第84話 祈りの他人
彼女の「傷を癒せる」という言葉は、本当だった。
シャッターが閉じた店の屋根の下、淡く光る彼女の手がジンに触れ、無数の傷口がみるみるうちに塞がれていった。
次第にジンの荒かった息も顔色も、落ち着きを取り戻しつつあった。
ただ、カナメたち三人は、施しを受けながらも黙っていた。
敵なのか味方なのか、何の目的で傷を癒しに来たのか、何もかもが不明なのだ。
助かったことには間違いないが、代償に警戒し、お礼の言葉はまだ飲み込んだままだった。
すぐ傍では、既に治療を終えたマリアが建物の壁に寄りかかって座っている。傷は癒えたとはいえ体力までは回復していないようで、立つのが辛いらしい。
だが、そんな三人の疑念にまみれた視線を浴びながらも、彼女の瞳は常に治癒すべき傷だけを見ていた。
カナメはずっとその横顔を眺めていたが、正直、何か邪な考えがありそうだとか、そういう風には思えなかった。
むしろその表情は真剣そのもので、大人しそうで優しさに溢れた、普通の女性に見える。
けれど今は、ジンもマリアも満足に動けない。一歩間違えば、簡単に全滅してしまうだろう。
カナメは、自分の甘い気持ちを押し殺し、警戒の目を彼女に向け続けた。
そうしているうちに、傷の治療が終わった。
彼女は、ジンが壁にもたれて座るのを見届けると、ようやく一息ついた。
その頃合を見計らったように、マリアは間を置かず、冷たく言葉を放った。
「何が目的だ」
彼女は、「あらっ」と口元に手を当ててマリアを見た。そして困ったように笑うと、軽く頭を下げた。
「ごめんなさい、私ったらつい、傷のことばかりに集中してしまって、自己紹介も何もしていませんでした。怪しまれて当然ですね」
その表情にはやはり、微塵の悪意も、敵意も感じなかった。
「私はキサラギ。今は別行動中なんですが、弟と二人で旅をしています。治療した目的は……弱っていく気配を感じてしまって、放っておけなかったから、です」
キサラギは微笑み、もう一度頭を下げた。
そんな彼女の礼儀正しさを前に、カナメたちはどう受け止めればいいのかわからず、しばらくの間、顔を見合せることしかできなかった。
*
その後、キサラギの話を聞いてもなお、カナメは彼女を信じるべきか決められないでいた。
治癒の能力しか持たない彼女は一人で戦えず、戦いは全て弟が引き受けているらしい。
それが心苦しくなり、自分にもできることがしたい気持ちが募った結果、旅先で怪我人を見つけては時折治療しているという。弟には苦言は呈されるものの、困った人を見つけたら、いてもたってもいられない性分だそうだ。
実を言えば、自分にもできることがしたいという、そんな彼女の言葉に共感してしまった。
だから本心では、彼女のことを信じたいという気持ちも芽生えつつあった。
だが、今回はシュウイチとは違う。彼はたくさんの人との接触や仕事ぶりを見る機会があったから、善人だと信じて説得した。
それに比べキサラギは、たった今会ったばかり。命を助けて貰ったとは言え、判断材料も彼女の言葉しかない。
現に、ジンとマリアの目からは未だに警戒の色が拭えていない。
それだけが、カナメの心の揺れを、現実に踏み留まらせていた。
「……ところで、一つ聞いてもいいかしら。皆さんは、どうしてこんな大怪我を?」
カナメの思考を引き戻したのは、キサラギのそんな質問だった。
助けられた上に、自分の話もしてくれた彼女に対して、質問の一つも答えないでいるのはさすがに失礼な気がした。
マリアの方を振り向き、「これくらいなら答えていいよね……?」と目配せする。彼女は怪訝そうな顔を崩さないまま、それでも頷いた。
その答えに安心し、カナメは口を開いた。
「……空を飛ぶ、三人組の能力者に襲われたんだ……」
カナメは、惨敗した先程の戦いを思い返しながら、言葉を紡ぐ。
三人とも、色は違えど両手の甲にダイヤ型のタトゥーが入っていた。
一人は輪郭だけ、また一人は下半分が黒く塗り潰されていて、脅威だった真ん中の男のダイヤは、黒一色。
特に黒いダイヤの男は、顔も忘れない。
感情が抜け落ちたような、光のない冷たい瞳。
百八十センチは超えているであろう長身から滲み出る威圧感。最後まで一言も発さず、淡々とジンとマリアの肌と肉を切り刻んでいった残虐さ。
誰にも一矢を報いることが叶わず蹂躙された悔しさと、あまりの自分の無力さに、いつの間にかカナメは、思いの限りを打ち明けていた。
「……俺も弱くて、人に頼らないと戦えないから……自分に出来ることはやりたいっていうあなたの気持ち、凄くわかる……」
「カナメ」
マリアの低く、冷ややかな制止が入った。
カナメはハッとして口を閉じる。
そのままキサラギの言葉を挟ませまいと、すかさずマリアは割り込んだ。
「……治療をして貰ったことには感謝する。だが、今はおいそれと話を信じる訳にもいかない。本当にお前が何の見返りも求めないと言うのなら、このまま下がって貰いたい」
マリアの声には、まだ敵意が残っていた。
ジンもマリアも傷は治ったとは言え、体は見るからにぐったりとしている。どう見ても戦える状態じゃない。
マリアの言葉は、命の恩人が相手と思えない程に冷たい。
だが、万が一、騙されて襲撃を受けた時のことを考えたら、自分なんかが口を挟む余地なんてなかった。
「……! また能力者だ……」
不意に、ずっと黙っていたジンがポツリと呟き、前を見た。
「ま、また……?」
カナメはジンの視線の先を見やる。
まだ誰も来ていない。
だが、この状態で戦いになったら、間違いなくにげられない。
「……くっ」
マリアが歯を食いしばりながら、壁を支えにふらふらと立ち上がった。カナメはみんなを守れるように、マリアとジンの前に立つ。
だが、キサラギは「あっ」と小さく声を上げて一瞬振り返った後、カナメたちへ優しげな声を向けた。
「ふふ、大丈夫よ。そんな構えないで?」
そのまま彼女は立ち上がり、無防備にもカナメたちに背を向けた。
「あれは、弟の気配だわ」
その声とほぼ同時に、離れた建物の裏から人影が現れた。
その人物はこちらを見るなり、呆れたような大声を出しながら、走って駆け寄ってくる。
「おい姉ちゃん、こんなところに! また見ず知らずの能力者なんか助けて……!!」
「大丈夫よ! お話も出来る、普通の人たちだわ!」
キサラギは一切疑わず、カナメたちをフォローする言葉を、奥の人影に送った。
しかし、カナメたちはそれどころじゃなかった。
三人は一斉に顔を見合わせる。
ジンは困惑した目でチラリと人影を見やり、カナメはすぐさま力を放出できるよう身構えた。
そしてそれらよりも早く、マリアは人影へ、鋭い水の鞭を伸ばした。
──人影の顔が、黒ダイヤのタトゥーの男と、全く同じだったのだ。
「うわっ!?」
男は咄嗟に右腕を鉄のハンマーのように変形させて水の鞭を叩き落とすと、キサラギの腕を掴み強く引き寄せた。
「姉ちゃん、何が大丈夫だよ!?」
そのやり取りなど関係なしに、マリアはもう一度腕を振り被ろうとした。
だが。
「マリア、別人だ!!」
「!!」
ジンの叫びに、マリアの動きが止まった。
「……顔は同じだけど、気配がまるで違う。さっきのあいつじゃない」
別人……?
カナメはもう一度彼の顔を見る。
どう見ても、黒ダイヤの男と同じ顔をしていた。
しかしジンが言うのならば、そうなのだろう。
マリアも、振り被ろうとした腕を下ろした。
「……は? 何なんだよお前ら」
男は怪訝そうにこちらを睨みつけてきた。
針が刺すような、ピリピリとした空気の中、キサラギが両手をパン! と叩く。
「……あなたたちはボロボロだし、私たちだって無闇に戦いたくないわ。休戦しましょう? それよりも、今のお話……よかったら、聞かせてくれないかしら?」
「なぁ姉ちゃん何言ってんだよ! 今攻撃されたばっかだろ!」
男の静止も聞かず、キサラギは話を続ける。
「……あなたたち、この子と同じ顔の人を見たって言ったわよね? 私たち、行方不明になったこの子の双子の片割れを探すために旅をしているの。お願い。聞かせてくれないかしら」
それは穏やかなようで、彼女の線の細さとは釣り合わないほどに芯の通った、力強い声だった。
切実に肉親の無事を願う、祈りのような声。
嘘のない、真実だけを孕んだ瞳。
治療中の真剣な横顔。戦えないという自分と同じ悩み。家族を探す、疑いようのない必死な目。
それらに打たれ、カナメはついに、彼女を疑うのをやめた。
「ジン、マリア。俺には……この人たちが敵には見えない……信じてみちゃ、ダメかな……」
カナメの言葉に、マリアは呆れたようにため息をつき、再び地べたに腰を下ろす。
そして、冷たい目でキサラギたちを睨みつけた。
「……お前の言う通り、私たちはそいつと同じ顔の男に殺されかけた。タダでは教えん。こちらにも、知っている情報を渡してもらおうか」
まだ怪訝な顔を崩さない男とは裏腹に、キサラギは安心したように微笑み、頭を下げた。
お互いがお互いを警戒し合い、一つ間違えた瞬間爆発してしまいそうなぐらい、空気が張り付いている。
それが当然なのはわかっていたが、カナメは不思議と「彼らなら大丈夫だ」と、確信を持っていた。




