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五歳の朝

アルス・フォン・アークライトは、五年間この世界で生きてきた。


それは特別な五年間ではない。


泣いて、眠って、言葉を覚え、家族の顔を覚えた。父アルベルトの大きな手も、母ソフィアの声も、兄クラウスも、姉エリシアも、ずっと昔から知っている。専属メイドのマリアンヌ――皆がマリーと呼ぶ少女が朝になるとカーテンを開けることも、廊下を曲がった先に大きな階段があることも、食堂へ行けばその日の朝食の匂いがすることも知っていた。


魔素があることも。

空中に浮かぶ観測体があることも。

離れた場所の人と話せることも。

何もない空間に立体映像が浮かぶことも。


全部、アルスにとっては最初から「普通」だった。


五歳のある朝までは。


目を開けた瞬間、アルスは動かなかった。


天井が見える。

見慣れた天井だった。


窓の向こうから朝の光が差し込み、薄いカーテンが揺れている。部屋の隅では、小さな多面体の観測体が静かに浮いていた。淡い光を一度だけ明滅させ、主人が起きたことを認識したらしい。


ここまでは、いつもの朝だった。


なのに頭の中だけが、いつもではなかった。


知らないはずの街。

車。

電車。

スマートフォン。

パソコン。

本。

仕事。

酒。

料理。

研究。

人間関係。

長い時間。


いや、知らないのではない。


知っている。


アルスは布団の中で、自分の右手を持ち上げた。


小さい。

五歳児の手だ。


指を一本ずつ曲げる。問題なく動く。反対の手で頬に触れる。柔らかい。腕も短い。体を起こそうとして、頭の中にある感覚より身体がずっと軽いことに気付いた。


記憶の中の自分は、こんな身体ではなかった。


四十年以上生きていた。


その認識が浮かんだ瞬間、アルスはもう一度横になった。


「……いや、待て」


声まで幼い。


そこで初めて、妙に冷静な自分に気付いた。


知らない場所に突然放り込まれたわけではない。


この部屋を知っている。

家族も知っている。

昨日食べた夕食も覚えている。

庭で転んで膝を擦った日のことも、マリーに抱き上げられて泣いたことも覚えている。


五年間の記憶は消えていない。


そこへ、別の人生が重なっている。


アルスは枕元へ視線を戻した。


観測体が浮いている。


昨日までは、ただの道具だった。


呼べば反応する。

音楽を流せる。

映像を見られる。

家族へ連絡できる。

簡単な質問なら相談AIが答える。


そんなものとして、何の疑問も持たず使っていた。


だが今は違う。


地球には、こんなものはなかった。


スマートフォンに似た役割はある。

カメラにも、通信端末にも、映像再生機にも似ている。

けれど手に持つ必要がない。

勝手についてくる。

空中に映像を出す。


そして、その原理に魔素が使われている。


「……今まで、これ普通だと思ってたのか」


思わず漏れた。


観測体が反応して、正面に小さな光を灯した。


『お呼びですか?』


聞き慣れた音声だった。


アルスは数秒黙った。


これも昨日まで普通だった。


今は、普通ではない。


「いや。まだいい」


『分かりました』


光が消える。


会話が成立した。


その事実だけで、頭の中に大量の疑問が浮かぶ。


人工知能なのか。

魔道具なのか。

自律判断はどこまでできる。

通信先はどこだ。

演算は何で行っている。

そもそも魔素とは何だ。


だが、同時に別の考えが浮かんだ。


いきなり分解するのは馬鹿だ。


自分は五歳児である。

観測体は生活用品である。

壊したら怒られるだろうし、そもそも危険性も分からない。


そしてもう一つ。


この頭の中に戻った知識が、正しいとは限らない。


地球では正しくても、この世界では違うかもしれない。


その確認が先だった。


扉を軽く叩く音がした。


「アルス坊ちゃま、起きていらっしゃいますか?」


マリーだ。


アルスは反射的に「うん」と答えた。


扉が開き、マリアンヌが顔を出す。


見慣れた顔だった。


同時に、地球側の記憶が勝手に比較を始める。


若い。

メイド服。

屋敷。

貴族。


現実ではほぼ触れなかった生活。


それでもアルスの中では、彼女は「知らないメイド」ではない。


泣いた時に抱いてくれた。

眠れない夜に隣にいた。

食事をこぼして服を汚した時、笑いながら着替えさせてくれた。


マリーだ。


「おはようございます。今日は随分お静かですね」


「おはよう、マリー」


マリアンヌが少し首を傾げた。


アルスは考えてから尋ねた。


「昨日、僕は何してた?」


「昨日ですか?」


「うん」


マリアンヌは不思議そうな顔をしたが、すぐに思い出す。


「午前中はお庭で遊んで、お昼のあと少しお昼寝をされて、それからエリシア様と立体絵本をご覧になっていました。夕食の前にはガストンさんのところへ行こうとして、私に止められました」


アルスの記憶と一致した。


厨房へ行けば焼き菓子がもらえると思った。

だが夕食前だから駄目だと言われた。


そこまで思い出せる。


「そっか」


「どうかされました?」


「ううん。確認したかっただけ」


「確認、ですか?」


言い方が五歳児らしくなかったのか、マリアンヌの目が少しだけ細くなる。


アルスはそれ以上説明しなかった。


今ここで「前世を思い出した」と言っても、自分自身が何を思い出したのか整理できていない。


一度口に出せば、周囲の反応まで変わる。


情報は出したら戻せない。


まず、自分で確認する。


「マリー、ちょっとだけこれ使っていい?」


アルスが観測体を指差す。


「もちろんです。朝食までまだ少しありますよ」


マリアンヌが着替えを準備している横で、アルスは観測体へ向き直った。


「質問」


『どうぞ』


「魔素って、何?」


マリアンヌの手が止まった。


五歳児としては珍しくない質問なのだろう。


ただ、今さら聞く内容ではある。


観測体の前に淡い光が広がり、小さな立体図が浮かぶ。


人の身体。

空気。

植物。

魔石。


いくつかの模型が順番に現れた。


『魔素は、この世界の生物、環境、魔法、魔道具などで観測される基礎的な存在です。生物の体内にも、空気中にも分布します。人は魔素を感知・制御することで、さまざまな現象を起こすことができます』


アルスは黙って聞く。


「何でできてる?」


わずかな間。


『完全には解明されていません』


アルスの眉が上がった。


「分かってないの?」


『利用法や性質については多くの研究があります。ただし、魔素そのものの最終的な起源や、すべての現象を統一して説明する理論は確立していません』


面白い。


その感情が、はっきりと浮かんだ。


何でも説明できる世界ではない。


分からないものが残っている。


地球と同じだ。


いや、むしろその方が自然だった。


マリアンヌが後ろから笑う。


「アルス坊ちゃま、朝から難しいことを聞きますね」


「マリーは魔素って何だと思う?」


「えっ、私ですか?」


急に振られて、マリアンヌが困った顔をする。


「ええと……あるもの、でしょうか?」


「あるもの?」


「はい。空気とか、お水みたいな。詳しいことは先生方に聞いた方がいいと思いますけど、私にとっては昔からあるものなので」


アルスは少し笑った。


その答えが、一番しっくりきた。


自分だって昨日までは同じだった。


魔素は「あるもの」だった。


地球の知識が戻ったから、急に説明を求め始めただけだ。


そこに気付いた瞬間、アルスの中で一つだけ整理がついた。


地球の知識は便利だ。

比較できる。

疑問を作れる。

知らないことに気付ける。


でも。


答えではない。


この世界のことは、この世界を見なければ分からない。


「アルス坊ちゃま?」


「うん?」


「本当に大丈夫ですか?」


マリアンヌが心配そうに顔を覗き込む。


アルスはその顔を見て、五歳の身体で自然に笑った。


「大丈夫。ちょっと、知りたいことが増えただけ」


「……また変なことを始めませんよね?」


「まだ何もしてないよ」


「『まだ』って言いましたね?」


マリアンヌの返しが早かった。


アルスは思わず笑った。


前世の記憶が戻っても、この朝は続いている。


朝食の時間になれば母が待っている。

家のどこかには父がいて、兄と姉もそれぞれの生活をしている。

厨房ではガストンが料理を作り、セバスは屋敷全体を動かしている。


世界は、自分が何かを思い出したからといって止まらない。


なら、急ぐ必要もない。


まず見る。

知る。

比べる。


それから考える。


五歳のアルスに、地球で生きた四十年以上の知識が戻った朝。


彼が最初に得た答えは、何か特別な力ではなかった。


――自分は、この世界をまだ何も知らない。


それだけだった。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

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