第145話 進む前に戻り道を見る
数日後。
朝の男子寮で、アルスは制服ではなく実習用の服へ着替えていた。
机の上には小さな鞄、水筒、筆記具。それに簡単な救急用品。ダンジョンへ行く時と比べればずっと少ない荷物だが、今日は教室で授業を受ける日ではない。
廊下へ出ると、レインも同じ格好だった。
「準備できた?」
「うん」
少し離れた部屋からシリウスも出てくる。
「今日は外だ!」
朝から機嫌がいい。
レインが笑う。
「授業だよ」
「教室じゃないだけで違う」
三人で男子寮を出ると、共有談話室の前でアイリスとリリアと合流した。五人とも軽装で、杖や訓練用の武器も持っている。
今日の授業は学院敷地の外を使った実地訓練だった。
目的地は王都近郊の小さな森林。
危険な魔物がほとんど出ない場所で、教師が事前に安全確認もしている。課題は単純だった。
指定地点まで行く。
途中に設置された三つの標識を記録する。
制限時間内に出発地点へ戻る。
教師は集まった生徒たちへ説明した。
「速さだけを競う訓練ではない。迷わず帰ることまで含めて評価する。道中の判断も記録しろ」
アルスたち五人は顔を見合わせた。
シリウスが小さく言う。
「これ、俺たちかなり有利じゃない?」
アイリスが答える。
「だからといって油断しないでください」
数人ずつの班に分かれる。
アルスたちは、いつもの五人で一班になった。
教師から簡単な地図を渡される。
描かれているのは大まかな地形だけ。
森。
小川。
低い丘。
目的地点。
細かな道までは書かれていない。
レインが地図を見る。
「まずどうする?」
シリウスが答える。
「行く」
「その前」
「ああ」
シリウスも笑う。
以前なら、本当に先へ行っていたかもしれない。
五人は出発地点の周囲を見る。
学院方向に見える塔。
遠くの丘。
小川の流れ。
森の縁。
太陽の位置。
アルスは地図へ書き込む。
「帰る時に見える景色も確認しよう」
五人は一度、進行方向とは逆を向いた。
出発地点を見る。
木。
岩。
学院の塔。
行く時と帰る時では景色が違う。
中級ダンジョンへ向かった六日間で何度もやったことだった。
近くの別班がすでに森へ入っていく。
シリウスが見る。
「みんな早いな」
レインは気にしない。
「僕たちも行こう」
五人は歩き始めた。
最初は草地。
難しい場所ではない。
小川を右手に見ながら森の入口を目指す。
シリウスが先行し、アルスが周囲を見る。レインは全体の速度を合わせ、アイリスとリリアも足元や周囲を確認しながらついてくる。
森へ入る直前、一つ目の標識を見つけた。
木へ取り付けられた青い板。
記号を記録する。
時間も書く。
「一個目」
シリウスが言う。
そのまま森へ入った。
道らしい道はある。
ただし細い。
人が歩いた跡。
複数。
どれが訓練用の正しい道なのかは分からない。
少し進むと分岐。
左。
右。
シリウスが地面を見る。
「どっちも人が通ってる」
アルスも見る。
今日は多くの生徒がいる。
足跡。
当てにならない。
レインが地図を確認する。
「目的地点は北寄り」
アルスが周囲を見る。
木の間から丘。
少し見える。
右。
「右の方が近そう」
アイリスが聞く。
「左は?」
「小川へ戻る感じがする」
リリアが言う。
「帰り道として使えるかもしれませんわね」
それ。
重要。
右へ行く。
でも。
左。
捨てない。
アルスは分岐を記録した。
右を進む。
数分後。
倒木。
道。
塞ぐ。
越えることはできる。
でも。
地面。
濡れている。
その先。
斜面。
シリウスが言う。
「行けるな」
レインは少し考える。
「帰りも?」
全員が倒木を見る。
行き。
下る。
簡単。
帰り。
上る。
濡れた斜面。
疲労。
加わる。
シリウスがすぐ言い直した。
「やめよう」
五人は分岐まで戻った。
左。
小川方向。
少し遠回り。
でも。
平坦。
歩きやすい。
アイリスが言う。
「ダンジョンへ行く前なら、たぶん倒木を越えていましたね」
アルスもそう思う。
「目的地に近い方を選んでたかも」
レインが笑う。
「今は帰りまで考える」
二つ目の標識は、小川を渡る浅い場所の近くにあった。
黄色い板。
シリウスが記録する。
小川。
深くない。
石。
並ぶ。
五人は渡る前に流れを見る。
水量。
石の安定。
滑り。
問題なし。
一人ずつ渡る。
反対側へ着いてから、アルスが振り返る。
帰り。
同じ場所。
使える。
今の状態なら。
ただし。
雨。
降れば。
変わる。
空を見る。
晴れ。
今日は大丈夫そう。
さらに進むと、森が少し開けた。
低い丘。
そこに三つ目の標識。
赤。
そして、その先。
目的地点。
教師が設置した小さな旗が見える。
シリウスが言う。
「着いた」
まだ。
終わりではない。
時間を記録。
周囲を確認。
そして。
帰る。
レインが聞く。
「同じ道?」
アルスは地図を見る。
来た道。
安全。
確認済み。
別の道。
ある。
でも。
試す理由。
ない。
「同じでいいと思う」
シリウスも異論なし。
五人は戻り始めた。
行きより速い。
理由は単純。
分かっている。
浅瀬。
左。
分岐。
森の出口。
それでも確認はする。
変化。
なし。
倒木のある近道へは入らない。
森を抜けると、学院の塔が見えた。
出発前に確認した景色。
「合ってる」
リリアが言う。
そこからは迷わない。
出発地点へ戻ると、すでに何班か帰ってきていた。
まだ戻っていない班もいる。
教師が五人の記録を受け取った。
「全員無傷だな」
レインが答える。
「はい」
「道中で問題は?」
アルスが倒木の場所を説明する。
近道。
通行可能。
ただし濡れた斜面があり、帰路を考えて迂回。
教師が聞いた。
「なぜ帰りに別の道を探さなかった?」
シリウスが答える。
「行きで安全だって分かってる道があったから」
教師は頷いた。
「その判断でいい」
少しして。
別の班が戻ってくる。
泥。
付いている。
怪我。
ない。
でも。
一人。
靴。
かなり濡れている。
どうやら帰りに別ルートを選び、小川の深い場所へ出たらしい。
シリウスが小さく言った。
「行ける道と、戻れる道は違うな」
アルスが見る。
前にも。
同じ。
言った。
でも。
今度。
ダンジョン。
ではない。
普通の森。
同じ考え方。
使える。
全班が戻った後、教師が記録を見ながら説明を始めた。
最速の班。
一番遅い班。
途中で道を変えた班。
迷った班。
いろいろ。
でも。
教師は順位を出さなかった。
「今日の課題で一番危険なのは、目的地点へ着いたことで終わったと思うことだ」
アルスたち五人は静かに聞く。
「実戦でも探索でも、帰還できなければ失敗だ。目的を達成した後ほど判断が雑になる。疲労もある。集中も切れる」
中級ダンジョン。
探索終わり。
野営地。
戻るまで。
何度も。
同じ。
教師が続ける。
「行きに安全だった場所が帰りも安全とは限らない。しかし、未知の道へ入る必要がないなら、確認済みの経路には価値がある。最短と安全は同じではない」
授業が終わった。
王立学院へ戻る道。
シリウスが言った。
「今日、楽だったな」
アイリスが見る。
「距離が短かったからですか?」
「違う。何すればいいか分かったから」
レインも頷く。
「ダンジョンで何回もやったからね」
リリアが言う。
「経験があると、考える余裕が増えますわね」
アルスもそう感じていた。
初めて中級ダンジョンへ向かった時。
何を見る。
何を記録する。
どこで止まる。
一つずつ考えた。
今日は。
かなり。
自然。
できた。
学院へ戻った後、五人は共有談話室へ寄った。
シリウスが椅子へ座る。
「でもさ」
「何?」
「他の班見て思ったんだけど、俺たち普通じゃなくなってない?」
アイリスが少し笑う。
「中級ダンジョンへ行って戻ってきたのですから、経験は違いますね」
「そうじゃなくて、分岐見るとまず帰り考えるだろ?」
レインが答える。
「悪いことじゃないよ」
「まあな」
アルスは少し考える。
普通。
変わる。
経験。
増える。
昨日まで考えなかったことを、今日から自然に考える。
それなら。
普通。
ずっと。
同じではない。
「たぶん、これが今の僕たちの普通になったんだよ」
シリウスが笑った。
「じゃあ次は?」
アルスも笑う。
「それはまだ分からない」
夕方、アイリスとリリアが女子寮へ戻り、三人も男子寮へ向かった。
廊下でレインとシリウスと別れ、アルスは自室へ入る。
今日は研究室へ行かなかった。
鉱石も見ていない。
魔道具にも触っていない。
でも。
一つ。
確認できた。
中級ダンジョンで身についたものは、ダンジョンの中だけで使う技術ではない。
進む前に。
戻れるかを見る。
危険な場所へ行かない。
分からない道を、理由もなく選ばない。
アルスは今日の実習記録を机へ置いた。
明日の準備をしてから、窓の外を見る。
男子寮の窓に、少しずつ灯りが増えている。
誰かが帰ってきて。
誰かが勉強して。
誰かが話している。
ここも。
帰る場所。
そのことを確認してから。
アルスは窓を閉じた。




