銀の留め具
翌週、二人は王都の水利資料館の奥まった閲覧室で、古い河川図面を広げていた。
静まり返った閲覧室に、突如として革鎧の金具が擦れ合う荒々しい足音が響き渡った。
「へえ、休暇で戻ってみれば、あの『雷光の魔導伯』が他国の留学生の小間使いをしてるって噂は本当だったわけだ」
青い稀色の豊かな髪を無造作に束ねた女性が、軍用の図面筒を小脇に抱えて仁王立ちしていた。腕に巻かれた分厚い魔石篭手は、幾度もの実戦を物語るように縁が白く擦り減っている。
エドガーは驚くよりも先に、苦笑しながら眉間に指を当てた。
「アイリス……いつ王都へ戻ったんだ」
「今朝だよ。返納命令が出た国境の地図を運ばされたのさ。せっかくの休暇だってのに」
アイリスと呼ばれた女性は机の上の資料を遠慮なく覗き込み、唇を尖らせた。
「同じ相手のために、三度も書庫から資料を運び出すなんて、学院にいた頃のエドガーからは想像もつかないね」
「調査に必要な資料だからだ」
「はいはい、調査ね」
即座に返された軽薄な調子に、クラウディアは手元の図面へ視線を落とした。下の名前で親しげに呼び合っている。
エドガーが短く紹介を入れる。
「アイリス・ウェイクフィールド。魔導学院時代の同期で、国境の砦の第二小隊長を務めている」
クラウディアが立ち上がって礼を取ると、アイリスは彼女の手を躊躇なく握り締め、至近距離からその顔をしげしげと見つめた。
「河口の泥濘をエドガーと一緒に引っ掻き回してる王国の留学生でしょ。知ってるよ。……なるほどね」
「何が、でしょう」
「エドガーが分かりやすい理由が、だよ」
クラウディアの指先から、図面の端が滑り落ちそうになる。
エドガーが追加の水路台帳を取ってくると言って閲覧室を出ていき、重い扉が閉ざされた瞬間、アイリスは腕を組んで単刀直入に切り込んできた。
「単刀直入に聞くけどさ。ハルトブルク嬢、エドガーのこと好きなの?」
「……唐突に、何を仰るのですか」
クラウディアは慌てて図面を折り畳み直そうとしたが、折り目が不自然にずれてしまう。
「肯定しないんだね」
アイリスは落ちかけた図面を素早く受け止めると、悪戯っぽい瞳を細めた。
「じゃあ、私がエドガーの隣に立っても文句はないわけだ?」
「それは……」
否定の言葉を口にすればいいだけなのに、声が喉の奥で固まって出てこない。アイリスはその様子をじっと見つめた後、ふっと息を抜いた。
「……私じゃさ、せいぜい砦で背中を預け合って、一緒に泥水をすするのが関の山だよ。境衝地の小隊長やってる低位貴族がしゃしゃり出たって、あいつが背負わされた厄介な箔を、宮廷の連中から守ってやれやしない。あいつまで一緒に笑われるのは、見たくないからね」
アイリスは机の上の図面へ視線を落とし、丹念に引かれた水路の線と数字を指先でなぞった。
「あいつの隣にはさ、ちゃんと並んで一緒に戦える奴が立ってくれないと困るんだよ。泥をかぶるのを怖がらないで、あいつの横でしっかり前を見据えてられるような奴がさ」
クラウディアの胸がかすかに騒ぐ。
「私とエドガー卿は、ただの――」
「調査仲間、でしょ。聞いた聞いた。でもね、あの男が他人のために三度も足を運ぶ姿なんて、私は今まで一度も見たことがないよ」
「資料が多かっただけですわ」
「そう思いたいなら、それでいいけどさ。まあ、本人もハルトブルク嬢と同じくらい鈍いからお似合いだよ」
廊下からエドガーの足音が近づいてくるのを聞きつけ、アイリスは瞬時にいつもの不敵な笑みへと戻った。
「一つだけ忠告してあげる。あの男ね、戦場で敵を撃ち抜く場所は一瞬で決めるくせに、自分が本当に手に入れたいものに気づくのは、呆れるくらい遅いから」
資料を抱えて戻ってきたエドガーが、怪訝そうに眉を寄せる。
「何の話をしていたんだ」
「あんたが鈍いって話をしてたの」
「休暇中にわざわざそれを言いに来たのか」
「半分はね。残りの半分は――」
アイリスは片手を軽く上げ、クラウディアに向けてだけ悪戯っぽく片目を瞑った。
「今、済んだよ。ハルトブルク嬢の顔を見ることさ」
「なぜ彼女を?」
「そういうところだよ、エドガー」
肩をすくめて去っていく女魔導師の後ろ姿を、クラウディアは呆然と見送った。
「彼女の言うことは気にしなくていい」
「気にしてなどおりませんわ」
即座に否定しながらクラウディアが開いた河川図の頁は、先ほどまで調べていた上流の観測地点ではなく、エドガーの領地がある河口域の地図だった。
エドガーは苦笑して資料を揃えながら、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「そういえば、ハルトブルク嬢。王宮魔導師の同僚たちから、夜勤の休憩室に何か美味い菓子でも差し入れてくれと頼まれていてね。ローゼンハイン嬢に相談したら、君を頼れと助言をもらったんだ」
エミーリアが裏で糸を引いていたのだと悟り、クラウディアは小さく溜息をついた。
「……クラスの方に教えていただいた、良いお店がございますわ」
「今日の放課後、少し付き合ってもらえるかい」
「ええ、構いませんけれど」
その日の放課後、講義棟の出口の石段の前でエドガーが待っていた。
案内したのは、学院から大通りを二つ下った路地に佇む瀟洒な店だった。深緑色の庇に金色の看板が掲げられ、硝子窓の向こうには飴色の焼き菓子が整然と並んでいる。
店頭の黒板に書かれた『季節限定・焼き林檎と香辛料の温製タルト(店内席限定)』の文字に、クラウディアの足が無意識に止まった。
「あれが食べたいのかい」
「め、滅相もございません! 差し入れには不向きですわ」
「まだ何も聞いていないよ」
「温製のお菓子は、持ち帰る間に生地が湿気を吸って台無しになりますもの」
「詳しいな」
「黒板にそう書いてございます!」
エドガーは微かに笑い、先に立って店の扉を開けた。
「差し入れに向かないなら、我々がここで味を確かめればいい。一つだけでは公平な比較ができないだろう」
店内の席に通された二人の前には、湯気を立てる紅茶のポットとカップ、試食用の焼き菓子三種の小皿、そして香ばしい湯気を放つ焼き林檎の温製タルトが運ばれてきた。
「比較対象にしては、大きいな」
「新作だけ小さく焼けば、火の通りが変わってしまいますもの」
真顔で返すクラウディアにエドガーが肩をすくめ、注がれたばかりの紅茶に口をつけてから、試食用の小皿へ先に手を伸ばした。
一品目は、胡桃と焦がし砂糖の薄焼き菓子だ。二人がそれぞれ一枚を手に取って口へ運ぶと、乾いた小気味よい歯触りとともに、香ばしい胡桃の油脂と焦がし砂糖のほろ苦い甘みが広がる。
「香ばしくて美味いな。甘すぎないから、男の手でもつまみやすい」
「ええ。薄く焼き固めてありますから、書類の上で食べても屑が散りにくい利点がありますわ」
クラウディアは手元の指先を見やり、微かに眉を寄せる。
「ただ、胡桃の油がわずかに指先に残りますわね。清潔な布巾を添えてお渡しする必要がありますわ」
エドガーは苦笑しながら紅茶を一口含む。
「王宮魔導師はそこまで行儀よく食べないよ」
「でしたら、なおさら布巾が必要ではなくて? 油のついた手で図面や日誌を汚してしまっては困りますもの」
クラウディアも紅茶を口に含み、渋みのある温かい茶で舌の油分を流す。エドガーは参ったように頷く。
「確かに一理ある。布巾も一緒に手配しよう」
続いて二品目、細身に焼き固められた柑橘のビスケットへと進む。
エドガーが手にとって噛み砕くと、カリリと硬質な音が響く。
「固いな。だが、噛んでいるうちに柑橘の香りがしっかり抜けてくる」
クラウディアも一枚を口にする。しっかりとした歯ごたえの奥から、蜜漬けにしたピールの爽やかな苦味と酸味が口いっぱいに広がる。
「爽やかな苦味ですわね。咀嚼の刺激もありますし、夜勤の眠気覚ましには最適ですわ。甘いものが苦手な方にも喜ばれそうです」
「うちの連中にはこれが一番受けそうだ。夜通し詰めていると、どうしても口の中が重くなってくるからね」
互いに頷き合い、二人は再びカップを傾ける。柑橘の爽快な余韻が、紅茶の渋みと心地よく溶け合っていく。
三品目は、塩漬けの乳酪と干し杏を合わせた柔らかな焼き菓子だ。
しっとりとした生地を割って口へ運んだ瞬間、熟した杏の濃厚な酸味が広がり、すぐ後から乳酪のまろやかなコクと塩気が追いかけてくる。
思わず目を丸くし、クラウディアは二口目を大きく頬張る。向かいのエドガーも一口味わい、感心したように目を細めている。
「これは……面白いな。甘さよりも塩気と酸味が先に立って、後を引く」
「ええ、とても美味しいですわ」
夢中で頷きかけたクラウディアだったが、指先にかかる生地の柔らかさに気づき、我に返って表情を引き締める。
「ですが……生地がとても柔らかいので、箱の中で重ねると重みで潰れてしまいますわ。夜勤の詰め所へ運ぶには、少々扱いが難しいかもしれません」
「差し入れとしては不向きか。だが、味は抜群だな」
「……はい。とても」
小皿に残る最後の一口を惜しむように見つめるクラウディアに、エドガーが小さく笑って紅茶を注ぎ足す。
そして、本命の温製タルトへ匙を入れる。薄く切られた林檎が薔薇の花弁のように幾重にも重なり、表面の焦がし砂糖の薄膜が艶やかに光を照り返している。火を通しても崩れず綺麗に形を残す甘酸っぱい実だ。南の常緑樹の内皮から取られるカネラの甘く温かい香りと、マクリスの樹脂めいたほろ苦さが、立ち上る温かな湯気とともに鼻腔をくすぐる。
クラウディアが匙を差し入れると、表面の薄膜がパリリと小気味よい音を立てて割れる。
一口大に切り分け、ふうふうと息を吹きかけて冷ましてから口へ運ぶ。焼きたての香ばしいパイ生地が舌の上でほどけ、温かい林檎の甘酸っぱさにカネラとマクリスの香りが重なって口いっぱいに広がる。
「……おいしい」
至福の溜息を漏らし、瞳を細めて完全に蕩けていたクラウディアは、二口目を切り分けようとしたところで、向かいの席が静まり返っていることに気づく。
顔を上げると、エドガーが両肘を机につき、頬杖をついた姿勢でじっとこちらを見つめている。彼の前のタルトは、最初の一口をつけたきり、まだ半分以上残されている。
「……何ですの」
「ずいぶん分かりやすいなと思ってね」
クラウディアの頬が一瞬で赤く染まる。
「ひ、一口では正確な味の判定ができませんもの!」
「もう一皿頼むかい?」
「結構です! 今日はもう十分いただきましたわ」
「そうか。では、次に来た時にしよう」
「次があるのですか」
「季節が変われば、また新作の味が変わっていないか確かめる必要があるだろう」
「……必要であれば、お付き合いいたしますけれど」
クラウディアは熱くなった顔を隠すように、温かい紅茶を啜る。
差し入れには、胡桃の薄焼きと柑橘のビスケットを一箱ずつ選び、塩乳酪の菓子は自分用として二包み購入した。
「二包みとも君が食べるのかい」
「一つは、不測の事態に備えた予備ですわ」
店を出て歩き始めて間もなく、エドガーが足を止めた。
「手袋はどうした」
クラウディアが自らの両手を見下ろすと、素手のままだった。店員が息を切らせて忘れ物の手袋を届けてくれたところで、エドガーは隣にあった豪奢な宝飾店の扉を指し示した。
「少し付き合ってくれないか」
店内には、貴族令嬢向けの華奢な装飾品が並んでいた。エドガーが選んだのは、細い銀鎖のついた精巧な手袋留めだった。片側のクリップを帯や鞄に固定し、もう片側で手袋を挟み込む道具だ。銀の表面には、光の角度によって揺らめく繊細な水紋が彫り込まれている。
「若い令嬢が好む意匠かは分からないが――調査のたび、君は手帳を開くために手袋を外していただろう。案内してくれた礼だ」
「今日は、うっかり置き忘れただけですわ」
「現場でも、いつも帳面の横に無防備に置かれていたからね」
「……よく見ていらっしゃること」
「君に贈るものだからね」
アイリスの「エドガーが分かりやすい理由」という言葉が鮮やかに蘇り、クラウディアの胸が激しく脈打った。
「これなら……泥で汚れる調査の場でも、重宝しそうですわ」
「気に入ってくれたかい」
「使ってみないことには、まだ分かりませんわ」
そう答えながらも、クラウディアは受け取ったばかりの手袋を、早速その銀の水紋の留め具へと挟み込んでいた。
「使うのが早いなと思ってね」
「また置き忘れてしまっては、困りますもの」
澄ました顔で歩き出すクラウディアの横で、エドガーが嬉しそうに微笑んでいた。
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翌朝の実習前、クラウディアはエミーリアの席へ詰め寄った。
「エミーリア様。昨日、レインフォード卿にどのようなお話を吹き込まれましたの」
「おすすめの菓子店を尋ねられたので、正直にお答えしただけですわ。……行かれたのですね?」
エミーリアの視線が、クラウディアの腰元に揺れる見慣れない銀鎖へと落ちた。
「行かれたのですね」
「王宮への差し入れを選びに行っただけですわ」
「その銀の手袋留め、昨日まではお持ちでありませんでしたわね」
横からルイーゼが身を乗り出し、虫眼鏡でも覗き込むような勢いで銀鎖を見つめる。
「手袋留めですわ! 見れば分かりますことよ。……どなたからいただかれたのです?」
「……レインフォード卿ですわ」
ルイーゼが劇的に目を見開き、エミーリアの手を握り締めた。
「エミーリア様、お聞きになりまして!?」
「ええ、聞こえていますわ。クラウディア様、まだ何も申し上げていませんのに、お顔にすべて書いてありますことよ。でお菓子は何を?」
「差し入れの候補と……新作の林檎のタルトを」
「お二人で?」
「同じ店におりましたのですから、当然でしょう」
「それを世間では『お二人で』と呼ぶのですわ」
始業を告げる鐘が鳴り響き、ルイーゼが名残惜しそうに身を引いた。
「続きは昼食時に!」
「放課後でも構いませんわよ」
「時間を変えても、お話しできる事実は増えませんわ!」
クラウディアの抗議は、二人の楽しげな笑い声にかき消された。
その週の午後、追加の水位観測記録を受領するために王宮の記録局を訪れた際、廊下の角で王宮魔導師の徽章をつけた見知らぬ青年と行き会った。
「よう、レインフォード。先日は美味い差し入れをありがとうな。夜勤組の連中が大喜びしていたぞ」
「マティアスか。選んでくれたのは、こちらのハルトブルク嬢だ」
エドガーがクラウディアを紹介すると、青年マティアスは感嘆の声を上げた。
「ああ、王国からの留学生と聞いている。柑橘のビスケットは甘いものが苦手な連中にも大好評だったよ。それと……休暇中なのに局に入り浸ってる青い髪の女魔導師が一人、妙に機嫌よく笑いながら教えてくれてね」
クラウディアの指先が無意識に腰の銀鎖を強く握り締めた。
エドガーが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……休暇中なら、宿舎で寝ていればいいものを」
「本人に直接言ってやれよ。おっと、足を止めさせて悪かった。礼だけ伝えたかったんだ。またな」
マティアスが去っていった後、クラウディアはジト目をエドガーに向けた。
「ウェイクフィールド様ですね」
「……他に思い当たる節がない」
「ずいぶん喜んでいらしたようですわね」
「忘れてくれ」
「難しいお願いですわね」
その週の後半になると、実習室に他クラスの生徒が訪ねてくる事態が生じ始めた。
「ハルトブルク様、王宮の夜勤へ魔導伯閣下とご一緒に差し入れをなさったというのは本当ですの? やはり閣下とは特別な……」
「ただ卿の選定をお手伝いしただけにございます」
クラウディアが冷然と突っぱねると、ルイーゼが水路模型の排水栓をわざと乱暴に引き抜き、溢れ出た水を生徒たちの足元へと誘導した。
「そちらの方々、そこは実習の資材を運ぶ通路ですわ。昨日も先生が足を取られて転びかけましたのよ」
生徒たちが慌てて飛び退く中、諦めの悪い令嬢が「では、そのお菓子屋のお名前だけでも!」と食い下がってきた。
「深緑色の庇に、金色の看板が出ているお店ですわ」
クラウディアが即座に事実だけを答えると、生徒たちはそれ以上の追及を諦めて引き上げていった。
エミーリアが静かにナプキンで机を拭きながら告げる。
「王宮の休憩室で交わされる噂は、配られたお菓子と一緒に社交界へ広がりますわ。夜勤の方々が美味しいと褒めちぎれば、誰がそれを選んだのかまで筒抜けになりますもの。広がり方としては悪くありませんわね」
「店名を訊かれるのは完全に想定外でしたわ」
「店名を訊かれているうちは、まだ序の口ですわよ。皆が本当に知りたがっているのは、お菓子のお味ではありませんもの」
ルイーゼがクラウディアの肩にそっと手を置いた。
「クラウディア様が困らないうちは、わたくしたちは余計な手出しはいたしません。でも、もし社交界の網に絡め取られそうになったら、いつでも仰ってくださいね」
「ええ……その時は、頼りにさせていただきますわ」
肩に触れる手のひらの温もりに、張り詰めていた身体の強張りが静かにほどけていく。
エミーリアが水路模型の真鍮管をハンカチで拭きながら、優雅に口元を綻ばせる。
「もっとも、わたくしたちの手を煩わせるまでもなく、あの魔導伯閣下がすべて雷で焼き払ってくださるかもしれませんけれど」
「エミーリア様まで、そのようなことを」
「あら、頼れる味方は一人でも多い方がよろしいでしょう?」
ルイーゼが「まったくですわ!」と声を弾ませ、三人の間に柔らかな笑い声が広がった。机の上の図面を整え直すクラウディアの指先には、確かな落ち着きが戻っていた。
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次の現地調査へ出立する朝、クラウディアは自室の衣装棚の前に立ち、並べられた三着の外套を見比べていた。どれも防水布の厚みとポケットの配置は同じ実務的な仕立てだったが、クラウディアは迷わず、裏地に淡い青の絹が張られた一着を手に取った。
馬車へ乗り込むなり、向かいに座ったエドガーの視線が、彼女の襟元で止まった。
「その色、よく似合っているな」
不意に向けられた言葉に、クラウディアは襟元に触れながら小さく瞬いた。
「……ありがとうございます」
「君のその薄金の髪によく似合うなと思ってね」
飾りのない褒め言葉に、胸の奥が不意に跳ねる。クラウディアは熱くなりそうな頬を悟られぬよう視線を伏せ、膝の上で油紙の包みの紐を解いた。
中には、塩気のある焼き生地で干した果実を挟んだ菓子が二つ並んでいた。杏の甘い匂いが、油紙の間からふわりと立ち上がる。
「前回、薬草茶を用意していただきましたので。今日は最初から二人分です」
一つを差し出すと、エドガーが受け取ろうとした指先が、菓子の包み紙の端でクラウディアの手袋に触れた。両方の手が、同じ温度のまま止まる。
「……失礼いたしました」
「いや。受け取ったつもりが」
先に引いたのはクラウディアの方だった。手袋ごしの熱が引かないまま、エドガーがもう片方を手にする。クラウディアは耳まで熱くなるのを感じながら、自分の膝の上へ視線を落とした。
「甘いものが好きなんだな」
「疲労対策ですわ」
「差し入れの店とは、また違う」
「温製では持ち歩けませんもの。こちらは、崩れにくいように焼きを強めてあります」
エドガーは一口かじり、すぐに次を言わなかった。クラウディアも同じものを口にする。塩の後から果実の甘さが来る。手帳を開こうとして、まだ熱の残る指先を、一度だけ膝の上で握り直した。
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調査が始まって三か月が経過した頃、宿舎の机の上に並べられた三十七枚の貨物通行証が、決定的な事実を語り始めていた。
「……すべての通行証に、同一の商会の割印が捺されていますわ」
クラウディアの指摘通り、押印されていたのは代官補佐の実家と縁のある商会で、宰相府に連なる旧貴族派の資材取引を引き受けている。取引先の一覧には、その一派の倉庫や船番が並び、荷の行き先もそちらへ偏っていた。
荷揚げ場の御者たちの証言により、工区へ届かなかった三十七台分の硬質灰石は、川岸の古い船着き場から船へ移され、下流にある閉鎖中の『第七穀物倉』へと運び込まれたことが突き止められていた。
その時、宿舎の窓の下に、重々しい馬車の車輪の音が響いた。領務監督官の馬車だった。今月に入ってすでに三度目の来訪である。
部屋に入ってきた初老の監督官は、机の上の通行証へ一度目を落としてから、穏やかな声を作った。
「学生の実地研修にしては、ずいぶんたくさん見て回られましたな。いかがでしたかな、こちらの泥土は」
「学ぶべきことがたくさんありましたわ。見た目の肥沃さとは裏腹に、土の下に眠る水の癖も、運ばれるべき石の行方も、帳簿の数字と現場の現実とでは随分と食い違いがあるようでして」
「熱心は結構。学院の課題にしては、もう十分すぎる成果でしょう」
監督官は机の上の暦へ指を滑らせ、来月の雨季入りをなぞった。クラウディアは、その指の動きだけを手帳の端へ記した。
その日の夕刻、監督官の馬車が出立するより早く、一頭の早馬が王都の方角へ向けて駆け出していくのを、クラウディアは冷徹な眼差しで見送っていた。
第七穀物倉への捜索は、翌々日に動く手筈まで進んでいた。図面の上では、領兵の配置と搬入口の押さえ方まで書いてある。そこへ王都からの急使が届いた。王宮の主任監査官が河口支局へ到着し、記録押収の許可に領主本人の署名と事情聴取を求めている、戻りは二日後になる、という。
「支局まで半日、手続きを終えて戻るまで最低でも二日はかかる」
エドガーは悔しげに奥歯を噛み締めた。
「私が戻るまで、絶対に動かず待っていてくれ」
「ええ、二日くらい待てますわ。倉庫が自ら歩いて逃げるわけではありませんもの」
クラウディアは落ち着いた声で送り出した。
だが、エドガーが出立した翌日の日暮れ前、宿舎に一通の緊急書状が届けられた。
差出人の名は、水門番の老人だった。文面には『監査官殿より臨時の仮差押許可状を預かった。今夜中にどうしてもお嬢様にお見せしたい動かぬ証拠がある。明朝には証拠の石材が他領へ運び出されてしまう』と記され、指定された場所はあの第七穀物倉だった。封蝋には、代官所の公印が歪みなく押されている。
クラウディアは書状をランプの灯にかざし、細部を検分した。封蝋や公印に不備はなかったが、文面の筆跡があまりにも流麗すぎた。あの無骨な水門番の署名は、文字というより記号に近い不格好なものだったはずだ。
「罠ですわね」
クラウディアは即座に宿舎を出ることを控え、真偽を確かめるため実家の護衛の一人を水門番の自宅へ走らせるとともに、もう一人を第七穀物倉の周囲へ遠巻きの監視として差し向けた。
半刻後、息を切らして戻ってきた護衛は、老水門番はそのような文を出していないと首を振った。さらに穀物倉の搬入口には幌をかけた二台の荷車が横付けされ、作業着の男たちがノミで硬質灰石の規格印を削り落としては荷台へ積み込み始めているという。明朝の捜索執行を待っていれば、横流しを裏付ける決定的な証拠は跡形もなく消え失せてしまう。
クラウディアは机上の羊皮紙を引き寄せると、乱れる筆脈も構わずにペンを走らせる。水門番の名を騙る偽書状の内容と罠であること、倉庫で石材の隠滅工作が始まった事実、そして照合用の写しのみを携えて現地へ向かうという最後の一行を書き殴り、インクの濡れたまま折り畳む。
「何があっても、河口支局のレインフォード卿へ届けて。一刻を争うの」
宿舎付きの足の速い使いの少年に書状を託し、雨の降り始めた夜道へと急ぎ送り出した。
走り去る少年の足音を見送ると、静けさを取り戻した部屋の中で、クラウディアは自らの胸元に手を当てる。彼が戻るまで待っていれば、約束は守れる。危険を冒さず宿舎に留まっていれば、身の安全も、留学生としての節度も保たれるだろう。だが、彼と肩を並べて見つめた水路の未来や、二人で泥を追って暴き出した真実が、今まさに目の前で削り取られようとしている。それを自室の窓から見送ることなど、とうに選べない。
「……待つわけには、まいりませんわね」
外套の襟元を引き合わせ、留め具を指先で強く確かめる。原簿と通行証はすでに河口支局へ預けてある。手元の革鞄には照合用の写しだけを詰め込み、控えていた領兵二名と実家の護衛を伴って、暗い雨の夜道へと踏み出した。




