第117話 見えない場所をどう見るか
翌朝、アルスたちは昨日見つけた地下水域へ向かった。
入口からの道は、もうかなり身体に入っている。最初の広間、分岐、三叉路。そして中央の下り道。だからといって警戒を省くことはない。シリウスが先頭で足元を見て、アルスが魔素を探り、レインが全体を確認する。
地下水域へ着く。
昨日と同じように、水面は静かだった。
広い窪地の底に水が溜まり、その奥は暗くてよく見えない。天井から落ちる水滴だけが、時々小さな波紋を作っている。
シリウスが水面を見ながら言った。
「昨日のやつ、まだいる?」
アルスは目を閉じるようにして魔素へ意識を向ける。
「いる。一つ。昨日とだいたい同じ場所」
「大きい?」
「反応だけなら大きい。でも、水の中だから形は分からない」
レインが水際を見る。
「近付かない方がいいね」
誰も反対しなかった。
昨日は反応を確認しただけで戻った。今日は、もう少し調べる。でも、水へ入るつもりはない。
まず距離。
水際から数歩下がった場所。
そこから観察する。
アイリスが小石を拾った。
「投げてみます?」
シリウスが少し嬉しそうに言う。
「やろう」
レインが止める。
「待って。刺激するなら退路を確認してから」
一度、全員が後ろを見る。
通路。
十分広い。
戻れる。
足元。
滑りにくい。
戦闘になっても、入口側まで下がれば五人で形を作れる。
「じゃあいいよ」
アイリスが小石を水面へ投げる。
ちゃぷん。
小さな音。
波紋。
しばらく何も起きない。
シリウスが言う。
「反応なし?」
アルスは魔素を見る。
「少し動いた」
水中の反応が、ゆっくり移動する。
水面。
変化。
ほとんどない。
でも。
下では。
何かが動いている。
「見えないのにいるの、嫌だな」
シリウスが呟く。
その感覚はアルスも同じだった。
洞窟。
暗い。
でも、地上の魔物なら姿を見ることができる。
水中。
違う。
見えている水面より下に、空間がある。
そこへ自分たちの目は届かない。
アルスは前世の記憶を思い出す。
魚群探知機。
音。
反射。
水中カメラ。
でも、それはこの世界でそのまま使える答えではない。
「魔素で輪郭を取れないかな」
レインが見る。
「できそう?」
「分からない。今までは存在を感じるだけだったから」
アルスは少し意識を変える。
強さ。
位置。
だけではなく。
広がり。
動き。
どこまで反応が続いているか。
集中する。
一つ。
太い。
長い?
いや。
分からない。
水そのものにも魔素がある。
岩にもある。
重なる。
「難しい」
アルスが小さく言う。
リリアが聞く。
「普段より見えにくいのですか?」
「うん。水越しだからなのか、水の魔素と混ざるからなのかも分からない」
つまり。
水中だから見えない。
とはまだ言えない。
条件を分ける必要がある。
シリウスが水面を見る。
「じゃあ、もっと浅いところで試したら?」
アルスが止まる。
「浅いところ?」
「小さい水場とか。底が見える場所で、目で見た形と魔素で感じる形を比べればいいだろ」
少し沈黙。
アルスが笑う。
「それいい」
シリウスも笑う。
「俺、研究者向いてる?」
アイリスが即答した。
「調子に乗らないでください」
「一回くらい褒めろよ」
でも。
考え方は正しい。
見えないものを、いきなり見ようとするのではなく。
見える条件で比べる。
その後。
見えない条件へ持っていく。
前世でも。
この世界でも。
観測の基本は変わらないのかもしれない。
その時。
水面。
揺れた。
全員の視線が集まる。
中央。
大きな波。
次。
何かが一瞬だけ水面へ出る。
黒い背。
長い。
すぐ沈む。
シリウスが一歩下がる。
「でかい」
アルスも見た。
全部ではない。
一部だけ。
でも。
少なくとも昨日想像したより長い。
レインが言う。
「魚型?」
「分からない」
アルスはすぐ答える。
背しか見ていない。
魚。
蛇。
水棲の獣。
可能性。
いくらでもある。
名前も付けない。
そのまま観察を続ける。
水中の魔物は、しばらくゆっくり動いた後、また深い位置へ戻った。
こちらへ来ない。
今のところ。
攻撃性も不明。
アイリスが言う。
「通らなくても探索できますよね」
レインが周囲を見る。
地下水域。
正面。
水。
でも、右側。
岩壁沿いに細い足場がある。
昨日は暗くてよく見えなかった場所。
シリウスが気付く。
「あそこ、歩けるんじゃない?」
全員で見る。
幅。
狭い。
でも、一人ずつなら通れそう。
問題は。
水のすぐ横。
もし。
水中魔物が襲ってきたら。
避けにくい。
レインが言う。
「今は使わない方がいい」
シリウスも今回はすぐ頷いた。
「さすがに嫌だな」
戦えるか。
ではない。
襲われた時に。
戻れるか。
そこ。
だった。
アルスは地下水域の地図へ、細い足場を書き加える。
ただし。
未使用。
危険度不明。
それだけ。
今日。
ここを無理に進む必要はない。
三叉路へ戻る。
まだ。
左の道。
残っている。
前回。
遠くに複数の魔素反応があった方向。
シリウスが言う。
「次は左?」
レインが頷く。
「水中は今日は十分見た」
アルスも同意する。
五人は三叉路へ戻り、今度は左へ入った。
通路は今までより少し広い。天井も高い。足元は乾いている。
ただ。
アルスにはすぐ分かった。
「いる」
複数。
遠く。
昨日より。
近い。
「何体?」
レインが聞く。
「七……いや、もっといるかも」
シリウスが眉を上げる。
「多いな」
それでも。
今の位置。
逃げられる。
進む。
慎重。
しばらくして。
音。
聞こえる。
硬いもの。
岩を叩くような音。
一度。
二度。
間隔。
不規則。
シリウスが言う。
「戦ってる?」
アルスは魔素を見る。
複数の反応。
動いている。
でも。
全部。
同じ場所。
近付く。
さらに。
匂い。
土。
獣。
そして。
声。
低い鳴き声。
通路の先。
広い空間。
五人は入口で止まる。
中。
小型の魔物。
かなり多い。
昨日まで見た四足魔物とは違う。
二足。
小柄。
細い腕。
手には。
石。
骨。
簡単な道具のようなものを持っている個体もいる。
シリウスが小声で言う。
「これ、群れっていうか……」
レインも続けない。
アルスは見る。
一体。
二体。
七。
八。
さらに奥。
もっといる。
でも。
こちら。
まだ。
気付いていない。
魔物同士。
何かしている。
石を割る。
物を運ぶ。
食べる。
寝ている。
ただ集まっているだけではない。
アルスは少し息を止めた。
「生活してる」
アイリスが小さく言う。
「そう見えますね」
ここで。
戦う。
理由。
ない。
むしろ。
今。
近付く方が危険。
レインがすぐ判断する。
「戻ろう」
全員。
静かに。
下がる。
シリウスも。
反対しない。
数。
多い。
それだけではない。
今までと。
少し。
意味が違う。
敵として配置された魔物。
ではない。
ここを。
使っている。
可能性。
アルスは十分離れてから記録する。
小型二足魔物。
複数個体。
少なくとも八体以上。
石・骨などを使用。
広間を継続的に利用している可能性。
戦闘なし。
接触なし。
そして。
名前。
付けない。
まだ。
知らない。
入口へ戻る途中。
シリウスが言った。
「初心者ダンジョンだったら、あれ全部敵だったよな」
レインが答える。
「たぶんね」
「ここは違う?」
アルスは少し考える。
「違うというより、まだ分からない」
敵かもしれない。
危険かもしれない。
こちらを見れば襲うかもしれない。
でも。
だからといって。
今見た行動まで。
全部。
戦闘のため。
と決める必要はない。
リリアが言った。
「観察してからですね」
「うん」
その言葉。
今の五人には。
かなり自然になっていた。
外へ戻る。
今日は。
水中魔物。
地下水域。
細い足場。
そして。
群れで生活しているように見える魔物。
昨日より。
新しい情報。
多い。
でも。
戦闘。
ゼロ。
シリウスが野営地へ戻りながら笑った。
「今日は一回も剣使ってないな」
レインも笑う。
「でも探索は進んだ」
アルスは頷く。
倒した数。
それが。
探索の進み具合。
ではない。
知らなかったことが。
どれだけ。
分かったか。
今日は。
かなり進んだ。
アルスは記録の最後に書いた。
――見えないものは、無理に近付いて見る必要はない。
――まず、見える条件を作る。
そして。
もう一行。
――魔物を見つけたことと、戦う理由ができたことは同じではない。
中級ダンジョンへ入ってから。
戦わない判断が。
少しずつ。
増えていた。




