第2話 魔法の手触り
マリアンヌに着替えを手伝われ、アルスは食堂へ向かった。
廊下を歩く感覚も、足に触れる絨毯の柔らかさも、曲がり角ごとに置かれた花瓶の位置も知っている。五年間の記憶は確かに自分のものだ。けれど今は、その一つ一つへ別の視点が差し込んでいた。
広い。
静かだ。
整っている。
前世の感覚で言えば、明らかに裕福な家だった。
食堂の扉が開かれると、朝の光が差し込む大きな窓と、その下に伸びる長い食卓が見えた。すでに数人が席についている。
「アルス、おはよう」
最初に声をかけたのは、穏やかな笑みを浮かべた女性だった。
長い金髪を上品にまとめ、柔らかな雰囲気をまとっている。母――ソフィア・フォン・アークライト。五歳のアルスにとっては当たり前に知っている母であり、前世の知識が戻った今のアルスから見ても、すぐに分かるほど育ちの良い貴婦人だった。
「おはようございます、母様」
自然にそう言葉が出た。
ソフィアが少し目を細める。
「今日はずいぶんきちんとしているのね」
「そう?」
「ええ。何だか少し、お兄さんみたい」
その言葉に、食卓の向こう側から鼻で笑う声がした。
「五歳児にしてはって意味だろ」
兄のクラウスだった。
年齢はアルスよりだいぶ上で、体つきはまだ少年のものだが、すでに剣を習っているのが分かる引き締まり方をしている。短めの髪と、やや勝ち気な目。記憶の中でも、よく庭で木剣を振っていた。
「クラウス、そういう言い方はやめなさい」
たしなめたのは、父アルベルトだった。
食卓の上座に座るその男は、言葉数こそ多くないが、部屋の空気を自然に支配していた。広い肩、落ち着いた声、そして家の主としての重さ。幼いアルスにとっては大きな父であり、今のアルスから見ても、鍛えた人間の強さが分かる。
「父様、おはようございます」
「うむ。おはよう、アルス」
短い返事だったが、それで十分だった。
その隣では、姉のエリシアが楽しそうにこちらを見ている。
「アルス、今日は寝癖ついてないわね」
「マリーが直してくれたから」
「ふふ、そうでしょうね」
エリシアは上品に笑った。兄のクラウスとは違い、こちらは柔らかく人をからかうタイプらしい。昨日、一緒に立体絵本を見た記憶もある。優しい姉だ。だが、その優しさの中にしっかりした芯もあることを、幼い記憶の中のアルスはすでに知っている。
席につき、朝食が運ばれてくる。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
卵料理。
果物。
香りの良い茶。
前世の感覚でも十分に豊かだと思える食卓だった。だがアルスは料理そのものより、むしろその場のやり取りに意識が向いていた。
家族の声。
食器の触れ合う音。
窓の外の庭師の気配。
天井近くで静かに浮かぶ家内用の観測体。
全部が、以前までなら何も疑わず流れていく朝の一部だった。
今は違う。
この世界には魔素がある。
魔法がある。
そして、それは空想ではなく現実として生活へ組み込まれている。
アルスはパンをちぎりながら、ふと父を見た。
「父様」
「何だ」
「魔法って、みんな使えるの?」
食卓の空気がほんの少しだけ止まった。
ソフィアが目を瞬かせ、エリシアが面白そうに目を細める。クラウスは「また始まった」と言いたげな顔をした。
アルベルトはすぐには答えず、スープを一口飲んでから口を開いた。
「使える、の定義によるな」
その答えに、アルスの意識が向く。
「定義?」
「魔素は誰の身の回りにもあるし、人の体にもある。だが、それを明確に感じ、意図して扱い、現象として表に出せるかには差がある」
前世の言葉でいえば、才能と訓練。
いや、それだけではないかもしれない。
アルベルトは続けた。
「剣の振り方に上手い下手があるように、魔法にも向き不向きがある。だが、完全に無関係という者は少ない。生活魔法のような簡単なものなら、多くの者が触れる」
「じゃあ、僕も?」
「いずれな」
クラウスが口を挟んだ。
「アルスはまず落ち着いて座って飯を食えるようになってからじゃないか?」
「クラウス」
今度はソフィアの声が少しだけ低くなった。
クラウスは肩をすくめたが、悪意があるわけではなさそうだった。単に兄として茶化しているだけだろう。
アルスは気にせず尋ねる。
「感じるって、どういう感じ?」
その問いには、エリシアが答えた。
「難しいわね。私はね、温度みたいに思うことがあるわ。触っているわけじゃないのに、そこに何かあるって分かる感じ」
「俺は流れだな」
クラウスが言う。
「空気とは別に、動いてるものがある感じ。剣を振る時も、魔法を使う時も、意識すると分かる」
人によって表現が違う。
アルスはそれを面白いと思った。
ソフィアも小さく頷く。
「私は色に近いかしら。もちろん本当に色が見えるわけではないけれど、場所や人によって雰囲気が違うの」
なるほど、とアルスは思う。
同じものを見ていても、感じ方は少しずつ違う。
前世の知識がある今、それは妙に納得しやすかった。人間の感覚の報告は、いつだって主観を含む。
ならばなおさら、実際に確かめたい。
朝食を終えたあと、アルスはソフィアに頼んで少しだけ庭へ出る許可をもらった。マリアンヌが付き添おうとしたが、すぐ近くにいることを条件に、少しだけ自由にさせてもらえることになった。
庭は朝露を含んでいた。
花壇の葉先がきらめき、噴水の水音が静かに響く。空は高く、風は穏やかだ。屋敷の外壁沿いには観測体が数体ゆるやかに浮かび、防犯か連絡か、何らかの役割を果たしているようだった。
アルスは深く息を吸った。
魔素。
この世界の基礎的な存在。
観測体は、それを利用している。
人は、それを感知・制御して魔法を使う。
そして家族の話では、感じ方には個人差がある。
ならば。
アルスは両手を自分の前へ出した。
何をすればいいか、体系的に知っているわけではない。ただ、前世で培った考え方がある。まずは観察。次に仮説。最後に試す。
意識を向ける。
体の外ではなく、中へ。
呼吸。
鼓動。
皮膚。
その内側。
すると、しばらくして奇妙な感覚があった。
ある。
何かが。
血流とも違う。
熱とも違う。
でも、無ではない。
全身にまばらに散っているようでいて、同時に一つの流れとしても感じる。
「……これか?」
アルスは小さく呟いた。
前世の記憶が、勝手に似た概念を探し始める。
気。
オーラ。
念。
その中で一番近いと思ったのは、念能力という言葉だった。自分の内側にある何かを知覚し、それを扱うことで現象を起こす――そういう発想に似ている。
だが、アルスはすぐに頭を振った。
違う。
似ていると思っただけだ。
ここは地球ではないし、これは前世で誰かが作った物語の理屈そのものでもない。
ただ、自分が理解するための比較対象として思い出したにすぎない。
「名前を借りても、答えにはならないか」
むしろ重要なのは、この世界で今、自分が何を感じているかだ。
アルスはもう一度意識を集中させた。
今度は、その内側の何かを、指先へ寄せるように考える。
集める。
流す。
動かす。
できるかどうかは分からない。だが、何もしないままでは始まらない。
すると、右手の人差し指の先が、ほんのわずかに温かくなった。
次の瞬間。
ぽ、と。
淡い光が、小さく灯った。
本当に小さな、豆粒ほどの光だった。
けれど確かに、そこにあった。
アルスは目を見開いた。
「……出た」
歓声は上げなかった。
代わりに、その現象をじっと見た。
小さい。
不安定。
すぐ消えそうだ。
けれど、自分の意志で起こした現象だという感覚がある。
魔法だ。
その認識が胸の内で静かに形になる。
すぐそばで、息を呑む音がした。
振り返ると、少し離れた場所でマリアンヌが目を丸くして立っていた。そのさらに後ろでは、いつの間に来たのかソフィアまでこちらを見ている。
「アルス坊ちゃま……今の……」
「たぶん、魔法」
アルスが答えると、マリアンヌは口元を押さえた。
ソフィアは驚いたまま、それでも柔らかい声で言う。
「初めてでそこまでできたの?」
「初めて、だと思う」
思う、という言い方になったのは、五歳までの自分が無意識に何かをしていた可能性を完全には否定できないからだ。だが、少なくとも今の自分の認識としては、はっきりと意図して起こした初めての現象だった。
ソフィアはアルスの前まで来ると、しゃがんで目線を合わせた。
「何か変わった感じはある? 苦しいとか、疲れたとか」
アルスは自分の体を確かめた。
少しだけ、気が抜けたような感覚はある。だが、倒れるほどではない。
「少し疲れたかも。でも大丈夫」
「そう。なら無理はしないで」
その声音には、驚きと喜び、それから親としての心配が混ざっていた。
マリアンヌはまだ感動が抜けきらない顔で、何度も小さく頷いている。
「すごいです、坊ちゃま。私、ちゃんと見てました」
「見てたんだ」
「はい。お一人にしすぎないようにと思って……でも、邪魔しないように少し離れていたんです」
なるほど、とアルスは思った。見守られていたわけだ。
ソフィアは立ち上がり、穏やかに言った。
「これは父様にも伝えましょう。きっと驚くわ」
「怒られない?」
「どうして怒るの?」
「勝手に試したから」
その言葉に、ソフィアとマリアンヌが同時に笑った。
「確かに、少しは言われるかもしれませんね」とマリアンヌ。
「でも、それ以上に褒められると思うわ」とソフィア。
アルスは小さく息を吐いた。
手のひらを見る。
そこにはもう光はない。
けれど、確かな感触だけは残っていた。
魔法はある。
しかも自分にも扱える。
それは驚くべきことだったが、同時に、ひどく自然なことのようにも思えた。この世界で五年間生きてきた自分にとっては、むしろ今まで実感していなかったことの方が不思議だったのかもしれない。
前世の知識は、比較のために使える。
理解の足場にもなる。
けれど、それだけでは足りない。
実際に感じること。
試すこと。
この世界の仕組みとして捉え直すこと。
その必要を、アルスは改めて確信した。
魔法は、物語の中の奇跡ではない。
この世界では、確かにそこにある現実なのだ。
そして今日、自分はその入口に触れた。
五歳の朝に前世を思い出し、その翌朝には魔法を知る。
随分と変化の激しい人生だと、アルスは少しだけ可笑しくなった。
だが悪くない。
むしろ、いい。
知らないものが多い世界ほど、観測する価値がある。
アルスはもう一度だけ右手を見つめ、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「面白くなってきたな」




