第82話 湯冷め
「おい、いつまで寝てるんだ。行くぞ」
その一言に叩き起され、ぼやけた目で声の方を見ると、マリアが呆れた顔で見下ろしてきていた。今朝結んでいた髪は既に、見慣れた綺麗な長髪に戻っている。
カナメは体を捻って時計を見る。
「……えぇ!?」
ひっくり返るかと思った。
気づけばもう、すっかり午後を回っている。
昼寝を始めて、二時間が経っていた。
「嘘……ちょっと昼寝するだけのつもりだったのに…」
カナメはいそいそと起き始め、その横ではジンが猫のように四つん這いで体を伸ばしながら、マリアに顔を向けた。
「っていうか、マリアこそ今飯食い終わったのか。だいぶ遅かったな」
「時間をかけると言っただろう」
そういえばマリアは、普段も一時間近く風呂に入るし、ご飯を食べるのもゆっくりだった。
そんなことを思っていると、彼女はさっさと会計のカウンターに向かって歩き出してしまった。カナメとジンは慌てて荷物を回収し、彼女の後ろを追いかける。
会計を終え建物の外に出ると、すっかり太陽は大きくなり、眩しいほどの日差しを地面に向けていた。快晴だ。
温かい空気を身に浴びながら、カナメは全身を伸ばした。
「んー! すっかり晴れてるね。そろそろちゃんとした宿で眠りたいけど、泊まれるところあるかなあ」
「じゃあ適当に、それっぽい気配の音でも辿ってみるわ」
ジンはそう言うとおもむろに歩き出し、マリアもそれに続いた。
今日からまた、宛のない旅が始まるんだな。
そんな久しぶりの感覚に少しだけソワソワしながら、カナメもジンの背中を追いかけた。
*
人の流れとジンの耳を頼りに歩いていると、だんだんと道を行く人が増えてきた。
街が近そうな予感がする。時間もまだ、夕方になるまで余裕がありそうだ。
少し早いが、カナメは胸を撫で下ろす。
「疲れたね! 早く宿探そう」
「ああ、そうだ……な……?」
ジンの言葉と同時に、足が止まった。
急な動きの停止に胸がざわつき、カナメは口をギュッと閉じてしまった。
「おい、何かあったか?」
ジンはマリアの問いかけにも答えず、耳を澄まして周囲を見渡し始めた。
間違いなく何かあるのだろうと確信し、カナメは息を呑む。
ジンは辺りの道に、空に、視線をグルグルと移しながら、人差し指を唇の前に立て、カナメとマリアに息を潜めるようジェスチャーした。
ジンの顔がだんだん険しくなっていく。
いつもなら、敵の気配を見つけた時すぐに「敵がいる」と報告して、逃げるなりしているはずだ。
しかし、今回はそんな様子はない。ただ表情だけが曇り、目を向ける方角もまだ定まらない。
「……簡潔に報告しろ」
マリアが、息のような声でジンに問いかける。ジンは周囲を警戒しながら、やはり小さい声で答えた。
「能力者の気配を感じるのに、地面を歩く音がしないんだ。場所を探ろうとはしてんだけど、どこを向いても気配を感じる気がして……」
そこまで言って、ジンはヒュッと息を詰まらせた。眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締め、ジンの顔はみるみるうちに青ざめていく。
「さん……にん……?」
「さ、三人…っ!?敵が……?」
ジンの言葉に、カナメはできるだけ抑えた声で驚きの声を上げた。
「……囲まれてるかも……」
不穏な報告は止まらない。
「……三人とも……空……飛んでんのか……? 気配が、ずっと上に……」
「……こんな人通りの多いところでは戦えない。気配の特定は後だ。悪いが、私たちを抱えて走れ」
ジンのたどたどしい報告を、マリアがすぐに切り捨てた。その指示にジンはハッとし、カナメを背に、マリアを腕に抱えて走り出す準備をする。
「逃げ切ろうと思うな。あくまで、人気の無さそうな場所を目指すだけでいい。また足が限界を迎えたらマズイ」
「……ああ、わかった」
ジンは一瞬だけ姿勢をかがめると、人目も憚らず地面を蹴り、人の流れを飛び越えた。
以前同じ体勢で全力疾走した時は、ジンの足がボロボロになってしまっていた。その教訓からなのだろうか、スピードは相変わらず速いものの、ジンにしては少し抑え気味だ。
とはいえ、また倒れてしまわないか心配になり、カナメはジンに声をかけた。
「ジン、大丈夫?」
「…………」
ジンは答えない。代わりに奥歯の軋みが聞こえた。その音が、胸の中に燻る嫌な予感を余計に掻き立てた。
そして、次にジンの発した言葉は、カナメへの返事ではなかった。
「……めちゃくちゃ強い能力者の気配がする。やばい戦いになるかも……。覚悟決めといた方がいいぞ」
「え……っ、そ、そんなに……?」
突然の警告に思わず、カナメの声は裏返った。
胸の奥から熱が抜け、指先まで冷えたのが分かる。ジンからこんな警告を聞いたのは初めてだったからだ。
その気持ちはマリアも同じだったようで、すぐに言葉を挟んだ。
「逃げ切るのは無理か? ゴウとユウジの時ですらそんな忠告は聞いていない。もし奴ら強いと言うなら、迎え撃つのは得策じゃない」
マリアの言葉に、ジンは首を振る。
「それは無理だ。奴ら三人とも空飛んでる上に速すぎる。今だって距離は縮んでんだ」
「……戦うしかないか……」
二人の緊迫さに、カナメは以前遭遇した二人組の能力者、ユウジとゴウとの戦いを思い出していた。
あの時だって、ジンが魔物化していなければみんな死んでいた。もしかしたら同じことが起こるのではないか。
──嫌だ。
もしまたジンがおかしくなってしまったら、昔から知っているジンとは、どんどん別人になってしまうんじゃないか。そう思った。
けれど、口には出せなかった。
ジンの代わりに戦うことができない自分は、結局彼の力に頼るしかなかったからだ。
カナメはジンから離れてしまわないよう、せめて力強くしがみついた。




