第88話 命の価値、他人以下
いくらカナメがキサラギたちを信用しようと、自分だけは最後まで彼女らを疑っていよう。
マリアはそう決めていた。
カナメたちが彼女らを疑っていないことについては納得している。
かつて自分も、カナメのその真っ直ぐさに揺さぶられたことは事実だ。それに、避難所生活中にも、その信念でシュウイチとの戦闘を回避した実績だってある。
感情だけで動いているように見えて、人を見る目は確かなのだろう。
だからこそ、最後まで万が一に備えておくのは自分の役割だと思っている。
今回、部屋を男女で分けたのもそのためだ。
キサラギとサツキを分けた上で、常に監視下に置く。そうすることで、この姉弟を牽制する意図があった。
なのだが。
「体調は大丈夫?本当にごめんなさい。私の力、傷は治せても体力までは元に戻せなくて……」
「あ、あぁ……」
「あ、そういえば私、今甘いもの持ってるの。もしよかったら食べて?」
「い、いや……」
今、警戒すべき彼女から、物凄く献身的に扱われている。
何だこれは。
距離が近いどころではない。離れない。警戒のケの字もない。まともそうに見えてこの女、なにかがおかしい。
いや、普通に考えたら、そもそも初対面の能力者相手に治療を施そうとすること自体が変だ。リスクが高すぎる。どれだけ合理的な理由を並べても、この女を評価する言葉がない。
「……ねぇマリア、本当に具合悪そうよ。やっぱり無理せず、少し寝ていた方がいいと思うわ」
キサラギは本気で心配そうな表情を浮かべ、顔を覗き込む。
マリアはため息と同時に、目の前のキサラギの視線を振り払った。
「私のことは放っておけ。構われる方が疲れる」
それでもキサラギは一歩も引かず、むしろマリアの右手を握った。
「でもあなた、あれだけ酷い怪我をしていたのに、今でもずっと気を張ってるじゃない……。私を警戒してるのは分かっているけれど、まずは休んで欲しいわ」
度し難いのは、「自分は警戒されている」と理解した上で、この献身さを見せていることだった。あまりにも無防備すぎる。
さらに彼女は、信じられない一言を言った。
「もしかして、私が逃げ出すかもしれないって思うせいで休めないのかしら……。だったら、ここに縛り付けでもしたら安心できる? それで済むなら、あなたに元気になってもらう方が嬉しいわ」
「……何だと?」
善性。聖人。そんな域では収まらない。
感じるのは、過剰な献身、自己犠牲すらも通り越した、人間性の欠如。
なのに無害そうに微笑む彼女は、とにかく不気味だった。
「……お前、何を考えている?」
マリアの冷たい視線に気づいたのだろう、キサラギは申し訳なさそうに、小さく頭を下げた。
「あっ、変なこと言ってしまってごめんなさい。でも、それだけ心配してるってこと。大丈夫、あなたが寝ている間、私はどこにも行かないわ。鍵もあなたに預ける」
なんなんだこの女は。
行動原理がおかしい。
思慮が浅い訳ではない。むしろ、警戒されていることを分かっている時点で、知性は感じる。
だというのに、相手の回復を優先する為に、自分の身はいとも簡単に差し出している。
これではまるで──。
「……では、私が安心するためにここで死ねと言えば、お前は命を差し出すのか?」
「……えっ……?」
これは命知らずなんて言葉で言い表せるものではない。
自分の命を何とも思っていない人間の思考だ。
だから、カマをかけた。
「ふふ。そんな思ってもないこと、言うものじゃないわ。だって、本当にそう思ってるなら、とっくに私の首なんて跳ね飛ばしてるんじゃないかしら」
それでも彼女は、疑いの色一つ見せずに軽く答える。
マリアは、声を一層重くして、キサラギの首元へ右手を伸ばして見せた。
「……わからんぞ。仲間に免じて矛を収めているだけかもしれない。本気だったら、どうするつもりだ?」
いつでも殺せるという脅しのつもりだった。
──なのにこの女は、一切怯えもしなかった。
「んー……。本当にそうだったとして答えると……今すぐここでって言うのはさすがに困るかしら。ホテルの人たちにも迷惑かけてしまうし、カヅキを見つける前にサツキを一人にもできないわ」
……確信した。
マリアは右手をするりと下ろす。
「……なるほどな。それが答えか」
死ねない理由が、全て外部。
この女の判断基準には、自分の命がない。
「死にたがりの面倒まで見きれんな。何かあればすぐに切り捨てる」
「もちろんよ。私たちは無理言ってついてきてる側なんだもの。そう判断するのは当然のことだわ……死にたがりって評価は心外だけれども」
キサラギは屈託のない微笑みを向けてくる。
「でも、弟のためだもの。あなたたちが損するようなことはしないつもりよ。そこは安心して貰えると嬉しいわ」
そのキサラギの言葉に、偽りは無いのだろう。
だが、この思考ではいつか身を滅ぼす。
こいつは、自分の命が天秤に乗った瞬間、躊躇いなく命を投げ出せる女だ。
思考を巡らせている最中で、マリアはハッとして首を振った。
──私は一体、何の心配しているんだ。
先程だって死にかけた。自分たちの命を守ることだけで手一杯だ。この姉弟の命のことまで気にかける義理はない。
それが、私の役割だ。




