一年の猶予
朝の光が机の端を白く洗う時刻、クラウディア・ハルトブルクは自室の肘掛け椅子で、膝の上に広げた『月桂冠と窓辺の君』の頁をめくっていた。
戦火を逃れた英雄が遠い都の凱旋式を抜け出し、ただ一人で窓辺の娘へ手を差し伸べる一節を指先でなぞったところで、控えめなノックとともに侍女が扉を開ける。ヘレーネ様がお呼びです、と告げる侍女の声に、クラウディアはわずかに眉を寄せながらも、本を机上の水門修繕報告の束の下へ滑り込ませる。
引き出しの奥から、四隅の折れを指腹で確かめた交換留学申請書を取り出す。薄い羊皮紙に記された文字を瞳に映すたび、冷たい革張りの執務室の匂いが鼻先をよぎる。
母ヘレーネの執務机には、昨夜届いたばかりの収穫台帳と河川図が整然と並び、その傍らに青年の肖像画と身上書が置かれている。机の端に立てられた絵は光を斜めに受け、顔のあたりだけが沈んで見えない。
「学年末の成績が届くのを待っていた家から、先ほど正式な申し入れがありました」
ヘレーネは顔を上げず、赤墨をつけたペンで台帳の数字を弾きながら告げる。肖像画に描かれた青年は二十歳、トラッケン伯爵家の嫡男だ。
「トラッケン家は大河の第三船着き場より下流を領有し、三つの船着き場と関門を握っています。あなたがあちらへ輿入れすれば、我が家の穀物船の運行はより確実になり、関税の優遇も得られるでしょう」
差し出された身上書の末尾には、比較用として記された二つの家名がある。どちらも去年までは筆頭候補として扱われていた地方貴族の名だ。貴族学校での試験結果が届き、領内の水利実務をこなすたびに、クラウディアの婚約市場での評価は吊り上がっていく。十五歳という年齢で婚約者の欄が空いているのは、より有利な条件を引き出すための保留に過ぎない。
役に立つ娘として家を支え、計算高い妻として他家を動かし、領地を差配する女として生涯を終える。第二夫人である母が、正妻アーデルハイトの傍らでそうしてきたように、自分もまたその役割を瑕疵なくこなせてしまう未来が、指先の冷たさとともに輪郭を結ぶ。
だが、身上書を受け取る手は動かない。ヘレーネが次の台帳へ手を伸ばすより早く、クラウディアは胸元に抱えていた申請書を机の縁へと滑り込ませる。
「母上。婚姻のお話の前に、こちらをお目通し願えますでしょうか」
ヘレーネの手が止まり、細い眉がわずかに上がる。クラウディアは視線を逸らさず、言葉を整えて継ぐ。
「レーヴェンブルク魔法国への交換留学を希望いたします。名目は、かの国が進める魔法技術を用いた治水、河川輸送、ならびに開拓地の地盤改良の調査です。我が家の大運河の維持管理と、下流域の新農地開発において、必ずや実利をもたらす知見を持ち帰れるものと確信しております。期間は、一年です」
ヘレーネは感情を交えぬ手つきで申請書を引き寄せ、記された名目と計画を上から下へ素早く検分する。
「一年ですか。確かに、魔導国の治水と魔導工学を持ち帰れば、領地の数字を動かす上で確かな利となるでしょう。箔がつけば、帰国後には今より格の高い家との話を選ぶ余地も生まれます」
赤墨のペンを置き、冷ややかな瞳がクラウディアの顔を正面から捉える。
「ですが、これは私が独断で許せる話ではありません。留学の可否も、縁談を一年棚上げにする判断も、すべてはアーデ様の裁量に委ねられます。私から夫人へお伺いを立てておきますから、返答があるまで自室で待機しなさい」
「はい。よろしくお願い申し上げます」
深く一礼して退室するクラウディアは、自室へ戻るなり、隠していた恋愛小説を本棚へ差し戻し、その間に申請書の写しを挟み込む。母の実務と献身に対する敬意は疑いようもない。しかし、家のために自らの望みを押し殺し、影として一生を終える母の生き方を、そのまま踏襲することだけは受け入れがたい。一年だけの猶予。自らの才覚を差し出して買い取ったその時間の中で、何を見出せるのかは自分でもまだ定かではない。
十日後、アーデルハイト侯爵夫人からの許可が届いた。出立日は、魔導国の雨季に合わせた観測実習の初日に間に合うよう設定されていた。
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侯爵家の紋章旗を掲げた川船が、初夏の朝霧を切り裂いて領都の港を離れた。侍女と護衛、渡航手続きを司る家人を乗せた船は、見慣れた穀物倉や巨大な船着き場を左右に見送りながら、滑るように下流へと進んだ。
数日間の航行を経て辿り着いた国境の中継港で、一行は魔導国側の大河を行き交う大型船へと乗り換えた。港の岸壁には、アルヴァイン王国のずんぐりとした穀物運搬船と、奇妙な幾何学模様の刻まれた魔導国の魔道具船が舳先を並べていた。荷役人たちは独特の抑揚を持つ共通語で行き先を怒鳴り合い、指示を出す短い掛け声の端々にだけ、聞き慣れない両国の言葉が混ざり合っていた。
三国友好条約に基づく交換留学とはいえ、国境検問所の空気は張り詰めている。魔導学院の招聘状を差し出しても、検問官は封蝋の欠けや副署の印影へ検査の光を当て、船倉の奥深くまで探査を差し入れて禁制品の有無を確かめた。国境を越えると、川沿いに並ぶ倉庫の看板の綴りや、すれ違う旅人の羽織る外套の仕立てが徐々に異国のものへと移り変わっていく。クラウディアは日が暮れて川面が暗褐色に沈むまで、船室の窓布を下ろさせなかった。
十三日目の夕刻、船は魔導国王都の西に位置する外港領へと滑り込んだ。翌朝、港の荷扱所から馬車へと手荷物を積み替え、石畳の街道を丸一日揺られた。
十四日目の午後、巨大な尖塔群と幾筋もの人工運河を抱くレーヴェンブルク魔法国の王都が、初夏の陽光の中にその偉容を現した。
魔導学院へ向かう馬車の車列が、運河沿いの荷揚げ場で突然の渋滞に巻き込まれて足を止めた。車輪の軋みと怒号が石畳に反響し、侍女が外の喧騒を遮ろうと窓布へ手を伸ばす。
「待ちなさい」
クラウディアは侍女の手を制し、自ら窓枠から身を乗り出した。運河の船着き場では、王国の巻き上げ機とは明らかに構造の異なる大型の魔導式荷揚げ機が、巨大な穀物箱を宙へと吊り上げている。揺れ方がおかしい。四点のうち一箇所だけが跳ね、鎖の一節がねじれ、滑車を支える留め金が半分浮いている。
あの滑車は、事故が起きてもおかしくない。
裾を摘み、クラウディアは馬車を降りた。身軽になって石畳へ足をつける。荷車の陰を見て、立ち止まる。地面に落ちた穀物粒を拾っている少年がいる。頭上の滑車へ目を戻すと、金具がギチギチと鳴った。
やっぱり落ちる。
「危ない!」
クラウディアは少年へ駆け出した。留め金が滑り、鎖が甲高い音を立てる。両手を突き出し、風を地表すれすれへ走らせる。少年の小さな身体が荷車の陰から転がり、女の腕がそれをさらう。直後、鎖が弾けた。
穀物を満載した木箱が、真下へ向けて落下する。
クラウディアは足を踏ん張り、落ちてくる箱の底へ風を叩きつけた。戦場で名を上げる騎士の力までは自分にないが、家の子供たちのなかでは末妹に次いでは高い。それでも荷いっぱいに詰まった穀物の重さは、その風を押し潰していく。
横合いから、鋭い風が割り込んできた。
クラウディアの風へ重なり、荷箱を斜めへ押し流す。箱の角は石畳を砕き、靴先から一歩ほど先を滑っていく。土埃が舞い、視界が白く潰れた。
喉が動かない。埃を払おうと、指先に薄い風を走らせる。袖も髪も、まだ白い。
「怪我はないか」
埃を払っていた指が止まる。青緑の髪をした男が杖を下ろすところだった。外套の裾に、細い風が残っている。
「怪我はありません。あの子も」
声が震えそうになるのを奥歯で噛み殺し、クラウディアは答えた。男は砕けた石畳と荷箱を見やり、それからクラウディアの顔を見つめる。
「鎖が切れる前に気づいたのか」
「箱の傾きと、金具の向きが合っていませんでした」
「よく見ていたんだな。君があの子を逃がさなければ、間に合わなかった」
その時、作業場の奥から「制動輪の軸受けに亀裂が入っているぞ、支えを回せ!」という切迫した叫び声が上がった。男は短く頷くと、名乗りも告げないまま、制動輪へ走っていった。
追いついてきた侍女と護衛が人垣をかき分けて駆け寄る。石粉の付いた袖を見て息をのみ、頭上の鎖と足元を交互に確かめる。耳の奥には、男の足音だけが残っていた。
魔導学院への到着後、一行を待ち受けていたのは歓迎ではなく、医務官と典礼官による厳格な身元確認だった。
薄暗い手続き室の長机に、ハルトブルク家の署名が入った招聘状、王国の渡航証、国境検問所の通過印、そして随行者名簿が次々と広げられる。係官が特殊な魔素光を透かして偽造の有無を検分する間、クラウディアは無言で羽ペンを握り、提示された書類へ次々と受領の署名を書き連ねていく。インクの匂いを吸い込むたび、荷揚げ場で名も告げずに去っていったあの男の、淡い青緑の髪が意識の隅をかすめた。
手続きを終えて鍵と学院章を受け取った頃には、窓の外の空は群青色へと暮れ泥んでいた。
留学生寮の部屋は簡素ながら十分な広さがあり、奥には侍女のための控え室が続いている。護衛たちは規則に従い、正門近くの外来宿舎へと引き上げていった。
部屋の中央には、母ヘレーネが厳選して持たせた領地経営の実務書や水利記録の束、そして一年分の衣装を収めた木箱が積まれている。荷解きを始めた侍女が、壁際に並ぶ作り付けの本棚の半分が空いているのに気づいて振り返る。
「お嬢様、空いている棚には予備の室内着でも収めましょうか」
「いいえ、そのままで構わないわ」
クラウディアは机の引き出しに『月桂冠と窓辺の君』を収め、鍵をかけながら静かに告げた。空いた棚は、この一年で自らの手で選び取った書物で埋めるための場所として残しておきたかった。
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講義棟への最短経路や、寮の給湯器が最も安定して温水を吐き出す時刻を把握する頃には、王都での生活も三週間が過ぎていた。
魔導学院の敷地内には、常に乾燥した薬草と、魔素を染み込ませた紙の焦げる特有の匂いが漂っている。教室の窓の外を見上げれば、無人の魔導搬送機に吊り下げられた資材箱が、尖塔と尖塔の間に張られた見えない力場を滑るように行き交っていた。
クラウディアの放課後の日課は、王都の街並みを観察しながらの遠回りだった。大通りに等間隔で据えられた魔素式の街灯、辻の共同井戸に組み込まれた揚水機、市場の生鮮品を冷やす氷結魔導板。それらの配置と構造を歩幅で測り、排水溝の傾斜や水流の澱みを確かめる。随行する侍女も、主人が水路の欄干の前で立ち止まるたびに、静かに後ろへ控えることに慣れ始めていた。
その日、クラウディアは運河にかかる石橋の上から、水位の変動に合わせて自動で開閉する小さな木製排水門を身を乗り出して観察していた。水流が弁を押し上げる角度と、側壁に刻まれた目盛りの数値を手帳へ書き留めていると、背後から落ち着いた靴音が近づいてくる。
「その排水門、泥が溜まると動きが鈍る。私も勉強中でね」
聞き覚えのある声に振り返ると、濃紺の仕立ての良い上着を纏った男が立っていた。胸元には王宮魔導師の銀の徽章と、真新しい意匠の家紋章が輝いている。
あの荷揚げ場の男だった。
「先日は名乗りもせず走り去ってしまい、失礼をした。学院の護衛から君の名を聞き、無事に入寮できたか気になっていたのだが」
男は短く息を吐き、静かに頭を下げた。
「エドガー・レインフォードだ。王宮魔導師を務めている」
クラウディアはスカートを摘み、膝を折って礼を返した。
「アルヴァイン王国ハルトブルク侯爵家の長女、クラウディアと申します。先日は窮地をお救いいただき、誠にありがとうございました」
「いや。先にあの少年を逃がしたのは君の機転だ。礼を言うなら私の方だよ」
エドガー・レインフォード。その名は、王国の外交使節から届く報告書の中で何度か目にしたことがあった。先年、帝国との緩衝地で起きた軍事衝突において、卓越した戦果を上げて国境の危機を収め、一代限りの名誉爵である魔導伯位と勲章名ルーセントアークを授かった新興の英雄。
だが、目の前に立つ男の佇まいは、クラウディアが恋愛小説や社交界の噂話から想像していた傲岸な武人とはまるで異なっていた。泥にまみれた作業場へ迷わず駆け込み、今は路傍の留学生に対して丁寧に頭を下げている。
「排水門がお気に召したかな」
エドガーが微かに口元を緩めて問いかけてくる。クラウディアは少し頬を緩め、手帳を胸元へ抱き直した。
「ええ。こちらの街では、目に見えぬ魔法が、人々の生活の隅々にまで水を行き渡らせているのですね。我が領地の大運河とはまた異なる工夫に満ちていて、見ていて飽きることがありません」
エドガーは笑みを収め、欄干の下を流れる濁った水流を真剣な眼差しで見つめた。
「水路に興味があるなら、王都の外にもっと面白い場所がある。機会があれば、案内しよう」
公式な社交辞令にしては、その声音には奇妙な実感がこもっていた。クラウディアは胸の奥に小さな灯がともるのを覚えながら、静かに頷いた。
運河での再会から数日後、王都中心部に建つ白亜の迎賓館の大広間で、三国友好条約に基づく留学生の歓迎会が催された。
アルヴァイン王国から派遣された留学生は、クラウディアを含めて五名。乗船した港や旅程が異なっていたため、全員が一堂に会するのはこの場が初めてとなる。
歓談の輪の中心に立っていたのは、王国東部の有力貴族であるオスヴァルト家の嫡男、レンナルトだった。美しく整えられた金髪を揺らし、グラスを片手に快活な声を響かせている。
「王都の設備は見事なものですね。通りの灯りも井戸の揚水も、すべてが魔導具で賄われている。聞けば平民の暮らす下町にまで行き届いているとか。我が国の技術者たちにも見習わせたいものです」
フォルクマール家の令嬢マルガレーテも、レースの手巾を口元に当てて目を輝かせる。
「学院の尖塔の間を行き交う搬送函などは、まるで神話の光景ですわ。あれは風神ヴェリアの加護による術式なのでしょうか、それとも補助神エルシアの御業かしら」
残る二人の留学生も、港に並ぶ大型起重機の規模や、最新の石造建築に施された防護術式について熱心に語り合っている。クラウディアは少し離れた柱の傍らで、静かに果実酒の杯を傾けていた。彼らが口にするのは目に見える壮麗さばかりで、あの運河の石壁の勾配や、沈砂池に溜まる泥の処理費用について言及する者は一人もいない。
ふいに、レンナルトが声を潜め、侮蔑を滲ませた調子で言葉を継いだ。
「とはいえ、この国のやり口には野蛮な側面も目立ちます。国境付近では帝国との間で絶えず血生臭い小競り合いを起こしているとか。魔法の刃を誇る前に、まず使節を立てて条約の条文を交わすのが文明国の作法というものでしょう」
「ええ、聞くところによれば」とマルガレーテが応じる。「かの境界戦を鎮めたという『雷光の魔導伯』などは、敵の本隊めがけて天から雷を落とし、百人を超える兵を一瞬で消し去ったとか。英雄というよりは、血に飢えた戦争屋ですわね。我が国では、高い魔力を持つ貴族が自ら前線に立って泥にまみれるなど考えられません」
クラウディアは会話に加わらず、杯の縁を見つめていた。荷揚げ場の事故の際、自らの足元に吹き抜けたあの鋭利で正確な風を思い出す。あれは敵を殲滅するための暴力ではなく、石畳に砕け散る寸前の他者を救うために、極限まで研ぎ澄まされた力だった。
その時、広間の扉が左右に開き、厳格な典礼官の声が響き渡った。
「雷光の魔導伯、エドガー・ルーセントアーク・レインフォード閣下、ご入来!」
広間が一瞬で静まり返り、レンナルトたちの姿勢が目に見えて強張った。先ほどまで戦争屋と嘲笑していた当の本人が現れたのだ。
正装に身を包んだエドガーが歩み出てくると、レンナルトはいち早く進み出て、恭しい礼を執った。
「お初にお目にかかります、レインフォード閣下。アルヴァイン王国オスヴァルト家が長男、レンナルトにございます。我が父も閣下の武勇には深く感嘆しておりました。ぜひ、国境で敵将を一撃で討ち果たしたという大魔法の秘訣を拝聴したく――」
「レインフォードで結構です、オスヴァルト卿」
エドガーは穏やかな笑みを浮かべ、レンナルトの言葉を柔らかく押し留めた。
「戦場での出来事は、語るに足る誇らしいものではありません。それよりも、留学生の皆様には、この国の民が日々の暮らしの中でどのように魔法を用い、土地を切り拓いているかを見ていただきたい」
その場を巧みに宥めながら、エドガーの視線がふと広間の端へと向けられた。柱の陰に立つクラウディアと目が合うと、彼は自然な所作で小さく会釈を交わす。それを見咎めたレンナルトが、怪訝そうに眉をひそめた。
「ハルトブルク嬢、閣下とお知り合いなのですか」
エドガーがレンナルトの問いを拾い、皆に聞こえる声で告げた。
「港で一度、お見かけしました」
レンナルトの目が、一度クラウディアを測るように動いた。
直後、礼典局の役人が進み出て、今後の実地研修の日程を読み上げ始めた。
「留学生諸公の最初の実地研修は、王都近郊の河口域に位置するレインフォード卿の褒賞領を中心に行われます。現地の視察および案内は、領主であられるレインフォード卿自らが務められることとなります」
クラウディアは静かに息を吸い込んだ。数日前の石橋の上で交わされた「今度案内しよう」という言葉は、個人的な気まぐれではなく、すでに公務として定められていた手筈だったのだ。胸の中に生じたかすかなすれ違いの痛みを、クラウディアは誰にも悟られぬよう杯の影に隠した。
学院の講義が本格化すると、席が前後だったルイーゼ・ファルケンリートと、エミーリア・セレネリア・ローゼンハインの二人と、昼食や演習を共にするのが自然な習慣となった。ファルケンリート家は大きな商店を抱える豪商が起源の新興伯爵家で、ローゼンハイン家は四代以上続く大魔導貴族だった。ルイーゼが世俗の噂に目がなく、エミーリアが宮廷の噂に通じているのは、それぞれの家筋のせいだった。
その日の水利工学の実習室では、机の上に置かれた精巧な水路模型を三人で囲んでいた。浅いガラス水槽を本流に見立て、小型の揚水管と魔導水車を連動させて、下段の水を上段の水路へと押し上げる課題である。
クラウディアが指先に魔力を込め、揚水管の基部に干渉すると、銀色の水流が滑らかに持ち上がり、規定の高さへと注ぎ込まれた。
「まあ、綺麗に上がったわね」
思わず弾んだ声を上げたクラウディアに、細身のルイーゼが琥珀色の瞳を細めて笑う。
「クラウディア様、三度ともまったく同じ高さですわ。狂いがありませんこと」
「次は水車の回転数を上げて、流量を二割増やすわ。水路の壁面にかかる側圧を計測したいの」
「はいはい、調整具は先に出しておきますわよ」
ルイーゼが手早く真鍮の細い器具を並べる傍らで、豊かな巻き毛を揺らしたエミーリアが、机の端にあった焼き菓子の包みと自らの豪奢なレースの袖を慌てて遠ざけた。
「お二人とも、先生がいらっしゃる前に水浸しにしないでね」
「壊しませんわ」
クラウディアとルイーゼの声が綺麗に重なり、三人の間に柔らかな笑い声が零れた。
その時、実習室の扉が開き、担当教師とともにエドガーが入ってきた。
「失礼する。褒賞領の水路改修計画について、学院の技師に助言を仰ぎに来たのだが――領主になっても、川の流れというものは一向に私の言うことを聞いてくれなくてね」
自嘲気味に肩をすくめるエドガーに、教師が応じる。
「河口付近の泥土層は、魔素の抜けが早く脆弱ですからな。模型で水流の反発係数を試算してみましょう」
エドガーの視線がクラウディアの元へ留まった。
「ハルトブルク嬢。先日話した領地の水路だが、今週末にでも案内できそうだ」
不意に投げかけられた言葉に動転し、クラウディアの指先から魔力が微かに逸れた。水車の回転が跳ね上がり、水槽からぴしゃりと水飛沫が跳ねて模型の外へ溢れ出す。
「わっ、ちょっとクラウディア様、流量を絞って!」
「あ、ごめんなさい、すぐに――!」
ルイーゼが咄嗟に弁を閉じ、エミーリアが「私のタルトが!」と叫んでナプキンを差し出す。普段の冷静さを失ってはしゃいでいた姿を、知り合って間もない彼に見咎められた羞恥で、クラウディアの耳朶が熱く染まった。窓下の雨水溝を睨みつけ、うつむいたまま顔を上げられない。
エドガーが机の傍らまで歩み寄り、落ち着いた声で尋ねてきた。
「午前中の開拓地調査概論は、退屈ではなかったかい」
「いいえ! そんなことはございません。水路も、倉庫の配置も、開拓地の土質も、すべて領民の命に直結する事柄ですもの」
「魔法を土地に起きる実際の結果から考える。素晴らしい姿勢だ」
「当然の心得ですから」
平然を装って応じると、廊下から学院の事務職員が書類の束を抱えて駆け込んできた。
「失礼いたします、レインフォード閣下。開拓領の水路計画に関し、王宮で地区の測量と領政報告を預かる代官所から、最終報告書が届きました」
職員は他国の留学生であるクラウディアの姿を認めると、警戒するように書類を胸元へ抱え直した。だがエドガーは何の躊躇もなくその書類を受け取り、机の上に広げた。
「気にするな。新しく与えられた土地でね。王国へ船を出すには悪くないが、雨季になれば街道の方が先に沈む有様で、まだ手が回らない」
広げられた水量報告表に、クラウディアの視線が吸い寄せられた。
「……変ですわ」
指先が自然と紙面の一点を指し示していた。
「雨季の河川流入量の最大値と、欄外に記載された南倉への荷車運行数がまるで噛み合いません。職員の方、この期間の物資運搬記録の原票も見せていただけませんか」
職員が露骨に顔を顰める。
「他国の留学生の方に、当国の行政機密を開示することは叶いません」
「責任はすべて私が負う。領主だからな」
エドガーが職員の手から運搬記録の台帳を引き取り、クラウディアの前へ開いた。
「ハルトブルク嬢、何に気づいたんだ」
クラウディアは台帳の数字を指でなぞりながら、淀みなく指摘した。
「雨季の期間中、荷車一台あたりの積載量が極端に減らされ、その分、往復回数が増やされています。これは、車輪が深く泥濘に沈む悪路を無理やり通行した時の典型的な運び方です。しかし、提出された水利報告書には『南道は乾いており、物資輸送に支障なし』と記されている。さらに、水門の放流量の計算とも合いません。この帳簿の上では、膨大な量の水が途中で忽然と消えています」
エドガーの青緑の瞳が鋭く細められた。
「現地を直接見れば、真相がわかるか」
「ええ。昨夜も王都周辺で雨が降りましたから、現地へ行けば、水が実際にどこを通ったのか、土の痕跡から読み解けます」
「明日から三日間、予定を空けられるかい」
「明日は測量魔法の実習がございますけれど」
「開拓領を実習の指定地に組み替えるよう、学院長から正式な許可を取り付けよう。君の同行を願いたい」
他国の領政に足を踏み入れることは、留学生の領分を明らかに踏み越えている。だが、数字の合わない帳簿を前にして、安全な実習室で模型の水を弄んでいる気には到底なれなかった。
「学院の正式な実地研修として扱っていただけるなら、喜んで同行いたします。ただし、調査の進め方については、私にも意見を具申させてください」
「もちろんだ。そのための知恵を求めている」
自らの判断を求められ、クラウディアの背筋が誇らしく伸びた。
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翌朝早く、学院の技師一名とエドガー直属の領兵二名を伴い、クラウディアたちは魔導馬車で王都を出立した。魔導具で走る車体は、半日もせず河口近くの開拓領へ着いた。揺れが少なくて快適とは言い難いが、それほど疲れは残らなかった。滞在先は、学院が現地実習用として確保している簡素な石造りの宿舎だった。
翌朝最初に向かったのは、河口に面した荷揚げ場だった。
梅雨時の湿った風が吹きつける中、石畳の目地には乾ききらない赤黒い泥が深くこびりついていた。並んでいる荷車の車輪には、平坦な道には到底不釣り合いな、分厚い泥除け板が打ち付けられている。
「報告書では、南道は終始乾いていたと記録されていましたけれど」
クラウディアが手帳を広げて呟くと、エドガーが近くで荷縄を解いていた年配の御者へ声をかけた。
「ベルント。去年の雨季、南倉へは何往復した」
御者は領主から直接名を呼ばれたことに驚き、慌てて帽子を取った。
「へ、へえ、閣下……日に六往復は走りましたかね。普段の倍でさぁ。一度にまともに積めば、車軸まで泥に呑まれて動きゃしませんでしたから」
「報告書には、支障なく運行されたとあるが」
「とんでもねえ。代官所の役人からは、書類には『南道を使った』と書いておけと怒鳴られましてね。実際は、大回りして北のぬかるんでねえ山道へ逃げていたんでさぁ」
帳簿から消えていたのは水だけではなかった。道そのものが、書類の上で塗り潰されていたのだ。
エドガーは荷の積み下ろしの手順や、泥濘にはまりやすい窪地の位置を細かく聞き取り、最後に「ところで、奥方の足の具合はどうだ」と気遣わしげに言葉を添えた。領民の一人ひとりの生活まで記憶している領主の姿に、御者は深く頭を下げて感謝を口にする。
その時、後方で重い車輪が泥の深い溝へ落ち込み、鈍い傾ぎの音が響いた。領兵が駆け寄ろうとするより早く、エドガーは外套の留めを外した。
「これは魔法では骨が折れるな」
泥水の中へ足を踏み入れ、ベルントの横へ並ぶ。
「ベルント、車軸の右を持て! いくぞ!」
「閣下、滅相もねえ、服が!」
「構うな、せーの!」
泥飛沫が跳ね、エドガーの白い袖口と頬に黒い汚れが飛び散る。御者たちと肩を並べ、掛け声を合わせて荷車を押し上げる彼の横顔を見つめながら、クラウディアは手帳に泥除けの寸法を書き留めていた。
ふと視線を転じると、擦り切れて指先の飛び出た手袋で重い木箱を運ぶ作業員や、荷揚げ機の旋回範囲のすぐ内側で立ち尽くしている荷運び人の幼い子供が目に入った。クラウディアは眉をひそめ、現場を監督する詰所の番人へ歩み寄った。
「待機場所を直ちに北側の頑丈な木柵の向こうへ移しなさい。それと、予備の作業用手袋を最低でも二十組、詰所の前に常備すること」
戻ってきたエドガーが、袖の泥を拭いながら問う。
「事故防止の配慮かい」
「荷揚げが一度止まれば、川全体の輸送網が滞ります。無駄な停滞を避けるための合理的な処置ですわ」
冷然と答えながらも、クラウディアは小さな靴を履いた子供が無事に柵の外へ移動するのを、二度確かめてから視線を戻した。
次に向かったのは、新設される水門と防潮堤のための石材集積場だった。
積み上げられた巨大な切石の前に立ち、クラウディアは爪の先で表面を軽く引っ掻いた。それだけで、石の角が脆い砂のように崩れ落ちていく。
「……規格品ではありませんわね」
同行した学院技師が杖をかざし、淡い青の検査光を石の内部へと浸透させる。光の筋は内部に幾筋もの黒い亀裂を描き出し、石材の脆弱さを露わにした。
「河口付近で採取される粗悪な多孔質の屑石です。水分を吸えば、冬場のひと凍みで内部から破裂しますぞ。しかし帳簿上では、王都近郊の石切場から切り出された一級の『硬質灰石』が、百八十台分納入されたことになっているはずですが」
そこへ、衣服から不自然なほど甘い香油の匂いを漂わせた男が、小走りで現れた。胸元に代官所の銀鎖を揺らした代官補佐である。
「これはこれは、レインフォード閣下。このような埃っぽい場所に自らお運びとは。現場の手違いで、一時的に質の劣る仮置き石が紛れ込んだようでしてな。すぐに手配し直させますゆえ、留学生のお嬢様の実習に、閣下ご自身がお手を煩わせるようなことではございません」
「手違いで百八十台分もの石材が入れ替わるものかしら」
クラウディアが硬質な声で割り込むと、代官補佐は小馬鹿にしたような笑みを浮かべて目を細めた。
「おやおや、王国の高貴なお嬢様には、当国の泥臭い現場の機微がお分かりにならないと見えますな」
「ええ、分かりませんわ。ですから教えていただけますか。我が国の船にも使われる頑丈な硬質灰石は、今、この領地のどこにあるのです?」
代官補佐の口元が引きつり、言葉が詰まる。エドガーが足元から崩れた石の破片を拾い上げ、掌で握り潰しながら冷たく告げた。
「彼女が分からないと言っている。説明できるなら、今ここで聞かせてもらおうか」
「は、資材係に確認を取り、後ほど詳細な報告を……」
言い訳を取り繕う代官補佐の背後へ、重厚な馬車が一台、静かに滑り込んできた。車輪の泥除けには領務監督官の家紋章が刻まれている。代官補佐が即座に道を空け、周囲の職人たちが一斉に帽子を取って平伏した。
降りてきたのは、仕立ての良い官服を纏った初老の男だった。胸元には、学院の紋章史で見た古い名門の家紋がある。開拓領を新領主へ渡すにあたり、代官所の引き継ぎを命じられた旧貴族派だと、エドガーから聞いていた。
「若い方々が熱心に領政を学ばれるのは結構なことだ。次はどちらへ向かわれるのかな。上流の観測所の原簿も検分されるのかね」
監督官はクラウディアの胸元の帳面へ流し目を送ったが、足元に散らばる屑石の破片には一度たりとも視線を落とさなかった。馬車が走り去る際、従僕が封蝋された一通の書状を抱えて別の早馬へと手渡すのを、クラウディアは見逃さなかった。早馬は土煙を上げ、王都の方角へと疾走していく。
「ふー、何をしに来たんだか。いつもは役所に籠もって出てくることはないんだが」
エドガーが監督官の馬車の轍を見つめたまま呟く。
「あの方は、私の顔ではなく、私の手元ばかりを見ておられましたわ」
クラウディアが手帳へ鉛筆を走らせながら呟く。
「しかし、彼の右の袖口。白っぽい石粉が付着していた。現場を歩かない身分の役人が、どこであの粉をつけたのか」
クラウディアは虚を突かれて顔を上げた。自分はその汚れに気づいていなかった。
「普段とは違う動きをするものには注意を払え、ってよく言われるんだよ。しかし本当にどういうことなんだ」
馬車へ戻る前、クラウディアはどうしても気になり、石材置き場の外れの空き地へと足を向けた。百八十台もの重い荷車が行き来したはずの場所にしては、地面の土が均されすぎており、轍の深さも泥の乾き具合も不自然なほど均一だった。
荷台の陰から追ってきたエドガーが見守る中、クラウディアは地面に片膝をつき、スカートの汚れも厭わずに右手を湿った黒土へと押し当てた。言葉を唇に乗せ、魔力を地中へと浸透させる。
「グラニアよ、金礎を据え、土に刻まれし重みの跡を照らす眼を欲す。地探」
土の締め固まり具合、かつて荷が乗っていた圧力の記憶、そして地表の偽装の下に埋もれた深い車輪の跡が、頭の中に鮮明な立体図として浮かび上がる。しかし、その知覚の線は数十歩先まで伸びたところで急激に乱れ、川岸の葦原の手前でぷつりと途切れてしまった。
「……私の力では、ここから先まで届きませんわ」
自らの魔力制御の限界を認め、唇を噛んで立ち上がろうとした時、隣にしゃがみ込んだエドガーが、無駄のない所作で杖の先を地面へと向けた。
「ヴェリアよ、道に残る息を辿れ。俯探」
眷属の名を短く紡いだだけで、エドガーの魔力は目に見えぬ細い糸となって地中深くを走り、葦原の向こうへと突き抜けていった。
「あそこだ」
エドガーが指し示したのは、川岸に生い茂る葦の茂みの切れ目だった。
駆け寄ってみると、水際の土に砕けた灰石の白い粉が厚く沈殿しており、朽ちかけた古い係船杭の根元には、重量物をロープで引き摺り下ろした真新しい擦過痕が残されていた。
「石材は、工区へ運ばれたのではない。ここから船に積み替えられ、川を下って外へ運び出されたんだ」
「横流しですわね……」
「帳簿の船番を洗えば、運び出した船の手配主まで辿り着けるだろう。初日の収穫としては十分すぎる」
エドガーは立ち上がり、膝の泥を払うクラウディアを見つめて、飾りのない声で言った。
「君は、本当にすごいな」
「水際の痕跡を暴いたのは閣下の魔法です」
「魔法の力など、必要な時に他人から借りれば済む。さっき君が私の力を借りたようにな。だが、あの偽装された地面を見て違和感を抱き、疑うべき場所を特定するその目は、誰から借りることもできない」
エドガーは少し言い過ぎたと感じたのか、ふと口を閉ざし、手帳を懐へと収めた。宿舎へ戻る道すがら、彼は二度ほど無意識に歩調を緩め、クラウディアの短い歩幅に合わせて歩き直していた。




