
アルスが言う。
「近付かない範囲で」
レインが頷く。
「それがいいと思う」
シリウスが先へ出る。
今度は一人では行かない。
レインも少し後ろを付いていく。
アルスたちは距離を保つ。
数分後。
二人が戻る。
シリウスの顔が。
さっきより真面目だった。
「木が折れてる」
「どのくらい?」
アイリスが聞く。
「細い枝じゃない。俺の腕くらいの太さ」
レインも続ける。
「それと、削れた跡がある」
「削れた?」
アルスが聞く。
「木の幹」
レインが手で高さを示す。
アルスの胸より少し上。
「何か硬いものが当たったような跡」
シリウスが言う。
「牙かもしれないし、武器かもしれない」
そこで。
全員が少し黙る。
武器。
その言葉だけで。
意味が変わる。
ただの獣ではない可能性。
アイリスが言う。
「人ですか?」
シリウスは首を振る。
「足跡が人じゃない」
リリアが言う。
「魔物が武器を持っている?」
レインが答える。
「いるよ」
学園で習った。
人型。
知能。
武器を使うもの。
オーク。
ゴブリン。
それ以外にも。
種類はある。
アルスは。
資料でしか見たことがない。
シリウスが言う。
「足跡の大きさなら、ゴブリンじゃないと思う」
レインも頷く。
「僕もそう思う」
アイリスの表情が少し変わる。
「オーク?」
誰も即答しない。
でも。
全員。
同じものを考えた。
アルスは。
もう一度。
周囲を見る。
今まで。
森の音だった。
鳥。
虫。
葉。
風。
でも。
一つだけ。
気付く。
「静かじゃない?」
シリウスが振り返る。
「何が?」
「鳥」
全員。
耳を澄ます。
確かに。
少ない。
さっきまでは。
もっと。
あちこちから聞こえていた。
今は。
遠い。
レインが言う。
「いつから?」
「分からない」
アルスは。
それが少し怖かった。
変化に気付いた。
でも。
いつ変わったか分からない。
つまり。
気付くまでに時間がかかった。
シリウスも。
森の上を見る。
「俺も見てなかった」
アイリスが言う。
「足元ばかり見ていました」
リリアも頷く。
「私もです」
一つを見つけると。
そこばかりを見る。
それで。
他の変化を落とす。
アルスは。
記録したくなった。
でも。
今は。
周囲を優先する。
レインが言う。
「戻る?」
今度は。
さっきより判断が重い。
ここから先へ行く。
あるいは。
一度。
中継地点へ戻る。
目的は。
実習。
危険な魔物を倒すことではない。
アルスは言う。
「先生たちに知らせた方がいいと思う」
シリウスもすぐ頷いた。
「俺も」
アイリス。
「はい」
リリア。
「同じです」
レインも頷く。
「戻ろう」
決まった。
戦わない。
確かめすぎない。
戻る。
五人は。
来た道をそのまま戻り始める。
でも。
今度は。
進む時より。
速くない。
走らない。
背中を向けて逃げるような動きもしない。
シリウスは。
時々後ろを見る。
アルスも。
魔素の乱れが。
近付いていないか確認する。
距離。
まだある。
たぶん。
でも。
確信はない。
それが。
逆に気持ち悪い。
しばらく戻ったところで。
リリアが言った。
「止まってください」
全員が止まる。
「どうした?」
アルスが聞く。
リリアは。
シリウスを見る。
「足」
シリウスが自分の足を見る。
「何?」
「少し引きずっています」
本人は。
気付いていなかった。
シリウスが片足を上げる。
「痛くはない」
「靴を見せてください」
脱ぐ。
靴の内側。
踵。
少し赤い。
擦れている。
アイリスが言う。
「さっきまで大丈夫でしたよね」
シリウスが笑う。
「緊張して歩き方変わったかも」
リリアが薬を出す。
「まだ軽いです。今のうちに処置します」
アルスは。
腰の試作一号へ触れる。
薬は。
中にもある。
でも。
普段使う分は。
リリアの鞄。
だから。
今はそれを使う。
予備を。
使わない。
それでいい。
リリアが処置しながら言う。
「この状態で走っていたら、もっと悪くなっていました」
シリウスが少し苦い顔をする。
「戻るって決めて正解だったな」
レインが言う。
「違う意味でもね」
少し休む。
呼吸。
水。
靴の調整。
それから。
また歩く。
アルスは。
さっきより。
五人の足元を見るようになった。
敵。
森。
それだけではない。
味方の状態。
自分たちが。
歩き続けられるか。
そこも。
見る。
中継地点へ戻る途中。
今度は。
アルスが先に気付いた。
「止まって」
全員が止まる。
遠く。
後ろ。
さっきまで。
乱れているだけだった魔素が。
少し。
強くなった。
「来てる?」
シリウスが聞く。
「分からない。でも近くなった気がする」
レインがすぐ言う。
「少し急ごう」
走らない。
でも。
速度を上げる。
隊列。
崩さない。
シリウスは。
足を庇いながらも。
歩けている。
アルスは。
試作一号の位置を確認する。
薬。
水。
魔石。
空き二つ。
何かあれば。
使える。
でも。
使わずに戻れるなら。
それが一番いい。
しばらくして。
前方。
木々の隙間。
石壁が見えた。
中継地点。
シリウスが息を吐く。
「見えた」
誰も。
まだ笑わない。
中へ入る。
周囲にいる教員へ。
すぐ報告する。
大きな足跡。
折れた木。
幹の傷。
鳥の声の減少。
魔素の乱れ。
人型に近い可能性。
オークかもしれない。
ただし。
姿は見ていない。
アルスは。
そこを強く言った。
「確認はしてません」
報告を受けた教員は。
頷く。
「それでいい」
短い返事だった。
確かめに行かなかったこと。
それ自体を。
否定されない。
五人は。
少し離れた場所で待つことになった。
シリウスが言う。
「倒してこいって言われるかと思った」
レインが笑う。
「実習だからね」
「でも、こういう時に戦うんじゃないの?」
アルスは少し考える。
「必要なら、じゃない?」
アイリスも言う。
「見つけたものを全部倒す実習ではありませんから」
リリアがシリウスの足を見る。
「今のあなたが走ったら、それだけでも危険です」
「それは言わないでほしかった」
「言います」
そこへ。
少し離れた場所で。
大人たちが動き始める。
何人か。
装備を整える。
森へ向かう。
五人は。
その姿を見ていた。
自分たちでは。
確かめなかった。
代わりに。
情報を持ち帰った。
シリウスが小さく言う。
「なんか、逃げたみたいな気もするな」
レインが答える。
「逃げたんじゃなくて戻ったんだと思う」
「同じじゃない?」
アルスが言う。
「違うよ」
シリウスが見る。
「何が?」
「目的が違う」
アルスは。
自分でも。
言いながら整理する。
「怖くて何も考えず離れたなら逃げた。でも今回は、分からないものを見つけて、情報を持って戻るって決めた」
少し間。
シリウスが頷く。
「なるほど」
それで。
すぐ完全に納得したわけではない。
でも。
少し表情が変わる。
夕方。
森へ向かった教員たちが戻る。
詳しい話は。
まだ聞かされない。
ただ。
実習経路の一部が変更される。
それだけで。
五人には。
十分だった。
何かは。
いた。
そして。
自分たちが。
無理に確かめる必要はなかった。
その夜。
アルスは記録板を開く。
――大型の足跡を確認。
――木の破損、幹への傷。
――周辺の鳥類の声が減少。
――魔素の乱れを確認。
――対象の姿は未確認。
――危険性を判断し、探索を継続せず中継地点へ帰還。
その下。
一行。
――分からないものを、分からないまま報告する。
少し考える。
もう一行。
――確認することと、近付くことは同じではない。
シリウスが横から読む。
「今日そればっかりだったな」
「何が?」
「戦わない判断」
レインも聞いている。
「でも疲れたね」
アイリスが頷く。
「戦った昨日より疲れた気がします」
リリアが言う。
「ずっと警戒していましたから」
アルスも。
同じだった。
何も起きなかった時間の方が。
長い。
それでも。
頭の中では。
ずっと何かを考えていた。
見えるもの。
見えないもの。
近付くか。
戻るか。
大丈夫か。
違うか。
研究室と。
少し似ている。
分からない。
なら。
一つずつ確かめる。
ただし。
研究室と違うのは。
失敗した時。
壊れるのが。
魔道具だけではないこと。
だから。
確かめ方も。
変わる。
五人は。
その日。
危険な魔物を倒してはいない。
姿さえ。
見ていない。
それでも。
森の中で。
一つ。
新しいことを覚えた。
見つけたからといって。
近付く必要はない。
戦えるからといって。
戦う必要もない。
そして。
戻るという判断も。
前へ進むための一つだった。




