預ける色
河口支局の薄暗い詰所には、監査官が広げた膨大な帳簿の山と、降り始めた雨の冷たい匂いが充満していた。
エドガーは領主としての署名を書類の末尾に書き終え、捜索手続きの段取りを確認していた。
「……捜索許可の執行は明朝の手筈だな」
「ええ、現段階では証拠隠滅の明白な兆候が確認されておりませんので、規定通りの手順を踏みます」
監査官の悠長な返答に、エドガーの胸に不穏なざわめきが広がった。
「三十七台分の通行証の偽造、一尺削られた水位原簿、削り取られた石材の証言――これだけの根拠が揃っていて、まだ不足だと言うのか」
これまで提出してきた告発状が、王都の窓口を通るたびに不自然に処理順を後回しにされ、現場への監査官の派遣が引き延ばされてきた経緯が、急速に一本の線となって繋がっていく。支局の内部にも、旧貴族派閥に通じる内通者が潜んでいるのだ。
その時、詰所の扉が激しく開け放たれ、泥まみれの使いの少年が転がり込んできた。
「ハルトブルクのお嬢様からの急報です!」
差し出された濡れた羊皮紙には、クラウディアの鋭く乱れた筆跡で、水門番の名を騙る偽書状の内容と、第七穀物倉で石材の隠滅工作が始まった事実、そして『照合用の写しのみを携え、現地へ向かう』という最後の一行が記されていた。
エドガーは読み終えるより早く、机を蹴るようにして立ち上がった。
「水門番が直接彼女を呼び出すはずがない。……罠だ!」
制止しようとする監査官の声を背中に叩きつけ、エドガーは厩舎へと疾走した。
「奴らの狙いは証拠の隠滅だけではない! 彼女を倉庫へ誘い出し、消すつもりだ!」
厩の中で最も脚力のある軍馬の轡を取り、雨煙が立ち込める夜の街道へと、エドガーは嵐のように飛び出していった。
暗がりの中、水路沿いの隘路へ差し掛かった瞬間、泥濘から跳ね上がった氷の棘が馬の歩みを遮る。
雨音を裂いて、左右の草むらと堤防の影から六人の術者が姿を現す。外套を濡らした男たちは無言のまま街道を挟み、路面を深い泥沼へと変えて馬の脚を奪い、包囲を狭めてくる。手際が良すぎる。単なる暴漢の類ではない。
正面の二人が豪雨を巻き込み、巨大な氷塊を連続で射出して意識を引きつけにかかる。中央を最短で突破するのが教練通りの判断だが――
(……違う!)
水飛沫の向こう、後方に控えた男の指先がわずかに遅れて動いている。上は目くらましだ。本命は足元、泥水の下を這う遅れた波のほうだ。馬ごと足を奪われれば、四方から斉射を浴びる。
エドガーは強引に手綱を引き絞って馬を跳ばせると、空中で切っ先を真下の泥水へ向ける。泥を走る術の結節点へ、最短の白い細光を叩き込む。水面で鋭い爆縮が起き、背後で練っていた術者の杖が核から弾け飛ぶ。白熱した光が男の防壁を突き破り、泥濘の中へ叩き落とされる。
一人倒した男を見下ろす間もなく、エドガーの胸を灼くのは、己の危険ではなく遠い倉庫への焦燥だ。
「無事でいてくれ! クラウディア……!」
喉を裂くような叫びとともに馬腹を激しく蹴る。
動揺した残る五人が左右から火線と風刃を交差させてくるが、継ぎ目はすでに見切っている。外套の肩を掠める熱と裂傷を気にする暇もなく、鋭い風を薙いで火線を強引に宙へ逸らすと、馬が踏み込む直前の泥濘を硬く締め固めて、疾走するための足場を作り出す。
術者たちが体勢を立て直すより早く、開いたわずかな隙間へ馬を突っ込ませる。背後に降り注ぐ乱射を雨煙の闇へと置き去りにしながら、エドガーは第七穀物倉へ向けて一直線に駆け抜けた。
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第七穀物倉の周囲は、雨音に掻き消されて不気味な静寂に包まれていた。クラウディアたちは予備の馬とともに護衛の一人を外の見張りに残し、警戒を最大限に引き上げながら、半開きになっていた搬入口へと滑り込んだ。
倉庫の中には、案の定、水門番も監査官の姿もなかった。しかし、積み上げられた巨大な切石の側面には、工区から消えた硬質灰石の正規の規格印が確かに刻まれていた。ノミで削り取られたばかりの新鮮な石粉が、足元に白く散らばっている。
「……罠であっても、証拠の在り処までは偽れませんでしたわね」
クラウディアが切石の側面に手を触れ、規格印の刻印を確かめようとした、その瞬間だった。
背後で、軋んだ重い鉄の扉が凄まじい音を立てて閉ざされた。
「何が起きたの?」
クラウディアの問いとほぼ同時に、外で見張っていた護衛の短い悲鳴が途絶え、外側から巨大な閂が落ちる重低音が響いた。
まずい。
闇の中から、穀物袋のバリケードを押し退けて六人の男たちが姿を現した。二人は短い黒塗りの杖を構え、一人は煙を吐き出す金属の香炉を掲げ、残る三人は商会の作業着を纏っていた。全員の靴の先には、硬質灰石の白い粉がこびりついている。
「書類を全部渡しな、お嬢ちゃん。あんたが三か月間、嗅ぎ回って集めた帳簿を全部だ」
留学生の遊びだと嘲笑っていた者たちの目から、侮りは完全に消え失せていた。クラウディアは肩から下げた革鞄を抱き寄せ、後退りした。中身がただの写しに過ぎないとしても、この男たちが自分たちを生きて帰す気がないことだけは明白だった。
香炉の蓋が跳ね上げられ、甘く粘りつくような紫色の煙が床面を這うように広がってきた。
「伏せて!」
クラウディアは叫びながら、両手を床面すれすれへ突き出し、強烈な下降気流を叩きつけた。押し出された風の圧力が、這い寄る煙を男たちの方へと強引に押し戻す。
だが、男たちの短い詠唱が重なり合った。
領兵二人の足元に白い光の環が収縮し、膝の関節が石のように硬化してその場に縫い止められる。前へ出ようとした実家の護衛も、横合いから飛来した鋭い拘束光の帯に両腕を絡め取られた。
一人残されたクラウディアは、即座に身を翻すと、掌から鋭い突風を放って計量台の留め金を弾き飛ばし、巨大な鉄の分銅を通路へと転がした。足をもつれさせた男の隙を突き、足元の空の荷車へ風を叩きつけて押し出し、通路を塞ぐ。
水路へ通じる小さな搬出口まで、あと十歩。
五歩を踏み出した瞬間、背後から飛来した冷たい光の帯が足首に巻きついた。激しい衝撃とともに石畳へ倒れ込み、自由を奪われた手首にも別の拘束光が絡みつく。
「手間をかけさせやがって」
商会の作業着の男が歩み寄り、クラウディアの胸元から革鞄の紐を乱暴に掴んだ。写しを抱え込むより手を放して逃げるべきだと分かっているのに、指先が強張って開かない。
男は強引に鞄を奪い取ると、水路側の小さな扉へ向けて顎をしゃくった。
「眠らせろ。小娘だけ馬車へ積み込む。残りの連中は、忘却香が脳に染み渡るまで転がしておけ」
別の男が扉の閂を外した。外の水路沿いには、幌を深く下ろした馬車が一台、闇に紛れて待機していた。荷台には人間を縛り上げるための太い革帯が備え付けられ、車輪には河岸特有の白い粘土質の泥がこびりついている。
作業着の男の一人が、眉を寄せて吐き捨てた。
「おい、話が違うぞ。小娘は無傷のまま王国の貴族に引き渡す手筈じゃなかったのか」
「上が変わったんだよ! 文句を言わずに縄をかけろ!」
太い革帯。河岸の粘土泥。御者の乗っていない馬車。
――支流へ落とすつもりだ。
頭の中で、全てのピースが残酷な絵図を結んだ。調査に深入りした異国の留学生が、夜道で馬車ごと濁流に転落して命を落とす痛ましい事故。代官補佐の手にかかれば、明朝には哀悼の意を込めた完璧な報告書が仕立て上げられる。
恋愛小説の英雄など、来るはずがない。支局へ使いが届き、監査官が重い腰を上げるまでには、まだ何時間もかかるのだ。
怖い。奥歯が激しく鳴り、どれほど強く噛み締めても震えが止まらない。
それでも、クラウディアは近づいてくる香炉の底に埋め込まれた魔石から、決して視線を逸らさなかった。風を起こせる隙は、香炉の蓋が持ち上がるあの一瞬しかない。
甘い煙が鼻腔をかすめ、喉の奥が麻痺し、視界の輪郭が急速に暗転していく。
その時、一条の白い細光が闇を切り裂いた。
甲高い破砕音とともに香炉の蓋が弾け飛び、眠り香を生み出していた魔石の核だけが、粉々に撃ち砕かれた。
間髪を入れず放たれた第二射が、クラウディアの両手首を縛り上げていた術具の結晶核を精確に撃ち抜く。光の帯が霧散し、痺れていた指先に熱い血が通い出した。
続く第三射、第四射の閃光は、男たちが構えていた杖の先端の触媒だけをピンポイントで白熱させ、瞬時に炭化させた。拘束を解かれた領兵が咆哮とともに立ち上がり、護衛が男たちを組み伏せる。
閃光が走るたびに、敵の魔法だけが無力化されていく。
恐慌をきたした作業着の男が水路側の扉から馬車へ飛び乗ろうとした瞬間、外の暗闇で馬車の車軸の留め金が金属音を立てて弾け飛んだ。車体が激しく傾ぎ、外れた巨大な車輪が石畳を転がっていく。
静寂が戻った倉庫の中に、細い白い残光だけが揺れている。
搬入口の外から夜の雨を背負って、杖を下ろしたエドガーが立っていた。額に汗が滲み、雨に濡れた外套の肩は荒々しく裂け、黒い焦げ跡が残っている。
彼が差し出した手には、紫電の白い名残がまだ細く走っていた。
――英雄は歓呼に背を向け、ただ一人、自らを待つ娘へ手を差し伸べた。
頭の隅へ追いやっていた小説の一節が、もはや拒むことのできない切実さをもって胸を満たした。クラウディアはその手を取った。立ち上がっても、繋いだ指先を離すことができなかった。
「怪我はないか」
荷揚げ場で交わしたのと、まったく同じ問い。
「手首に……少しだけ」
赤く腫れ上がった拘束の痕を見つめ、エドガーは痛ましげに息を呑んだ。
「なぜここが分かったのですか」
「支局で君の使いに会った。君が、動かぬ証拠を見つけ出したのだと確信したからだ」
「……助けを待っていたわけではありませんわ」
強がりの言葉に、エドガーは責めるような響きを一切含めず、ただ深く安堵の息を吐き出した。
「分かっている。待つつもりなら、君はもっと早く私を呼んでいただろう」
足元に散らばった帳簿の写しを見やり、エドガーは静かに呟いた。
「守り抜いてくれたんだな」
その言葉を聞いた瞬間、全身の強張りが解け、指先から力が抜けていくのを感じた。
「……でも、来てくださって、本当によかった」
口から零れ落ちた本音に自分自身で驚きながら、握りしめた手の温もりが意識の中心を占めていく。
不意に床が大きく傾いた。足に力を入れようとした瞬間、エドガーの腕が肩を支える。
「クラウディア?」
魔石は砕かれたはずなのに、甘い匂いがまだ喉の奥に残っている。瞬きをするたびに、彼の顔が遠ざかっていく。
「分かった。分かったから、もう話すな」
返事をしたつもりだった。声にはならなかった。
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襲撃事件から三日後、開拓領の代官所の大広間に、関係者一同が集められた。
学院の技師、領兵、工区の職人頭、水門番、商会の役人、そして王宮から派遣された監査官が居並ぶ中、領務監督官は脇の椅子に悠然と腰掛け、代官補佐は長机の正面で青ざめた顔を強張らせていた。
クラウディアは三冊の分厚い帳簿を長机の上へ並べ置いた。捲り上げた袖口から覗く手首には、まだ痛々しい赤紫色の拘束痕が残っている。代官補佐の視線がその傷跡に触れ、居心地悪そうに逸らされた。
「昨年の雨季、河川流入量が三尺を超えた危険水域の日は、計十二日間に及びます」
クラウディアの硬質な声が静寂を切り裂く。
「南道を通行した荷車の記録は、まさにその十二日間だけ積載量を半減させ、往復回数を倍増させている。しかし、提出された水利報告書には『南道は乾いており支障なし』と記されている。これは書記の記入ミスなどではありませんわね」
代官補佐が必死に取り繕う。
「書記の記録方法に多少の差異があっただけで――」
「では、上流観測所の原簿と、代官所に保管されていた写しのこの差分は何ですの?」
クラウディアは二冊の帳簿を開いて突きつけた。
「該当する十二日間、すべての日の水位記録から、正確に『一尺』ずつ数値が削り取られている。原簿を書き写し、代官所へ持ち帰ったのは、あなたの直属の従僕ですわ。従僕の独断で、国の公文書が組織的に改ざんできるものかしら」
代官補佐の額から冷や汗が吹き出す。クラウディアは容赦なく畳み掛けた。
「さらに、採石場から出荷された硬質灰石百八十台分のうち、実際の工区へ運び込まれたのは百四十三台。消えた三十七台分の通行証の控えと、第七穀物倉から押収された現物の規格印が完全に一致いたしました。代官所の倉庫印が押された水門の副鍵を用いて北門を閉鎖し、南の旧水路へ水を流して穀物倉の敷地を水没させる――すべては、横流しの証拠を隠滅し、レインフォード卿の開拓を失敗に見せかけるための偽装工作ですわ」
広間が激しいざわめきに包まれた。追い詰められた代官補佐は、椅子を蹴立てて立ち上がり、クラウディアを指弾した。
「ええい、黙れ! 異国の留学生風情に、当国の領政を裁く権限などあるものか! 十五の小娘が侯爵家の権威を笠に着て、我が国の行政に口を挟むなど言語道断だ!」
クラウディアは冷然と背筋を伸ばし、その瞳に静かな侮蔑を宿して言い放った。
「もうすぐ十六になりますけれど、数字を読むのに年齢は関係ございませんわ。十二日、一尺、三十七台、二本の鍵。私が並べたのは、あなたが説明責任を果たすべき客観的な事実のみです。数字がどの国の、どの家の者によって読まれようと、事実が覆ることはありません」
「閣下! このような無礼な越権行為を、公の場で許されるのですか!」
代官補佐が助けを求めるようにエドガーへ向き直った。
エドガーは長机の横へ歩み出て、クラウディアの隣に並び立った。
「彼女に調査を正式に依頼したのは、領主である私だ。河岸の偽装を見抜き、観測所の改ざんを暴き、水門の工作を特定したのはすべて彼女の知恵だ。そしてあの夜、彼女はその真実を守るために命を狙われた。この場におけるハルトブルク嬢の調査結果と判断は、領主であるエドガー・レインフォードの判断として扱う。異論があるならば、私に対して数字と現物で反論してみせろ」
『ハルトブルク嬢の判断』という力強い言葉が、石造りの壁に反響した。
母ヘレーネが他人の影に隠れて数字を操っていた姿が脳裏をよぎり、クラウディアの視界が一瞬滲んだ。だが彼女は瞬きを一つしてそれを払うと、自らの名が堂々と公に刻まれた瞬間を噛み締めながら、誇らしく顔を上げた。
監査官の合図により、領兵たちが代官補佐を取り押さえる。倉庫で捕縛された襲撃犯たちの証言により、事態はさらに上層へと波及した。
「男たちの証言によれば、最初の指示は帳簿を奪い、留学生を無傷で王国の貴族へ引き渡すことだった。だが襲撃の前夜、領務監督官の従僕の手によって、支流への転落事故に見せかける計画へと書き換えられた。さらに、街道でレインフォード卿を待ち伏せした刺客も手配されていた」
監査官が差し出した送金控えと一通の手紙に、監督官の顔から初めて笑みが消えた。最初の金はウォルデンベリー侯爵家と資材取引を行っているリーデンブルク子爵家の家令から、二度目の金は監督官の従僕自身から支払われていた。書面には署名も印もなかったが、透かしにはリーデンブルク子爵家の家紋が浮かび上がっていた。
しかし、監督官は平然と首を横に振った。
「その程度の書簡用紙など、王都にいればいくらでも手に入る。私の筆跡でもなければ、私印もない。従僕が勝手に名を騙って暴走した罪を、私に問われても困るな」
従僕は王都からの指示に従っただけだと証言したが、指示を出した黒幕の名までは知らされていなかった。そして王都では、指示を出したとされるリーデンブルク子爵家の家令がすでに姿を消していた。
「誰の命令か、心当たりはありますか」
クラウディアが小声で問うと、エドガーは苦々しく頷いた。
「リーデンブルク子爵家までは辿り着いたが、その奥には手が届かない。尻尾を切られたよ」
『春には』というアラベラの冷たい声が蘇り、クラウディアの舌の奥に苦い悔しさが広がった。あと一枚、確固たる証拠か名前があれば、あの傲慢な令嬢を断罪できたはずなのに。
「……では、次にあの家が間違えた時まで、この悔しさを覚えておきましょう」
「頼もしいな」
「記憶力には自信がございますわ」
連行される代官補佐とは対照的に、監督官は証拠不十分のまま、自らの足で広間を出ていった。去り際、馬車の窓から向けられた薄笑いを、クラウディアは冷ややかに見つめ返した。
広間の外では、職人たちが屑石に赤い廃棄印を打ち、水門番が新しい頑丈な真鍮の鍵を受け取っていた。
手帳を閉じたクラウディアの横で、エドガーが柔らかく息を吐いた。
「今日は、礼を言うだけではとても足りないな」
「倉庫でお助けいただいた分と、これで相殺ということでよろしいのでは?」
「相殺にしてくれるかい?」
「いいえ。……まだ少しだけ、こちら側の貸しにしておきますわ」
エドガーが声を立てて笑った。その屈託のない笑顔を見つめるうち、クラウディアの頬に心地よい熱が灯っていった。
王都へと戻る馬車の中、エドガーは泥のついた革手袋を膝の上に置き、流れる車窓の景色を眺めていた。
「戦場にいた頃は、自分が撃ち抜くべき一点を迷わず選べた。だが領主になってからは、土地を維持するためにどこを修繕すべきなのか、見落としてばかりだ」
クラウディアは口を挟まず、静かに次の言葉を待った。
「君になら、私は自分の至らなさを隠さず、分からないと言える。……その代わり、君が迷った時は、私が撃つべき一点を探し出して道を切り拓こう。あの倉庫で、君を守るために撃ち抜いたように」
「……倉庫では、大人しく待つべきでしたわ」
「次は、先に呼んでくれ」
「はい」
素直に頷いたクラウディアに、エドガーが微かに目を丸くした。
「返事が素直だと、かえって不安になるな」
「次は、ちゃんと待ちますわ」
馬車が大きく揺れ、二人の肩がわずかに触れ合った。離れようと思えばいくらでも離れられる隙間があったが、クラウディアは手帳の頁を指先で押さえたまま、その温もりから身を引こうとはしなかった。
聴取から二日後の午後、留学生寮のクラウディアの部屋に、ウォルデンベリー侯爵家からの見舞いの花籠が届けられた。
純白の大輪の花々を、繊細な銀葉で幾重にも編み込んだ見事な籠の正面には、アラベラ・コンコルディア・ウォルデンベリーの名が記された豪奢なカードが添えられていた。
『一日も早いご快復を心よりお祈り申し上げます』
「綺麗ですけれど……」
ルイーゼが手を伸ばしかけた瞬間、エミーリアが厳しい手つきでそれを制した。
「触れてはなりませんわ、ルイーゼ様。この銀葉の編み込み……当国では、旅立つ死者や、二度と戻らぬ遠方へ去る者へ手向ける不吉な組み方ですわ」
カードを裏返しても、侯爵家の型押し紋章以外、余分な文字は一文字も記されていなかった。
「表向きは、至って礼儀正しいお見舞いですわね」
クラウディアの呟きに、エミーリアが静かに頷く。
「ええ。言葉には一切の落ち度を作らず、花で牽制を寄越す作法ですわ」
クラウディアは実家の護衛を呼び、花籠には指一本触れさせず、カードだけを王宮監査官の元へ証拠品として提出させた。
『小娘は無傷で王国の貴族に引き渡すはずだった』という男たちの言葉が耳の奥に木霊する。あのまま馬車に乗せられていれば、目覚めた時にはもう、この国の運河も、積み上げた調査記録も、そしてあの人の隣も、二度と手の届かない遠い過去へ押し流されていたのだ。
――無傷で引き渡すよう、最初に依頼したのは誰だったのか。
知る由もない疑問が胸の奥に冷たい澱を残す中、窓辺の白い花は、誰からも水を与えられないまま午後の日差しに晒されていた。
重苦しい沈黙を破ったのは、エミーリアが机の上に置いた分厚い講義ノートの束だった。
「聴取の間に滞った講義のノートですわ。科目ごとに整理し、実習の補足まで書き加えておきました。それから来週の測量実習ですが、班の編成をわたくしたちと一緒にしておきましたから。教授には、クラウディア様の分も十全な成果が出せると伝えてありますわ」
「エミーリア様……」
「お礼には及びませんわ。ノートの写しなど、手を動かせばいくらでも作れますもの」
ルイーゼは花籠とは反対の壁をじっと見つめたまま、珍しく一度もからかいの言葉を口にしようとしなかった。
「ルイーゼ様、何か仰りたいことがおありなのでは?」
クラウディアが優しく問いかけると、ルイーゼはぎこちなく振り返り、唇を震わせた。
「……無事で、よかったですわ。本当に、それだけですの。それだけを申し上げに伺いましたのに、エミーリア様のノートがあまりにも立派すぎて、言いそびれてしまいましたわ」
友の真摯な眼差しに、クラウディアの胸が熱く震えた。あの暗い倉庫で命を奪われかけた恐怖が脳裏をかすめ、もしあのまま冷たい川底へ沈んでいたなら、こうして友と言葉を交わす日常も二度と戻らなかったのだという現実が押し寄せる。
「ええ、無事ですわ。……また、あなたたちに会えて、本当によかった」
震えそうになる声をなんとか整えて告げると、ルイーゼが堪えきれずに歩み寄り、クラウディアの手を両手で強く握りしめた。エミーリアも静かに目を伏せ、胸元で深く息を吐き出す。生き延びて、こうして友の前に戻ってこられた。その確かな実感が、冷えていた胸の奥をじんわりと温めていく。
クラウディアは自ら棚へ向かい、あの深緑の庇の店で買い置きしておいた、とびきり甘い焼き菓子の包みを広げた。
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手首の拘束痕が淡い桜色の薄皮へと変わり、秋の気配が色濃くなった頃、クラウディアは学院の中庭の噴水の前でエドガーと待ち合わせていた。今日の彼の手には、いつもの書類の束はなかった。
「水路の改修計画が正式に認可された。水路予定線を北側の強固な地盤へ移し、倉庫の敷地は基礎を三尺かさ上げする。北門には水位と連動する自動警報機を設置することになった。すべて、君の報告書通りだ」
「それが最善の策ですもの。良い結果になって何よりですわ」
エドガーはいつもの軽妙な調子を崩し、居住まいを正してクラウディアを正面から見つめた。
「それと……君に頼みがある」
「何でしょう」
「帰国するまでの残りの期間、私の領地を一緒に見てほしい。書類の上だけでなく、実際に大地を歩き、十年後に水と物資がどのように流れるべきかを、共に考えてもらいたいんだ」
「留学生に対する依頼としては、少々荷が勝ちすぎるお話ではありませんか」
「分かっている。だから、これは単なる領主としての業務依頼で終わらせるつもりはない」
エドガーは深く息を吸い込み、真摯な声音で言葉を紡いだ。
「ハルトブルク嬢。君が留学を終えて帰国した後、侯爵家へ正式に婚約を申し込みたい」
中庭を吹き抜けた一筋の秋風が、クラウディアの淡金の髪をふわりと揺らした。
思わぬ言葉に、思考が一瞬白く途切れる。
胸の奥で、自分でも気づかないふりをしていた感情が、熱を持って輪郭を結ぶ。あの荷揚げ場で風を重ねた時から、泥の中で肩を並べて前を見据えた時から、自分はこの人を好きになっていたのだ。この人と共に歩んでいきたいと、確かに願っていた。
けれど、彼は前線の危機を救った魔導国の英雄であり、宮廷じゅうの貴族がその箔を追っている。自分は他国から一年だけの猶予を買い取ってやってきた留学生に過ぎない。自分のような者が、彼の隣に望まれてよいのだろうか。胸元に抱きしめていた書類の角が、手のひらに痛いほど食い込む。
「……本当に、私でよろしいのですか」
「君がいいんだ」
迷いのない青緑の瞳に見つめ返され、クラウディアは溢れそうになる感情を懸命に抑え込んだ。震える胸を宥めるように、染みついた実務者としての思考を手繰り寄せる。
「……あなたの領地は、我が国へ続く大河の河口に面しています。ハルトブルク家が管理する大運河とは別の、新たな輸送路です。河口に集積港を整備できれば、我が家の穀物を魔導国の市場へ直接流し込むことができますわ」
「帰りの船には、我が領地で産出する魔道具や建材を満載できる」
「ええ。二つの異なる水路を、両家で協調して運用できる利点は計り知れません。両家の当主へ提出する婚姻申請書には、そう記すことになりますわね」
そこで言葉を切り、クラウディアはエドガーの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。書面には載らない、彼の本心を確かめるために。
エドガーは柔らかく微笑み、一歩近づいた。
「だが、私が君に申し込む理由は、水路の利権のためだけじゃない。私には、君と同じ景色を見つめる相手が必要なんだ。困った時に知恵を借りる道具としてではなく、私の全幅の判断を預けられる対等な伴侶として、私の隣にいてほしい」
「家格には、大きな開きがございますわ」
「承知の上だ」
袖口の奥の、かすかに残る傷跡に指先が触れた。あの倉庫で、彼の手を疑うことなく取った。あの広間で、彼が自分の判断を疑うことなく公に認めてくれた。
胸の奥で頑なに張り詰めていた警戒の糸が、静かにほどけていく。
「……正式なお話は、父と家を通していただきます」
「もちろんだ」
「それと、一つだけお約束してください」
「何をだい」
「私の意見を、妻の飾りとして軽んじないでくださいませ」
「決してしない。君の判断を尊重する」
「私も、あなたが危険だと判断された時は、素直に従いますわ」
「約束しよう。君の判断を信じ、私の判断を君に預ける」
クラウディアが抱えていた本を片腕に持ち替えると、エドガーは上着の懐から小さなベルベットの小箱を取り出した。
箱の中に収められていたのは、淡い青緑の稀色の魔素硝子を嵌め込んだ、精巧な銀の袖留めだった。秋の光を浴びると、水面を渡る風のように柔らかな光彩が揺らめいた。
「正式な婚約が成立するまで、私の色を預かってほしい」
「魔導国の習俗では、重い誓約ではなく、好意と誠意の意思表示に過ぎないと存じておりますわ」
即座に返ってきた知識に、エドガーが目を丸くする。
「……ずいぶん詳しいな」
「侯爵家の娘として、必要な教養ですもの」
書庫の棚で、実務書の二つ隣にあった手記の記述を思い出し、クラウディアは平然と言い繕った。
小箱の中の青緑の光を見つめる。それは、あの荷揚げ場の事故の日、自分の風に寸分の狂いもなく重なり合い、泥にまみれながら共に歩んできた、彼そのものの色だった。
伸ばした指先が、いつもの冷静な動作よりもほんの少しだけ震えていた。
「……大切にお預かりいたしますわ」
そっと小箱を受け取ると、エドガーは深く、晴れやかな礼を執った。
残された半年の留学期間中、二人は何度も開拓領の改修現場へと足を運んだ。
雨季の最初の増水が訪れた日、北門に新設された自動警報機がけたたましく鳴り響き、雨に濡れる観測台の上で、二人は肩を並べて安全な水位推移を記録した。南倉の基礎は高く引き上げられ、北側へ付け替えられた新水路の予定線に最初の頑丈な杭が打ち込まれる頃には、留学生寮の空いていた本棚は、クラウディア自らが買い集めた水利学の専門書と、克明に写し取った河川図面で隙間なく埋め尽くされていた。
学院へ提出する最終研究報告書の末尾に署名を書き終えた夜、クラウディアは部屋の鍵と学院章を机の上に並べた。
一年前、母が選んだ実務書ばかりが詰め込まれていた木箱には、今やクラウディア自身の意志で選び取った膨大な知見が詰め込まれていく。荷箱が一つ、また一つと金具を下ろすたびに、故国へ戻る瞬間が刻一刻と近づいてきた。
出立の朝、留学生寮の車寄せには、ルイーゼとエミーリアが見送りに訪れていた。
「一年間、本当にあっという間でしたわね」
ルイーゼが寂しげに微笑み、クラウディアの手を握る。
「ええ。お二人のおかげで、充実した毎日を過ごすことができましたわ」
「社交辞令はなしですわよ」とエミーリアが優雅に口を挟む。「わたくしたちは、クラウディア様がこの一年でどのような素晴らしい成果を勝ち取られたのか、この目でずっと見届けてまいりましたもの」
ルイーゼの鋭い視線が、クラウディアの旅装の袖口へと注がれた。そこには、朝の清冽な光を浴びて、淡い青緑の石が誇らしげに輝いていた。
「そのお色を身につけていらっしゃるということは……」
ルイーゼが息を呑むと、エミーリアが進み出て、あの深緑の庇の店の紙箱をそっと差し出した。
「答えはお聞きいたしませんわ。聞くまでもございませんもの。道中のお供にどうぞ。柑橘のビスケットは、甘いものが苦手な方にも大好評ですわよ」
「ありがとうございます。今回は、王宮の夜勤へ届ける必要はなさそうですけれど」
「そのうち、王宮の休憩室へお菓子を届ける側におなりになるのでしょう? 魔導伯の奥方様として」
「エミーリア様ったら!」
赤くなるクラウディアに、エミーリアは悪戯っぽく微笑んで続けた。
「婚礼の招待状は、学院のわたくしたちの手元まで確実に届くよう手配してくださいましね。どれほど遠く離れていようとも、必ず参列いたしますわ」
手荷物の積み込みが完了し、御者が馬車の扉を開けた。二人の友と固く抱き合い、ステップに足をかけたクラウディアは、最後に一度だけ振り返った。
「またお会いいたしましょう。次は、私の――」
言いかけて、自ら小さく笑って言葉を改めた。
「いいえ。次は、二人でお迎えいたしますわ」
「そのお言葉を、待っておりましたわ!」
ルイーゼの歓声とエミーリアの拍手に見送られ、馬車は王都の門へ向けて静かに走り出した。
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一年ぶりに帰国したハルトブルク侯爵家の本邸の執務室には、昔と変わらぬ冷たい革の匂いが満ちていた。
机の上には、魔導国のレインフォード魔導伯家から届いた正式な婚姻打診の書簡と、王国と魔導国を繋ぐ長大な河川図が広げられている。
当主レオポルト侯爵が、川の流れを指先でなぞりながら重厚な声で問いかけた。
「この婚姻により、我が家は何を得るのだ」
クラウディアは迷うことなく、明確な声で答えた。
「我が家が誇る大運河とは別に、魔導国へ直結する第二の安定した輸送路に強固な足場を得ます。王国内の集積港で穀物を積み替え、帰りの船にはかの国の先進的な魔道具と建材を優先的に積み込む手筈です。先方に対しては、我が家の運河管理ノウハウを段階的に開示し、協調関係を築きます」
傍らで水門改修の工程表を検分していた母ヘレーネが、顔を上げずに淡々と問いを挟む。
「先方に、我が家の水運の規模を扱う能力はあるのですか」
「学ぶ確固たる意志がございます。不足する実務の知見は、私が補います」
レオポルトは静かに頷き、承認の印影を河川図の余白へと力強く押し当てた。
「よかろう」
ヘレーネが次の書類へと手を伸ばしながら、感情を交えぬ声で告げた。
「それから、クラウディア。トラッケン家から再度の申し入れがありましたが、こちらで正式にお断りしておきました」
クラウディアは微かに目を見開いた。
「母上が、ですか」
「魔導国での騒動の経緯は聞き及んでいます。背後で良からぬ動きを画策した者がいたようですが、当家としての対応はすでにすべて済ませてあります。今後、もしあちらから直接の接触があった場合は、すべて私へ報告なさい。あなたが言葉を交わす必要はありません」
「……かしこまりました」
母が裏でどのような手を打ち、トラッケン家の動きを封じたのか、クラウディアにはその詳細を知る由もなかった。だが、もはやそれを問い質す必要もなかった。
自室に戻ったクラウディアは、机の上に置かれた青いベルベットの小箱を開いた。中には、あの中庭でエドガーから預かった淡い青緑の彩留めと、今回の婚姻打診に添えられていた彼直筆の短い私信が収められていた。
『婚儀の後、ハルトブルクの誇る水運管理の技術について、君から学びたい』
武功を誇る英雄が、妻となる者に教えを乞うという率直な言葉に、クラウディアの口元が自然と綻んだ。
彼女はインク壺からペンを抜き、便箋の余白へ向けてさらさらと短い返答を書き加えた。
『では、雨季が訪れる前にいらしてくださいませ』
袖口に留められた青緑の石へそっと指先で触れた後、クラウディアはもう一つの小箱を開いた。中には、彼女自身の魔力の色――淡い黄金の輝きを宿した、真新しい彩留めが収められていた。魔導国へ送り届けるための、彼女からの返礼だった。
本棚の隅に目を向けると、あの日隠した『月桂冠と窓辺の君』の背表紙が、今も実務書の間に挟まれていた。本を手に取ろうと伸ばしかけた手を途中で引っ込め、クラウディアは机の上の私信をもう一度胸元へ引き寄せた。
西陽が差し込む静かな部屋の中で、彼女の頬を染める柔らかな笑みは、誰にも邪魔されることなくいつまでも輝いていた。




