第140話 寮へ戻る日
長期休暇の終わりが近付き、アルスはアークライト家の自室で荷物をまとめていた。
中級ダンジョンへ向かった時と比べれば、ずっと少ない。制服、普段着、本、筆記具。それから研究に使う最低限の資料。収納魔道具も持っていくが、今度は旅ではないので水や薬を詰め込む必要はなかった。
マリアンヌが畳んだ服を鞄へ入れながら聞く。
「本当にこれだけでよろしいのですか?」
「寮に置いてあるものもあるから大丈夫」
「お菓子は?」
「なくても大丈夫」
「ガストンさんから預かっています」
「じゃあ持っていく」
返事が早かったせいか、マリアンヌが笑った。
机の端には、中級ダンジョンから持ち帰った記録の写しが置いてある。原本の多くはギルドへ渡し、鉱物や金属片も学院で調査中だ。だから今、アルスが持っていくのは必要な部分だけだった。
以前なら全部手元に置きたかったかもしれない。
今は違う。
必要な情報は他の場所にも残っている。自分だけが全部を持つ必要はない。
「アルス様」
部屋の入口からセバスが声を掛けた。
「馬車の準備が整いました」
「分かった。ありがとう」
荷物を持って階下へ降りると、ソフィアが待っていた。
「忘れ物はありませんか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「確認したから大丈夫」
ソフィアはまだ少し心配そうだったが、それ以上は言わなかった。休暇中に中級ダンジョンまで行ったことを考えれば、学院の寮へ戻るだけで心配するなという方が無理なのかもしれない。
アルベルトも玄関まで来ていた。
「次に戻る時まで、研究だけで生活を埋めるなよ」
アルスは一瞬止まる。
「父上まで言う?」
「昨日の様子を見ていればな」
エリシアが横で笑った。
「みんな同じことを思ってるってことよ」
クラウスも頷く。
「食事と睡眠は研究より先だ」
「分かったよ」
何人に言われるのだろう。
アルスは少し笑いながら家族へ挨拶し、馬車へ乗った。
屋敷から学院までは、中級ダンジョンへの旅とは比べるまでもない。整った道を馬車で進み、窓の外には王都の建物と人の流れが続いている。
それでもアルスは、曲がる場所や通りの幅を自然に見てしまう。
中級ダンジョンで身に付いた癖は、まだ残っていた。
王立学院の門を通る。
休暇を終えた生徒たちが、少しずつ戻ってきている。荷物を抱える者、家族と別れる者、久しぶりに会った友人と話す者。授業が始まる前の学院には、普段とは少し違う賑やかさがあった。
アルスは校舎ではなく、男子寮へ向かった。
石造りの建物。何度も使った入口。廊下には同じように戻ってきた生徒たちの声が響いている。
自分の部屋を開ける。
ベッド。
机。
本棚。
小さな収納棚。
休暇前とほとんど変わっていない。
アルスは鞄を机の横へ置き、少しだけ部屋を見回した。
アークライト家の自室よりずっと小さい。でも、学院へ入ってからはここも生活する場所になっている。
朝起きて制服に着替える。
授業へ行く。
夜に戻る。
机で本を読む。
研究のことを考えすぎて時間を忘れる。
そういう日常の場所。
「アル!」
廊下から声がした。
扉を開けると、レインがいた。荷物を持ったままなので、彼も戻ったばかりらしい。
「レイン。今来たところ?」
「うん。アルも?」
「さっき」
レインが部屋の中を少し見る。
「ダンジョンの資料、持ってきた?」
「必要な分だけ」
「全部じゃないんだ」
その言い方で、何を言いたいのか分かる。
アルスは笑った。
「僕も少しは変わったよ」
「それならよかった」
そこへ廊下の向こうから、さらに声が飛んできた。
「二人とももう来てた!」
シリウスだった。
大きめの鞄を肩へ掛け、その反対の手にも袋を持っている。
レインが聞く。
「荷物多くない?」
「食い物」
「ほとんど?」
「半分くらい」
アルスが言う。
「ガストンの料理、今度食べに来る?」
シリウスが止まった。
「行く」
早い。
「いつ?」
「今度」
「今度っていつ?」
「まだ決めてない」
「決まったら最初に俺に言って」
中級ダンジョンで最後の料理を食べた時、本当に礼を言うと言っていた。どうやら忘れていないらしい。
三人で荷物を置いた後、寮を出て共有談話室へ向かった。
男子寮と女子寮の間にある場所で、授業の後や休日には生徒たちが集まる。机と椅子が並び、壁際には本棚もある。五人で話す時にも使いやすい場所だった。
中へ入ると、アイリスとリリアがすでにいた。
アイリスが三人を見て言う。
「やっぱり一緒に来ましたね」
シリウスが聞く。
「予想してた?」
リリアが微笑む。
「男子寮で会えば、そのまま来ると思っていましたわ」
五人。
久しぶりというほど離れてはいない。
それでも全員が学院の服を着て談話室へ集まると、中級ダンジョンにいた時とはまるで違って見える。
剣も杖も持っていない。
荷物もない。
周囲を警戒する必要もない。
ただの学生。
シリウスが椅子へ座る。
「明日から授業か」
アイリスが言う。
「嫌そうですね」
「休み終わるのは嫌だろ」
「ダンジョンには毎日行っていたのに?」
「それと授業は別」
レインが笑う。
アルスも椅子へ座った。
机の上には何もない。
地図も。
探索記録も。
魔物の素材も。
今は必要ない。
リリアが聞く。
「次に中級ダンジョンへ行くのは、いつになるのでしょう」
レインが少し考える。
「しばらく先でいいと思う」
アイリスも頷いた。
「調査結果も待ちたいですね」
シリウスがアルスを見る。
「ティア先生が先に行ったりして」
「止められてると思う」
「止まる?」
「……分からない」
全員が笑った。
中級ダンジョンの続きはある。
収納魔道具の研究もある。
古い採掘施設の調査もある。
小型二足魔物のことも残っている。
でも、それらは全部、明日やらなければならないことではない。
明日は授業。
学院で学ぶ。
友人と過ごす。
寮へ戻る。
その生活もまた、アルスの人生の一部だった。
話が終わり、女子寮へ戻るアイリスとリリアと別れる。男子寮へ戻る途中、シリウスが大きく欠伸をした。
「今日は早く寝る」
レインが言う。
「珍しいね」
「明日朝起きないといけないから」
「いつも起きてるでしょ」
「休暇は違う」
そんな話をしながら三人は廊下で別れた。
アルスが自分の寮室へ戻ると、窓の外は少し暗くなり始めていた。
机の上に明日の教科書を置く。
制服を掛ける。
持ってきた本を本棚へ戻す。
それだけで、部屋がまた自分の生活する場所へ戻っていく。
アルスはベッドへ腰掛けた。
屋敷には屋敷の日常がある。
学院には学院の日常がある。
そして今は、こちら。
明日の朝になれば、寮の廊下に生徒たちの足音が増え、いつもの学院生活が始まる。
中級ダンジョンから帰ってきたアルスたちも。
また学生へ戻る。
ただし。
出発する前とまったく同じ五人ではなかった。




