第3話 答えではなく、記録を
アルスが初めて魔法を使った日の午後、父アルベルトは朝より少しだけ厳しい顔をしていた。
「まず確認する。体に異常はないな?」
「ないよ。少し疲れただけ」
「頭痛は?」
「ない」
「吐き気は?」
「ないよ」
「手足がおかしい感じは?」
「それもない」
アルベルトは一つずつ確認し、隣に座るソフィアを見る。
「本人はこう言っているが」
「私が見た限りでも大丈夫そうです」
ソフィアがそう答えると、アルスは二人を見比べた。
魔法が使えた。そのこと自体より、父と母がまず安全を確認しているのが少し意外だった。
「アルス」
「はい」
「魔法を試すなとは言わない」
アルベルトが続ける。
「ただし、一人で限界を試すのはやめろ」
「限界が分からないから?」
「それもある。魔素を使った疲れは、走った時みたいに分かりやすいとは限らない。平気だと思っていても、急に体調を崩すことがある」
アルスは少し考えた。
「じゃあ、記録した方がいいね」
「記録?」
「何回使ったかとか、どのくらい疲れたかとか。あと、どんな感じだったか」
ソフィアが先に笑った。
「それは良い考えね」
アルベルトも頷く。
「五歳にしては慎重だな」
「危ないのは嫌だから」
本音だった。
使えるから使う。面白いから限界まで試す。そんなやり方では、観測する前に自分が壊れる。
その日の夕方、アルスは自室へ戻ると浮遊観測体を呼んだ。
「記録したい」
『何を記録しますか?』
「今日使った魔法」
観測体の前に淡い光が浮かぶ。
『音声、文章、映像、複合記録から選択できます』
「文章と音声で」
『承知しました』
便利だな、とアルスは思った。
前世なら、紙や端末を用意して、記録方法まで自分で決める必要がある。こちらでは声をかけるだけで始まる。
ベッドの端に座り、アルスは朝の出来事を思い返した。
「最初に魔法を使ったのは今日の朝。庭」
『記録します』
「体の中にある何かを、右手の人差し指へ集める感じで意識した」
言葉にすると、自分の中でも少し整理される。
「最初は全身にある感じだった。血とも違うし、熱とも違う。でも動かせる気がした」
『続けてください』
「指先に集めたら少し温かくなって、そのあと光が出た」
『光の大きさは?』
「豆くらい」
『継続時間は?』
アルスは止まった。
「分からない」
『未測定として記録します』
「それでいい」
その返しが気に入った。
分からないものを無理に埋めない。未測定なら未測定のままでいい。
「終わったあと、少し疲れた。でもどのくらいかは分からない」
『比較基準を設定しますか?』
「比較基準?」
『例えば、走った後、階段を上った後、睡眠不足時など、既知の疲労状態と比較できます』
アルスは少し驚いた。
「そんなこともできるの?」
『可能です』
「じゃあ……庭を少し走った後より軽い」
『記録しました』
やっぱり便利だ。
便利すぎて、前世の知識だけを特別扱いする理由がどんどん減っていく。
地球で知っていた方法。この世界ですでに使われている方法。ポテンシア独自の方法。
そこを混ぜない方がいい。
アルスは少し考えてから言った。
「比較用のメモも作れる?」
『可能です』
「非公開で」
『誰から非公開にしますか?』
「僕以外」
『保護者権限による安全確認項目を除き、個人メモとして設定します』
完全な秘密にはならないらしい。
まあ五歳なら当然か、とアルスは納得した。
「前世知識との比較。魔素の感覚は、昔知っていた“念能力”っていう架空の概念に少し似てる」
『記録します』
「でも、同じものだとは考えない。思い出した概念が近かっただけ」
『記録しました』
アルスは小さく息を吐いた。
これでいい。
似ているから同じ。名前が近いから同じ。
そんな決め方をしたら、せっかくこの世界にいる意味がなくなる。
翌日から、アルスは毎日魔法を使った――わけではなかった。
父に言われた通り、体調が良くて、大人が近くにいる時だけ短時間試した。
最初の数日は、同じ光を出すだけだった。
一度目は出る。
二度目も出る。
三度目は少し明るい。
四度目は途中で消える。
五度目は何も起きない。
アルスは成功した時より、失敗した時の方をよく記録した。
「今日は出なかった」
『体調に変化はありますか?』
「眠い」
『睡眠時間は通常より短いです』
「じゃあ関係あるかもしれない。でも、まだ一回だけだね」
『未確定として記録します』
「うん」
数日後。
「今日は昨日より明るかった」
『前回との差を記録しますか?』
「お願い」
さらに数日後。
「今のはすぐ消えた」
『疲労感は?』
「ほとんどない」
「じゃあ、疲れだけが原因でもなさそうだな」
アルスは一人で結論を出さず、ただ残した。
数週間経つ頃には、光を出すこと自体には慣れていた。
けれど、その頃から別のことが気になり始めた。
毎回、同じにならない。
明るさ。
持続時間。
疲れ方。
魔素を集める感覚。
少しずつ違う。
アルスは観測体の記録を眺めながら呟いた。
「条件が足りないな」
『何の条件でしょうか?』
「それが分からない」
『では未確定ですね』
「そう。それでいい」
アルスは少し笑った。
分からないなら、分からないまま残しておけばいい。
無理に答えを作る必要はない。
魔法は便利だ。
でも、思った通りに何でもできる力ではない。
成功する。
失敗する。
人によって感じ方も違う。
疲れもある。
条件もある。
つまり、調べられる。
それがアルスには面白かった。
季節が一つ進む頃には、魔法が使えること自体への驚きはかなり薄れていた。
代わりに気になることが増えていた。
なぜ使えるのか。
なぜ失敗するのか。
なぜ人によって感じ方が違うのか。
五歳のアルスが使える魔法は、まだ小さな光だけだった。
それでも十分だった。
強くなるより先に、この世界がどう動いているのかを知りたい。
その癖だけは、前世からあまり変わっていなかった。




