第108話 覚えた道を外れる
四日目の朝は、雨の音で始まった。
激しくはない。ただ、夜明け前から細い雨が途切れず降り続いている。アルスがテントから顔を出すと、昨日より川の音が大きくなっていた。
「増えてるね」
すでに起きていたレインも川を見る。
「昨日、案内役が言ってた通りだ」
自分たちの野営地では、夜中に強い雨は降っていない。それでも上流の雨が流れ込み、水位は昨日より明らかに高くなっている。
シリウスも起きてきて川を見た。
「昨日もっと近くにテント張ってたら嫌だったな」
アイリスが後ろから言う。
「嫌、で済めばいいですけど」
リリアも水面を見る。
「夜のうちに増えたら、気付くのが遅れることもありますものね」
案内役はすでに荷物をまとめ始めていた。
今日は早く動くらしい。
朝食は簡単に済ませる。雨具を出し、荷物へ水が入らないよう包み直す。収納魔道具は濡れてもすぐ壊れるものではないが、だからといって雑に扱う理由にはならない。
アルスは最後に昨日の野営地を振り返った。
川。
岩場。
林。
昨日とは、もう少し違って見える。
水位。
色。
音。
同じ場所でも状態が変わる。
出発してしばらくは、川沿いを進んだ。
雨で足元が滑る。
昨日なら普通に踏めた石でも、今日は危ない。
シリウスが前を歩きながら言う。
「罠より面倒だな」
レインが聞く。
「何が?」
「罠は見つけたら避ければ終わり。でも地面全部滑る」
アルスも同意する。
「しかも昨日と状態が違う」
初心者ダンジョンでも地形はあった。
でも。
昨日安全だった床が、雨で滑りやすくなることはない。
野外。
変わる。
その変化そのものを見なければならない。
昼前。
案内役が止まった。
前。
川。
そして、本来なら渡る予定だったらしい浅瀬。
ただし。
今日は。
浅くない。
水。
速い。
濁っている。
シリウスが見る。
「ここ渡るの?」
案内役は首を振った。
「今日は無理だ」
五人の表情が変わる。
予定していた道。
使えない。
レインが聞いた。
「別の渡れる場所がありますか?」
「ある」
安心しかける。
でも。
案内役は続けた。
「遠い」
シリウスが聞く。
「どれくらい?」
「半日以上」
少し沈黙。
アルスは地図を出した。
大きな川。
自分たちの位置。
本来の進行方向。
そして。
迂回。
「上流?」
案内役が頷く。
「橋がある」
シリウスが地図を覗き込む。
「載ってない」
「古い橋だ」
アルスが聞く。
「壊れてる可能性は?」
案内役が見る。
「ある」
それで。
全員分かった。
迂回すれば。
必ず渡れる。
ではない。
でも。
ここは渡れない。
なら。
別を探す。
レインが言う。
「行きましょう」
案内役が歩き始める。
川沿い。
上流。
本来の道から外れる。
その瞬間。
アルスは少しだけ緊張した。
昨日まで。
帰り道。
覚えていた。
今日。
その道を。
使わなくなる。
「ここから記録増やそう」
アルスが言う。
レインも頷く。
「うん。帰りに同じ浅瀬が使えるとは限らない」
つまり。
新しい道。
それも。
帰路候補。
五人は、昨日まで以上に周囲を見る。
川。
常に右。
それだけなら。
簡単。
でも。
川は曲がる。
岩。
林。
斜面。
似た場所が続く。
シリウスが途中で言った。
「川沿いなら迷わない気もするけど」
アルスが答える。
「どっちへ歩けばいいか分からなくなったら困る」
「上流と下流?」
「それも。あと、川から離れないといけない場所が出るかもしれない」
実際。
少し先。
崖。
川沿い。
通れない。
案内役は迷わず左へ曲がった。
川から離れる。
木々。
増える。
川の音。
少しずつ小さくなる。
シリウスが後ろを見る。
「ほら、もう見えない」
レインが言う。
「ここ大事だね」
入口。
目印。
岩。
一本。
黒い。
その奥。
三本並んだ細い木。
さらに。
地面。
緩い上り。
アルスが記録する。
ただし。
昨日学んだ。
木だけには頼らない。
「斜面を下れば川。黒い岩が補助」
リリアが言う。
「雨でも川の音が聞こえますわ」
アイリスも頷く。
「帰りは音の方が先に分かるかもしれません」
進む。
林の中。
雨。
葉。
地面。
柔らかい。
靴。
沈む。
シリウスが何度か足を取られる。
「これ、疲れるな」
レインが言う。
「歩く速度落とそう」
誰も反対しない。
予定。
遅れる。
でも。
速く歩いて怪我をする方が悪い。
案内役も。
速度を落としている。
午後。
雨は少し弱くなる。
それでも。
地面は変わらない。
途中。
小さな斜面。
下。
泥。
シリウスが先に足を出しかけ。
止めた。
「これ滑る」
案内役が見る。
何も言わない。
シリウスは少し横へ移動する。
木。
根。
石。
そこを使う。
「こっちの方がいい」
レインが続く。
アルス。
アイリス。
リリア。
最後。
案内役。
今度は。
案内役ではなく。
シリウスが選んだ場所を。
全員が通った。
シリウスが少しだけ嬉しそうに言う。
「合ってた?」
案内役が答える。
「落ちなかっただろ」
「それ褒めてる?」
「結果は出てる」
シリウスが笑う。
少しずつ。
教えられる。
ではなく。
自分で選ぶ。
その割合が増えている。
さらに一時間ほど進んだところで。
林が切れた。
前。
小さな谷。
そして。
古い石橋。
シリウスが言う。
「あった」
全員。
少し安心する。
でも。
近付かない。
橋。
古い。
苔。
一部。
欠けている。
水。
下。
速い。
案内役が先に見る。
橋の端。
中央。
反対側。
それから。
小石を投げる。
アルスは少し笑った。
「ダンジョンみたい」
シリウスも同じことを思ったらしい。
「罠チェック?」
案内役が答える。
「落ちる橋を渡りたいなら、そのまま行け」
二人とも黙る。
橋。
壊れてはいない。
ただ。
一度に全員は渡らない。
荷物も。
少しずつ。
最初。
案内役。
渡る。
問題なし。
次。
シリウス。
いつもの勢いで行こうとして。
レインに肩を掴まれる。
「ゆっくり」
「分かってる」
一歩。
一歩。
渡る。
反対側。
到着。
次。
レイン。
アルス。
アイリス。
最後。
リリア。
全員。
渡った。
その瞬間。
誰も大きなことは言わない。
でも。
少しだけ。
空気が緩んだ。
渡れた。
予定の道。
外れた。
でも。
進めた。
レインが橋を振り返る。
「帰り、これ使えるかな」
アルスも見る。
「今日使えたからって、帰りもとは限らないね」
案内役が初めてこちらを見る。
「そう思えるなら覚えとけ」
それだけ。
夕方。
本来の道へ戻る頃には。
予定よりかなり遅れていた。
今日は。
あまり距離が伸びていない。
でも。
誰も。
失敗とは思っていなかった。
川。
増水。
浅瀬。
使用不可。
上流。
迂回。
林。
橋。
そして。
本来の進路へ復帰。
全部。
記録。
レインが言う。
「今日の方が覚えること多かったね」
アイリスも。
「予定通りではなかったからでしょうね」
アルスは頷く。
予定通り。
なら。
案内役の後ろを歩くだけでも。
進める。
でも。
予定が崩れる。
その時。
自分達が何を知っているか。
何を見ているか。
必要になる。
今日の野営地は。
小さな丘の下だった。
雨。
ほぼ止んだ。
風。
弱い。
水場。
少し遠い。
アルスが魔素を見る。
近く。
反応なし。
シリウスが足元。
周囲。
問題なし。
五人は設営する。
疲れている。
昨日より。
確実に。
時間も。
掛かった。
夕食。
シリウスは何も言わずアルスを見る。
アルスも見る。
少し。
笑う。
「今日は疲れた日でいいよ」
シリウスが両手を上げた。
「やった!」
アイリスが笑う。
「今日は認めます」
収納魔道具。
ガストンの料理。
残り。
半分ほど。
温かい。
五人。
食べる。
レインが言う。
「これ、本当に助かるね」
リリアも頷く。
「身体が温まりますわ」
今日は。
雨。
泥。
迂回。
橋。
何時間も。
歩いた。
だから。
温かいもの。
昨日以上に。
意味がある。
アルスは食べながら。
また一つ記録したくなる。
でも。
今日はやめた。
覚えている。
帰ってからでも。
書ける。
今は。
食べる。
休む。
夜。
今日の経路を五人で確認する。
地図。
本来の道。
使えなかった浅瀬。
迂回路。
石橋。
再合流地点。
シリウスが言う。
「帰りに川が下がってたら、浅瀬使う?」
レインが少し考える。
「状態見て決める」
アルスも同意する。
「橋を覚えたから、選択肢が二つになった」
そこで。
全員。
少し止まった。
昨日まで。
道を覚える。
それは。
一本の帰路を作ることだと思っていた。
でも。
今日。
違った。
道を覚えるほど。
選べる。
川。
渡れる。
浅瀬。
使う。
無理。
橋。
回る。
橋。
壊れている。
別を探す。
知っていることが増えるほど。
一つの道に縛られなくなる。
案内役は少し離れた場所で。
また。
何も言わず聞いていた。
アルスは地図を見る。
今日。
予定より。
進まなかった。
でも。
帰るために使える道は。
昨日より。
増えていた。




