第5話 十歳の朝
八歳を過ぎた頃には、アルスにとって魔法は完全に日常の一部になっていた。
朝起きて、食事をして、本を読み、家族と話す。その合間に魔素を扱う。
特別な訓練という感覚はあまりなかった。
「今日は何してるの?」
庭で手のひらに小さな光を浮かべていると、マリーが後ろから覗き込んできた。
「昨日と同じ」
「毎回そう言いますよね」
「同じことができるか確認してるから」
「飽きません?」
「少し飽きる」
「飽きるんですか」
「うん。でも同じようにできるかは見たい」
マリーは呆れたように笑った。
「坊ちゃまらしいですね」
アルス自身もそう思う。
派手な魔法を使いたい気持ちが全くないわけではない。
火を出す。
風を起こす。
何かを飛ばす。
そういうことができれば面白いだろう。
けれど、できたという一回の結果より、同じことを何度もできる方がアルスには気になった。
九歳になる頃には、光を出す程度ならほとんど失敗しなくなっていた。
強さもある程度調整できる。
指先に小さく灯すことも、部屋を照らせる程度まで明るくすることもできた。
「それ、普通に便利じゃない?」
ある夜、クラウスが言った。
「何が?」
「その光。夜に本読む時とか」
「使ってるよ」
「使ってるのかよ」
「便利だから」
「お前、魔法を何だと思ってるんだ」
アルスは少し考えた。
「使えるもの?」
クラウスは笑った。
「夢がないなぁ」
「兄様は?」
「格好いいもの」
「それは分からない」
「ほら、そこだよ」
横で聞いていたエリシアが笑う。
「二人とも違いすぎるのよ」
「姉様は何だと思う?」
「生活の一部かしら」
「母様と似てるね」
「そう?」
「前にそんな感じのこと言ってた」
家族と話していると、同じ魔法でも見方が違う。
それがアルスには面白かった。
クラウスは強さや実用性を見る。
エリシアは感覚や生活との馴染みを見る。
ソフィアは人との関わりの中で見る。
アルベルトは安全性と責任を先に考える。
自分はどうか。
多分、仕組みを見る。
何が違う。
なぜ違う。
どうすれば同じになる。
それを気にする。
十歳が近づくにつれ、家の中で洗礼式という言葉を聞く回数が増えた。
アルスも昔から知っている。
知らない行事ではない。
ただ、五歳の時とは違う。
前世の知識が戻った今、洗礼式というものを改めて考えるようになっていた。
「洗礼式って、結局何をするの?」
夕食後、アルスは父に尋ねた。
アルベルトは少し意外そうにこちらを見る。
「今さら聞くのか」
「知ってるけど、ちゃんと聞いたことはなかったから」
「そういう意味か」
父は少し考えてから答えた。
「地域によって細かい違いはあるが、基本は社会登録と魔素状態の確認だ」
「魔素状態?」
「感知しやすさ、制御の傾向、身体との相性。そういったものを見る」
アルスはすぐに聞き返した。
「能力が分かるの?」
「全部は分からん」
その返事に少し安心した。
もし十歳で人生のすべてが数字になって出てくるなら、少し不自然に思えたからだ。
「じゃあ何が分かるの?」
「その時点で観測できることだ」
「その時点?」
「ああ。十歳で分かったことが、その人間の一生を決めるわけではない」
アルベルトははっきり言った。
「成長する者もいる。変わる者もいる。逆に、幼い頃に高い評価を受けても伸びない者もいる」
アルスは頷いた。
「じゃあ健康診断に近い?」
アルベルトが少しだけ眉を上げる。
「健康診断?」
前世の言葉が口から出た。
「体の状態を調べるもの」
「ああ。近い部分はあるな」
完全に同じではない。
でも理解するには十分だった。
洗礼式は未来を決める儀式ではない。
その時点の自分を観測する行事。
そう考えると、アルスの興味は一気に増した。
「楽しみになってきた」
ソフィアが笑う。
「緊張しないの?」
「何で?」
「結果が出るでしょう?」
「今の僕の結果でしょ?」
アルスは首を傾げた。
「悪かったら、そこから考えればいいし」
クラウスが向かいから言う。
「本当にお前、そういうところだけ変に落ち着いてるよな」
「兄様は緊張した?」
「した」
「何で?」
「良い結果が欲しいからに決まってるだろ」
「出る結果は変わらないのに?」
「そういう問題じゃない」
アルスには少し分からなかったが、クラウスが言いたいことも理解はできた。
評価される。
結果が出る。
それだけで緊張する人はいる。
自分も当日になればそうなるかもしれない。
十歳の誕生日を越えて数日。
洗礼式の日が来た。
朝。
アルスはいつもより少し早く目を覚ました。
天井を見る。
五歳の朝と同じ部屋。
あの日、突然別の人生の知識が戻った。
それから五年。
自分の手を見る。
もう、あの日よりずっと大きい。
指を動かす。
手のひらに淡い光を出す。
安定している。
消す。
「五年か」
声に出してみると、思ったより短く感じた。
五歳から十歳。
その間に魔法を覚えた。
本を読んだ。
家族と話した。
失敗した。
記録した。
分からないことは減った。
でも、それ以上に分からないことが増えた。
扉が叩かれる。
「アルス坊ちゃま、起きていらっしゃいますか?」
マリーの声。
「起きてるよ」
扉が開く。
「おはようございます」
「おはよう」
マリーは準備された服を持っている。
いつもより少し正式な服だ。
「いよいよですね」
「うん」
「緊張してます?」
アルスは少し考えた。
「今のところはしてない」
「今のところ?」
「行ったらするかもしれない」
マリーが笑った。
「それくらいが普通ですよ」
着替えながら、アルスは窓の外を見る。
空は晴れている。
屋敷の庭も、いつもと変わらない。
世界は普通に動いている。
今日、自分の何かが観測される。
でも、それで世界が変わるわけではない。
結果が何であっても、自分はそのあとも生きていく。
なら、見るだけだ。
十歳のアルスは、そう思って部屋を出た。
洗礼式へ向かうために。




