第4話 少しずつ、分かること
魔法を使えるようになったからといって、アルスの生活が急に変わったわけではなかった。
朝になれば起きる。食事をして、庭へ出て、本を読み、家族と話す。眠くなれば昼寝もする。五歳の身体は、前世で四十年以上生きた知識が戻ったところで五歳のままだった。
むしろ変わったのは、アルスが日常を見る目だった。
「マリー、これって何で浮いてるの?」
「また観測体ですか?」
「だって落ちないから」
マリアンヌは洗濯物を畳みながら、ちらりと浮遊観測体を見る。
「魔素で浮いてる、じゃ駄目ですか?」
「それは知ってる。どうやって浮いてるのかが知りたい」
「そこまで聞かれると私には分かりませんねぇ」
「じゃあ誰に聞けば分かる?」
「観測体本人に聞けばいいんじゃないですか?」
アルスは数秒黙った。
「……そうだった」
マリアンヌが吹き出した。
「坊ちゃま、難しいことを考えてる割に、時々すごく普通ですよね」
「五歳だからね」
「自分で言います?」
そんな会話をしながら、アルスは少しずつ世界の知識を増やしていった。
分からないことは観測体へ聞く。家族へ聞く。本を読む。それでも分からないものは、そのまま残す。
魔法も同じだった。
最初は豆粒ほどの光しか出せなかった。それが少しずつ安定し、指先だけではなく手のひらでも維持できるようになった。
ある日、庭で光を出しているとクラウスが横から覗き込んだ。
「まだそれやってるのか?」
「まだって?」
「ずっと光ってるだけじゃないか」
「前より長く出せるよ」
「そうだけどさ」
クラウスは少し考えるように腕を組んだ。
「火とか出してみたくならない?」
「ならない」
即答すると、クラウスが眉を上げた。
「なんでだよ。火の方が格好いいだろ」
「熱いから」
「そこ?」
「失敗して燃えたら嫌だし」
クラウスはしばらく黙り、やがて笑った。
「アルスらしいな」
「兄様ならやるの?」
「俺ならやる」
「燃えるかもしれないよ?」
「燃えないようにやるんだよ」
話が噛み合っているようで、少し噛み合っていない。
でもアルスは、こういう違いが嫌いではなかった。
クラウスはまず試す。
自分はまず見る。
どちらが正しいという話でもない。
数か月が経つ頃には、アルスは魔素を感じること自体にはほとんど苦労しなくなっていた。
ただ、そこで新しい問題が出た。
魔素を感じられることと、思ったように動かせることは別だった。
「ここまでは来るんだけどな」
アルスは右腕を見ながら呟いた。
魔素を肩から腕へ、腕から手へ流す。そこまでは分かる。だが指先へ集めようとすると、途中で散るような感覚がある。
観測体へ記録を残していると、エリシアが部屋へ入ってきた。
「何してるの?」
「魔素が途中で逃げる理由を考えてる」
「逃げる?」
「手に集めようとすると、薄くなる感じがする」
エリシアは少し考え、アルスの隣に座った。
「力を入れすぎてるんじゃない?」
「力?」
「私も最初そうだったから」
「姉様も?」
「ええ。集めようと思いすぎると逆に散るの」
アルスは眉を寄せる。
「じゃあ、どうするの?」
「流すだけ」
「それが分からない」
エリシアが笑った。
「でしょうね。私も説明できないもの」
「説明できないのにできるの?」
「できるわよ」
「不思議だね」
「そういうものっていっぱいあるでしょう?」
言われて、アルスは納得した。
歩く時に足の筋肉を一本ずつ意識する人はいない。話す時に舌の動きを逐一考えることもない。
できることと、説明できることは別だ。
その日からアルスは「集める」という意識を少しやめた。
腕の中にあるものを、ただ先へ通す。
すると数日後、それまでより明らかに楽に光を維持できた。
「姉様の言ってたこと、本当だった」
夕食の席でそう言うと、エリシアが得意そうに笑った。
「でしょう?」
クラウスが横から口を挟む。
「俺も前に似たようなこと言ったぞ」
「兄様は『気合いで流せ』って言っただけでしょ」
「同じだろ」
「全然違うよ」
「意味は同じだ」
「説明が違う」
「細かいなぁ」
向かい側でソフィアが笑っている。
アルベルトは食事をしながら静かに聞いていたが、ふと口を開いた。
「アルス」
「はい」
「記録するのは良いが、人の言葉をそのまま正解にするな」
アルスは父を見る。
「同じ感覚でも、人によって言葉は違う。お前が自分で再現できた時に初めて、お前にとって使える知識になる」
「うん」
その言葉は素直に理解できた。
同じ魔素を感じていても、父、母、兄、姉で表現が違った。
温度。
流れ。
色。
力。
どれも嘘ではない。
でも、全部が同じ言葉になる必要もない。
そうして一年、また一年と過ぎていった。
アルスは六歳になり、七歳になった。
日常のほとんどは大きく変わらない。
ただ、身体は少しずつ成長した。読める本が増えた。家族との会話も増えた。魔法も、ただ光を出すだけではなくなっていった。
光を弱くする。
明るくする。
場所を少しずらす。
維持時間を変える。
派手なことはしない。
再現できることを増やす。
うまくいかなければ記録して、また試す。
ある時、観測体が過去の記録をまとめて表示した。
五歳の最初の魔法。
数秒だけ灯った小さな光。
そして現在。
アルスは自分の手のひらに浮かぶ安定した光を見比べた。
「結構変わったね」
『はい』
「でも、まだ全然分からない」
『何がでしょうか?』
「ほとんど全部」
観測体は少し間を置いて返した。
『では、これからも記録できます』
アルスは笑った。
「そうだね」
分からないことが減るたびに、新しい分からないことが増える。
それは少しも嫌ではなかった。
むしろ、その方がいい。
全部分かってしまう世界より、ずっと面白い。
アルスが八歳になる頃には、魔法はもう特別な出来事ではなく、日常の一部になっていた。
けれど、十歳になれば一つ大きな節目が待っている。
洗礼式。
幼い頃から何度も聞いてきた言葉だった。
何が起こるのか。
何を見られるのか。
自分に何が分かるのか。
アルスはまだ知らない。
だからこそ、少し楽しみにしていた。




