夜会の隣
二日後、最初の現地調査の記録を抱えて王都の留学生寮へ戻ったクラウディアを待っていたのは、机の上にうず高く積まれた講義ノートの束だった。
その日の晩、ルイーゼとエミーリアが連れ立って部屋を訪ねてきた。
「留守中の講義の写しですわ。科目ごとに分類してありますから、必要なところからお読みになって。ルイーゼ様の注釈は余白からはみ出して読みにくいですから、飛ばして構いませんわよ」
エミーリアが優雅に紅茶のカップを置くと、ルイーゼが身を乗り出して抗議する。
「まあ失礼な! あれは教授が口頭だけで補足した大事な実例ですのよ。役に立ちますわよね、クラウディア様」
「ええ、とても助かるわ。ありがとう、二人とも」
心からの礼を述べると、ルイーゼが待っていましたとばかりに目を輝かせた。
「それで、河口の開拓地はいかがでしたの? 噂では水害がよく起きる土地だと聞いておりましたが」
「確かに水害の多そうな土地だと見受けましたが、水路の勾配の計算や、水門に用いられる石材の強度、それから荷揚げ場の効率的な運用法など、学ぶべきことが山のようにあって――」
手帳をめくりながら矢継ぎ早に説明するクラウディアの言葉を、ルイーゼが奇妙な笑みを浮かべて遮った。
「クラウディア様。ずいぶん楽しそうでしたのね」
「えっ……それは、実地でしか得られない知識が多くありましたから」
「普段から領地のお話をなさる時は生き生きとしていらっしゃいますけれど、今夜はいつもの倍くらい早口ですわよ」
エミーリアが静かに微笑みながら、砂糖壺をクラウディアの方へ押しやる。
クラウディアは口元に手を当て、返すべき言葉を探して沈黙した。二人はそれ以上問い詰めることもなく、穏やかな雑談へと話題を移していった。帰り際、扉の陰からルイーゼが楽しげに振り返る。
「そうそう、学院内ではもう『魔導伯の泥濘に飛び込んだ王国の令嬢』の噂が広まり始めていますわ。明日の講義からは、汚れのない綺麗な靴でおいでになってね」
扉が閉まった後、クラウディアは自室の鏡に向き合い、自らの頬が微かに上気しているのを見て、小さく息を吐いた。
実地調査から三日が経過した朝、王宮礼典局の使者が留学生寮のクラウディアの部屋を訪れた。
恭しく手渡された豪奢な羊皮紙の封筒には、三国友好条約の締結を祝し、各国使節と留学生を歓迎するための王宮夜会の招待状が収められていた。筆頭にはアルヴァイン王国特使の名が連なり、それに次ぐ位置に、ハルトブルク侯爵家長女としてのクラウディアの名が記されている。公的な立場上、辞退の余地は存在しない。
封筒の中には、もう一枚、小さな別紙が添えられていた。
『当夜のエスコート兼護衛として、王宮魔導師エドガー・ルーセントアーク・レインフォード魔導伯を指名する。現地の研修担当者としてすでに面識があり、王国側護衛官との連携も円滑に行えるため』
実務的でもっともらしい理由が並ぶその文面を、クラウディアは必要以上に二度、三度と読み返した。
だが、同封されていた王国使節団の随行員名簿の末尾に目を落とした瞬間、胸の奥に冷たい重みが沈殿した。
『トラッケン伯爵家嫡男 ヴァルター・トラッケン』
母の執務室で突き返したはずの身上書の主が、「条約祝賀に参集する若手有力貴族との意見交換」という名目を掲げ、海を越えて追ってきたのだ。クラウディアは静かに招待状を閉じ、机の抽斗の奥深くへと仕舞い込んだ。
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夜会の当日の夕刻、クラウディアの部屋にはルイーゼとエミーリアの姿があった。
「レインフォード卿が、直々に寮の玄関までお迎えにいらっしゃるそうですわよ」
ルイーゼが楽しげに声を弾ませながら、化粧台の上に並んだ銀細工の髪飾りを持ち上げた。
「王宮から命じられた公的な護衛の任務ですもの」
「そうやってわざわざ念を押されると、かえって特別な意味があるように聞こえますわ。それに、この髪飾りを三度も取り替えさせた理由、お顔にはっきりと書いてありますことよ」
「最初は留め具の噛み合わせが緩かっただけですわ。二つ目は、ドレスの胸元の銀糸の刺繍と色合いが合いませんでしたし」
言い訳を重ねるクラウディアの後ろから、エミーリアが手際よくペンナの翼の櫛を入れる。
「言い訳の続きは馬車の中でどうぞ。遅刻の理由に『髪飾りの選定に難航したため』とは書けませんものね」
ようやく三つ目のシンプルな銀の髪飾りに決まった瞬間、階下からエドガーの到着を告げるノックが響いた。
玄関広間へ降りていくと、そこには見違えるような正装に身を包んだエドガーが立っていた。泥の跳ねた外套も作業着の汚れもなく、濃紺の礼服の胸元には勲章名ルーセントアークの輝きと、銀の家紋章が誇らしげに掲げられている。彼は寮監への挨拶を卒なく済ませ、クラウディア付きの実家の護衛官と、王宮までの移動経路および退出時刻の確認を綿密に行っているところだった。
階段を下りてくるクラウディアの足音に気づくと、エドガーは話を切り上げ、静かに向き直った。
「今夜、王宮より君のエスコートと警護を仰せつかった。会場を出るまで、常に君の傍らに控える。当国の礼式で王国と異なる点があれば、その都度耳打ちする。何か不安や不都合があれば、遠慮なく言ってほしい」
白手袋をはめた右手が、急かすことなく差し伸べられる。クラウディアはその手の上に自らの指を預けた。エドガーは彼女の歩幅を正確に測りながら馬車へと先導し、自ら扉を開けて、豪奢なドレスの裾が車輪の油に触れないよう細心の注意を払って見届けた。
王宮の車寄せに到着してからも、彼は先立って馬車を降り、踏み台の固定を足先で確かめた上で再び手を差し出した。大広間の扉の前では、王国使節団の立ち位置や、最初に挨拶を交わすべき魔導国側の高官の家名を、低く落ち着いた声で短く指南してくれた。
大広間の扉が左右に開かれ、礼典官が高らかに二人の名を告げると、着飾った貴族たちで埋め尽くされた会場の視線が一斉に注がれた。
エドガーの隣に並んで歩み出た瞬間から、周囲の貴族たちの動きが慌ただしく変化した。挨拶に訪れた最初の伯爵夫人は、社交辞令の合間に自らの水属性の愛娘を呼び寄せ、次に進み出た侯爵は、エドガーの開拓領に対する資金援助と研究支援を露骨に持ちかけてくる。若い令嬢たちの熱い視線が、次々とエドガーの胸元の勲章へと向けられていた。
自らが立っているこの場所が、今この王都で最も羨望を集めている位置なのだという事実を、クラウディアは肌で理解した。
エドガーは誰に対しても慇懃な礼を崩さず、しかし冷徹なまでの線引きを保ち続けた。
「今夜はハルトブルク侯爵令嬢の随行と護衛の任を帯びておりますゆえ、私的な歓談は後日に」
クラウディアが気後れする暇も与えず、彼は絶妙な合図で歩を進める。
「お知り合いが多いのですね」
「叙爵されてから、急に親族が増えたようでね」
「すべてのお名前を覚えていらっしゃるのですか」
「護衛が周囲の貴族の名を取り違えるわけにはいかないからね」
楽団が優雅な第一曲を奏で始めると、エドガーは自然な仕草でクラウディアの前へ右手を差し出した。
「魔導国の舞踏は、王国に比べて足運びの型が多い。合図は私から出す」
「舞踏の手ほどきなら、幼少より厳しく受けておりますわ」
「では、君の歩幅に合わせよう」
戦場で敵陣を切り裂いたというその手袋越しに温もりが伝わった瞬間、クラウディアの胸が跳ねた。自らの動揺を振り払うように背筋を伸ばし、その手を取る。
踊り始めると、方向転換の直前に、背中に添えられたエドガーの手のひらから微細な力の加減が正確に伝わってきた。混み合うフロアで他の踊り手が近づけば、エドガーはさりげなく位置を入れ替え、彼女のドレスの裾を他人の靴から守る。次に踏み出すべき一歩を躊躇なく預けられる安心感が、全身を満たしていった。
周囲の貴族たちは、繋いでいない方の片手を宙へかざし、色とりどりの魔力光を放って広間を華やかに飾っていた。光の破片を鮮やかな花びらのように散らす者もいれば、冷たい輝きを雪のように降らせて互いの属性の相性を誇示する者もいる。
空いた左手を宙へ浮かせながら、クラウディアの指先が一瞬ためらいを帯びる。自らが修めてきたのは、土壌の質を測り、川の氾濫を防ぐための大地と風の術だ。泥を固め、水流を押し返す泥臭い実務の技法ばかりが身に染みついており、貴族の夜会を彩るような見せかけの華やかな光など、どう紡げばよいのか見当もつかない。
戸惑いを悟ったのか、背中に添えられたエドガーの手が、わずかに指先を緩めて合図を送った。
「速度は問題ないかい」
「ええ……とても踊りやすいですわ。ただ、何を宙へ描けばよいのか……」
「難しく考える必要はないよ。君の歩幅と同じだ」
エドガーが空いた片手を静かに掲げると、その指先から微細な淡い青緑の光が、澄んだ夜露のように零れ落ちた。風を孕んだその微光が、二人の足元をふわりと撫でる。
その気流の軌道に誘われるように、クラウディアも息を合わせて風を放つ。エドガーの風が描く輪郭へ寄り添うように自らの風を重ねると、舞踏の床から淡金の粒子がかすかに立ち上り、露のような光の粒をふわりと包み込んだ。
派手な花びらや雪を競い合う周囲の光とは異なり、互いの放った気流がぶつかり合うことなく溶け合い、旋回するステップに合わせて、二人の周囲を穏やかな光の環が巡っていく。
二人は互いの魔力を完璧に重ね合わせ、静かに曲を踊り終えた。
フロアの端へ戻り、ルイーゼとエミーリアが合流した直後、冷ややかな空気を纏った一人の令嬢が静かに歩み寄ってきた。周囲の貴族たちが自然と左右へ道を譲り、エミーリアの背筋が微かに強張る。
歩み寄ってきたのは、若い貴族の間で流行している王国風のドレスを纏った令嬢だった。小柄で華奢な体躯に濃い化粧を施し、金や宝石を惜しみなく散りばめた衣装は、伝統的な貫頭衣やローブが多い広間の中でも一際目を引く。
「ハルトブルク侯爵家のクラウディア様とお見受けいたします。私はアラベラ・コンコルディア・ウォルデンベリーと申します」
完璧な微笑みと隙のない礼を返しながら、クラウディアの思考がその家名を巡る。宰相府に深く連なる古い侯爵家の令嬢であり、同年代の貴族たちの中では宰相派閥の頂点に立つ名門だ。人当たりの良さと洗練された振る舞いで宮廷の中心に立つ彼女が、なぜ新興の魔導伯の隣に立つ異国の留学生へ、わざわざ自ら歩み寄ってきたのか。
礼を交わし終えると、アラベラは扇の端で胸元を隠し、エドガーへ涼しげな流し目を送った。
「レインフォード卿、今夜こそ一曲お相手を願えるものと期待しておりましたのに」
「今夜はハルトブルク嬢の護衛を仰せつかっておりますゆえ」
「まあ、ご友人の皆様もご一緒ではありませんの。王国の令嬢方を少しの間お預かりすることくらい、私どもの侍従でも務まりますわ」
すかさずエミーリアが、一歩前に出て優美に頭を下げた。
「ウォルデンベリー様。私どもも今夜は招かれた客の身、王宮から直々に任じられた護衛役の代わりを務めるなどという大役は、とても荷が勝ちすぎますわ」
アラベラは冷然と扇を閉じ、クラウディアへ向き直った。
「河口の開拓地を、精力的に視察されているとか。学院の正式な許可が下りてから、まだ三日と経っておりませんのに」
「実地研修として、貴重な機会をいただいております」
「父から伺いましたわ。レインフォード卿が、王国の留学生に水路の差配を委ねておられると。こちらへいらして、まだ一月にも満たないのでしょう? アルヴァインの大運河と当国の荒れ狂う河口とでは、水の性質も土の癖もまるで異なりますのに、軽々しいこと」
棘を含んだ言葉に、クラウディアは臆することなく微笑みを返した。
「ええ、おっしゃる通りですわ。水の癖が異なるからこそ、机の上の帳簿だけで済ませず、自らの足で現場を歩いて確かめているのです」
「領地は学舎の教室ではありませんのよ。一度の間違いが取り返しのつかない惨事を招くこともございますわ」
「先日の調査で、その『間違い』を彼女が見つけ出してくれた」
エドガーが低く、しかし広間に通る声で割り込んだ。
「机上の報告と現場の土が、同じ雨を語っていないことを見抜いてくれたのはハルトブルク嬢だ。帳簿の数字だけを整えている者には見えない綻びを、彼女はいち早く掴んでくれた」
アラベラの扇を握る指先が、微かに止まった。
「……必要であれば、我が家の息のかかった水利官を融通することもできますわよ。現地の泥を知り尽くした者の方が、卿にとっても心強いはずですもの」
「お心遣いには感謝いたします。ですが、陛下に賜った領地ですのでね。私の力で収めねば、たちまち取り上げられてしまいます」
アラベラはわずかに目を細め、クラウディアを値踏みするように見つめた。
「交換留学の期限は一年でしたわね。……春には、国へお帰りになるのでしょう?」
「持ち帰るべき成果をすべて揃え終えましたら」
「ええ。そう、春にはね」
意味深な言葉を短く告げ、アラベラは人波の奥へと消えていった。
ルイーゼが扇の陰から耳打ちしてくる。
「あの方、ずいぶんと水路をご心配されていらしたようですわね」
「領地の行く末を案じてくださったのでしょう」
クラウディアが受け流そうとすると、エミーリアが静かに窘めた。
「ルイーゼ様、そのくらいに。クラウディア様、あの方のお父上は宰相府の筆頭実力者ですわ。エドガー卿が叙爵されて以来、何度も執拗に縁談を運んでおいでですのよ」
「ウォルデンベリー家だけではありませんわ」と、ルイーゼが楽しげに言葉を継ぐ。「他にもライバルがたくさんいらっしゃいますから、うかうかしていられませんことよ」
「……ライバルだなんて、妙なことをおっしゃらないで。私は春まで水路の調査をご一緒しているだけの留学生ですわ」
早口で返したクラウディアに、ルイーゼが「そういうことにしておきましょう」と悪戯っぽく肩をすくめた。
二曲目が終わる頃、今度は手にしたグラスを弄びながら、見覚えのある青年が歩み寄ってきた。二十歳、襟元に刻まれているのはトラッケン伯爵家の紋章。
「王都以来ですね、クラウディア様」
ヴァルター・トラッケンだった。整った顔立ちに親しみやすい笑みを浮かべ、クラウディアの前で足を止める。
「留学のお話は伺っていますよ。魔導国の先進的な治水技術を、我が国でも応用できるか学ばれているとか」
「持ち帰るに足るものかどうかを確かめるのが、現在の私の務めです」
「王都では今、南方の香を調合した珍しい紅茶が流行しているそうです。もっとも、クラウディア様がお戻りになる頃には、また別の流行に移り変わっているでしょうけれど」
ヴァルターの言葉には、彼女の帰国と、その後の婚姻が完全に決定事項であるかのような響きがあった。クラウディアはわずかに視線を鋭くし、問いを投げかけた。
「トラッケン卿の目には、この国の治水技術はどのように映りますか」
「実に見事なものですね。魔力で水位を精密に読み取り、水門を遠隔の術式で開閉する。ですがあれは、突出した魔力を持つ優秀な魔導師が常駐して初めて機能する仕組みです。我が王国の川で、同じことが再現できるとは思えません」
「では、持ち帰る価値はないとお考えですか」
「いえ、決して無駄だとは思いません。船を操り、水門を管理する現場の人々の負担を減らす助けにはなるでしょう。我が国の川の現実に合わせて、運用規程を適切に『書き換える』ことができればの話ですがね。父などは眉をひそめるでしょうが」
『書き換える』という表現に、クラウディアの胸が小さく跳ねた。増水のたびに川底の浅瀬の位置が変わり、航路図を赤墨で何度も書き直していた母の指先が脳裏をよぎる。
「……どのように書き換えるべきだとお考えですか」
思わず問いを重ねてしまった自分に気づき、クラウディアは口を噤んだ。ヴァルターは少し驚いたように目を見張り、それから柔らかく笑った。
「そのご様子ですと、留学の日々が楽しくて仕方がないようですね。どうかご無事で務めを果たし、王国へお帰りください。帰国の暁には、また改めてお目にかかりたいものです」
「お心遣い、感謝申し上げます」
礼を交わして立ち去る青年の背中を見送りながら、クラウディアは母の机にあった身上書の空白を思い出していた。母が筆を執れば、いつでも埋まってしまう欄。今夜のところは、まだ空いたままでいてくれたことに、クラウディアは微かな安堵を覚えていた。
ふと大広間の太い大理石の柱の陰に目を向けると、閉じた扇を手にしたアラベラが、こちらを冷たく見つめていた。彼女が視線を逸らした瞬間と、ヴァルターが使節団の列へと戻った瞬間は、奇妙なほど完璧に重なり合っていた。
帰路の馬車の中、向かいの席には疲れて微睡む侍女が座り、エドガーは扉側の座席から窓の外の暗がりと馬車の速度を警戒していた。
「お疲れになったのではありませんか」
クラウディアが静かに声をかけると、エドガーは視線を戻し、微かに苦笑した。
「君を無事に寮の部屋まで送り届けるのが私の任務だからね」
「夜会の間、本当に多くの方々からお声をかけられておいででしたね」
エドガーはわずかに眉間を揉み、静かに息を吐いた。
「広間の視線はどれも、持ち込まれる縁談の勘定ばかり追っているようでね。……正直に言えば、かなり辟易するよ」
「……お困りでしたのね」
「ああ」
即座に返ってきた飾りのない言葉に、クラウディアは膝の上で手袋を小さく握り直した。彼にとって自分との時間もまた、そうした公務や煩わしい付き合いの延長に過ぎないのではないか。舞踏で背中に添えられた温もりを思い出すたび、胸の奥が微かに疼き、淡い期待と割り切れない重さが混ざり合って胸を曇らせる。クラウディアは窓ガラスに映る夜の闇を見つめ、静かに視線を逸らした。
寮に到着すると、エドガーは先に馬車を降りて手を差し出し、寮監と実家の護衛官へクラウディアを引き渡すと、重い玄関扉が完全に閉ざされるまでその場を離れなかった。
自室へ戻り、侍女の手を借りて重いドレスを脱ぎ捨てると、どっと疲労が肩に圧し掛かってきた。柱の陰から向けられていたアラベラの冷たい視線が一瞬脳裏をかすめたが、今夜はもう何も考えたくなかった。
本棚の奥から『月桂冠と窓辺の君』を抜き出す。栞が挟まれていたのは、激戦を生き延びた英雄が都へ戻り、窓辺で待ちわびていた娘へ無言で手を差し伸べる一節だった。
何度も読み返したはずの文章だったが、今夜に限っては、紙の上の英雄の姿よりも、馬車の薄暗がりの中で苦笑していたあの男の横顔と、白手袋越しに伝わってきた確かな温もりの方が、鮮明に瞼の裏に蘇ってきた。
クラウディアは静かに本を閉じ、本棚の最も深い隙間へと、隣の分厚い水利実務書と背表紙が平らになるまで押し込んだ。読まなくても、その一節はすでに胸の中にあった。
翌日の昼食時、食堂でクラウディアが席に着くや否や、同じクラスの令嬢たちが待ち構えていたように席を寄せてきた。
「クラウディア様、昨夜の夜会のこと、もう学院じゅうに広まっていますわよ」
「エドガー閣下と踊られたのでしょう? 周囲がこれ見よがしに派手な花びらや雪を競う中で、お二人の光だけが穏やかに溶け合っていたって、広間にいた方々が口々に褒め称えていらして」
「まるで最初から息を合わせていたみたいだったと評判ですわ。本当にただの護衛の任務なのですか?」
口々に囃し立てる級友たちに、クラウディアは背筋を正し、澄ました調子で返す。
「王宮から命じられた公務を、卒なく果たしてくださっただけですわ」
「まあ、公務であそこまで寄り添えるものかしら」
「閣下のあんなに楽しげなお顔、前線から戻られて以来初めて見たと、兄も申しておりましたわ」
ひとしきり楽しげにからかい、令嬢たちが自分たちの席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、向かいに座るエミーリアが優雅にスープ皿を引き寄せ、静かに息を吐いた。
「一夜明ければ、噂の広がり方も一際早いですわね」
ルイーゼも身を乗り出し、スープ皿の脇へ肘をつく。
「当然ですわ。ウォルデンベリー様からの露骨な誘いも、閣下はクラウディア様の護衛を盾に見事に退けられましたもの。お友達も一緒でしょうと言われた時はどうなることかと思いましたけれど。ただ……あの卿へ縁談を持ち込んでいるのは、あの侯爵家だけではありませんわ」
「昨夜の夜会で、クラウディア様がどなたの隣にお立ちになるのかを、王都じゅうの貴族が注視するようになりましたのよ」
エミーリアの忠告に、クラウディアは言い返そうとして言葉を呑み込んだ。大広間で自分の足跡を迷いなく受け止めてくれたあの手の平の確かな感触を、今も鮮明に覚えているからだ。
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共同調査が始まって二か月が経過した放課後、実習室で一人残り、水路図面の清書をしていたクラウディアの元をエドガーが訪れた。
「実習室に残っていると聞いてね。石材の成分検査の結果と、河岸の最新の測量図が上がってきたんだ。君なら早く見たいだろうと思って持ってきた」
「ありがとうございます。明日の調査までに目を通しておきますわ」
「無理に急ぐことはないよ。明日の朝、宿舎まで迎えに行くから」
エドガーは手短に要件だけを告げると、次の王宮での執務へ向かうため、足早に部屋を後にした。
扉が重い音を立てて閉ざされた瞬間、物陰からルイーゼが音もなく現れ、クラウディアの真横へ滑り込んできた。
「クラウディア様。……レインフォード卿は、明らかにあなたに気がありますわね」
「……ただの調査資料を届けてくださっただけですわ」
「公的な資料なら、学院の取次窓口へ預ければ済む話です。わざわざ王宮魔導師自らが実習室まで足を運ぶ必要などございませんことよ」
「明日の調査日程を直接伝える必要もおありでしたでしょうし」
「明日の朝、直々にお迎えにいらっしゃるそうですけれど? 実地研修にしては至れり尽くせりですわね」
からかいを止めないルイーゼの横から、エミーリアが机の上の図面を覗き込み、呆れたようにため息を吐いた。
「ルイーゼ様、そのくらいにしてさしあげて。クラウディア様、一枚目の図面から先へまったく進めなくなっていらっしゃいますわ」
クラウディアは慌てて手元の測量図をめくろうとしたが、指先が触れた紙面は、上下が完全に逆さまになっていた。
その数日後、クラウディアとエドガーは開拓領の北端に位置する水門番の詰所を訪れていた。
板敷きの机の上に広げられた水門操作日誌を検分していたクラウディアの指先が、昨年の雨季の記録の途中でピタリと止まった。
「……この十二日間だけ、筆跡が明らかに異なりますわ」
詰所の隅で縮こまっていた年老いた水門番が、怯えた声で証言する。
「へえ……ですがあっしは、去年の雨季に休暇を取った覚えなどねえんです。この交代欄にある署名も、あっしの字じゃございません」
外へ出て北門の巨大な巻き上げ機を検分すると、鋼鉄の歯車に新しいノミで抉られたような不自然な工具痕が残されていた。さらに、門を吊る補助鎖の環には、代官所の備蓄倉庫の刻印が打ち込まれている。
「北門を閉鎖し、南の旧水路へ水を迂回させた形跡があります」
クラウディアが指し示した南側の旧水路の底には、一度だけ大量の濁水が通過して乾いた特有の泥の亀裂が残っていた。
「北を意図的に閉じて南へ流せば、水はすべて建設予定の穀物倉庫の敷地へと集まります。今は膝丈ほどの雑草が生い茂っていますが、雨季になれば、あの粗悪な屑石で組んだ基礎ごと水没することになりますわ」
「そうなれば、開拓の失敗はすべて事前の地質調査の誤りだったことにできるわけだ」
エドガーが低く呟いた。クラウディアは手帳を強く握り締め、冷たい声で言葉を継いだ。
「戦場では華々しい功績を上げても、領地経営の治水ひとつ満足にこなせない無能な新興貴族――宮廷へ提出する失脚の報告書としては、実によく出来ていますわね」
吐き捨ててから、自らの言葉がエドガーの立場を傷つけるほど冷酷に響いたことに気づき、クラウディアは息を詰まらせた。
「……申し訳ありません。言い過ぎました」
「謝る必要はないよ」
エドガーは静かに首を横に振った。
「私を泥の中に引きずり落としたい人間がいる。その企みを白日の下に晒すために、私は君の知恵を頼んだんだ。真実をそのまま言ってくれて助かるよ」
利用されているのではなく、重い現実を分かち合えているのだという確かな手応えが、クラウディアの胸に広がった。彼女は手帳を広げ直し、水門の見取り図をエドガーとの間に差し出した。
「では、南側の流路から徹底的に洗い直しましょう」
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三か月目に入る直前の週、エドガーは王都の王宮へと急遽呼び戻され、数日間の調査不参加を余儀なくされた。
宿舎の執務机に向かい、水門番たちの証言記録を一人で整理する時間は、普段よりも遥かに早く進むはずだった。向かい側に置かれた誰も座っていない革張りの椅子が、視界に入るたびに不自然なほど大きく感じられた。
手帳の余白には、彼が戻ったら確認するつもりで書き留めた疑問点が三行並んでいた。どれも一人で資料を繰れば解決できる些細な事柄ばかりだ。ペンを走らせて塗り潰そうとしたが、最初の一文字にインクを落としたところで、指先が止まってしまった。
上流観測所への視察を翌日に控えた夕暮れ時、宿舎の扉が開き、埃にまみれたエドガーが姿を現した。
「王都での用件はすべて片付いた。明日は予定通り出発できる」
「……そうですか」
クラウディアは平静を装って手帳を開き、余白に残した三行を彼に向けた。
「ずいぶん待たせてしまったようだね」
「念のため、消さずに残しておいただけですわ」
翌朝、二人は馬車で山間部の上流観測所へと向かった。
観測所の書庫から引き出された水位原簿と、代官所に保管されていた公式の写しを並べた瞬間、部屋の空気が凍りついた。昨年の雨季の十二日間、すべての日の水位記録が、まったく同じ幅で改ざんされていたのだ。
「原簿の水位は、写しよりも一律で一尺高く記録されています。何者かが、十二日分の豪雨を帳簿の上から削り取ったのです」
クラウディアが観測士を鋭く問い詰める。
「この写しを代官所へ届けたのは誰ですか」
「だ、代官補佐殿の従僕でございます……」
帰りの馬車の中で、クラウディアは膝の上に原簿と写しを広げ、激しい揺れの中で数字の照合に没頭していた。馬車が轍を踏むたびに文字が踊り、同じ行を何度も読み返すことになる。
「少し休んだ方がいい」
向かいの席から、湯気を立てる木製のカップが差し出された。
「まだ照合が終わっておりませんもの」
「逃げはしないよ、数字は。それに君は、今朝から何も口にしていないだろう」
「お昼にパンをいただきましたわ」
「朝食の時、私に半分くれたパンのことかい? 君の分の包みは、まだ鞄の中に手付かずで残っている」
クラウディアは言葉を失った。すっかり忘れていたのだ。
差し出されたカップを受け取ると、立ち上る薬草茶の湯気から、濃厚な甘い香りが漂ってきた。蜂蜜が、明らかに匙で二杯分ほど多く溶かし込まれている。
冷え切った身体に染み渡るその温もりを心地よいと感じながらも、クラウディアは口を窄めて抗議した。
「……甘すぎますわ」
「返してくれてもいいんだよ?」
エドガーが悪戯っぽく笑いかける。
「いただきます」
クラウディアはカップを両手で抱え込み、小さく口をつけた。エドガーが窓の外へ顔を向け、微かに肩を揺らして笑いを噛み殺している。その整った横顔を見つめながら、クラウディアは手元の帳簿へ視線を戻した。同じ行を読むのは、これで四度目だった。




