第79話 轍 〜続・マリアの四日目夜〜
シオリは鼻を啜りながら、ようやくマリアの質問に答え終えた。
恐怖に身を支配され、全身を震わせている。声にならない嗚咽が残響し、ボロボロと大粒の涙がとめどなく溢れている。
しかしこの場には、同情も哀れみも見せないマリアしかいない。彼女を慰めようとするのは、たまに駆け抜ける風の音だけだった。
彼女の話をまとめると、実際にマリアが能力を使う場面を見たところから、彼女の錯乱は始まったらしい。さらに夜にテントを抜け出していることに気づき、今日も来るだろうと見込んで、盗み聞きする為にずっと身を潜めていたという。
場所を変えた日に見つかっていたのも運が悪かったし、能力者でない以上気配の探知はしようがない。さらに音を出さずに潜んでいたのであれば、ジンでもわからない。
それに、能力者であることがバレていた以上、こうなるのは仕方がなかったのだろう。そう割り切ることにした。
「……で、私たちが危険だと思ったから、刺してでも止めようと思った、と?」
シオリは黙ったまま頷いた。
錯乱中の犯行なんて、後先考えずにやっていることぐらい分かっている。
犯行の理由なんて、本当にそれ以上でも以下でもないのだろう。
だからこそ、マリアは畳み掛けることにした。
彼女を逃がさないことにした。
「いいか? "やられる前にやる"という思考を持つようになれば、一生恐怖に付き纏われ、ありもしない早とちりをした挙句、本当に手を汚すことになる。今回のようにな」
「……は、早とちりなんかじゃ……ないです……! あ、あなたは、本当に、その……化け物だったじゃないですか……! 私はちゃんと、それを確かめたから……!」
マリアはため息をついた。
確かにそこを見られたことについては落ち度だ。
「……私たち能力者を疑う気持ちは理解しよう。力を使うところも見たようだしな。あれはまぁ、喧嘩のようなものだが、それで怖がらせたことだけは詫びよう。……しかしだ」
マリアは再び、強い眼光をシオリに浴びせた。
ここで彼女を宥めて終わるわけにはいかなかった。
「それは、お前が手を下していい理由には決してなり得ない。それどころか、万が一相手を間違えて普通の人間を殺す可能性だってある。そうなればお前は、ただの人殺しだ」
シオリの肩がビクッと跳ねて固まった。目があちこちに泳ぎ、浅く息をしている。
「……そ、そんなの……ちゃんと説明すれば、みんな……わかってくれます……」
彼女は、錯乱と過剰な正義に思考が固まっている。やはり普通の説得では、何も届かない。
重く鋭く、冷たい言葉で、彼女の心を刺すしかない。
「……人殺しの話なんて誰が信じる? もしお前が私を仕留めたとして、どうやって私を化け物だと証明するんだ? そんな簡単なことも想像できないのか?」
「……っ」
シオリは、ようやく言葉を失った。
目を見開き、両手で顔を覆う。
マリアはそれでも、責めるのを止めなかった。
「それに、もし友人や恩人が化け物だったらどうするつもりだ? そいつらも問答無用で刺し殺すのか? 友人を殺して、それでも仕方がないと言い張るのかお前は!」
「!!」
シオリは自分の両肩を抱え、ふるふると震え出した。
髪の隙間から、「まずいことをしてしまった」と言いたげな目が見えた。彼女の罪悪感に歪んだ顔が、正義を失くしたと訴えていた。
「……じゃあ、どう見分ければいいんですか……! あなたみたいに正体隠されたら、私たち……逃げようがないじゃないですか……いつ死ぬかわからないじゃないですか……っ。私たちは、どうしたらいいんですか……!」
「……普通の人間に見分けなんかつかない。そんなことしなくたっていい」
シオリは、わからないと言いたげな目でマリアを見てくる。何もかも信じられないのだろう。
マリアはため息をついた。
「……今この復興支援の仕事をしている能力者は他にもいる。だが、誰もここの人を傷つけようなんて思っていない。実際、誰がそうなのかわからないだろう? ……誰もお前たちを傷つけず、愚直に復興支援をしているだろう?」
シオリは目を伏せた。
唇を噛みながら、まだ両肩を抱き締めている。
「能力者だって、力を持ってるだけで案外、中身は普通の人間と変わらない奴もいる。……少し前まで、人間だったんだからな」
──もっとも、そんな奴なんてひと握りかもしれないが。
だが、気配を感知できない普通の人間まで、常に能力者に恐れる必要はない。でなければ、いずれ人間不信に陥り、普通の生活ができなくなってしまう。
これは宥めているのではない。慰めでもない。
人間と、能力者の線引きをしているだけだ。
そんな気持ちなど微塵もわからないであろうシオリは、先程の言葉を信じたのかおずおずと顔を上げた。
「……じゃあ……マリアさんも……?」
マリアは口を閉じた。
──自分も、中身は普通の人間と同じなのか?
そんなこと、口が裂けても言えない。
「……今後お前がするべきなのは、知らないことを知らないまま一人で判断しないことと、とりあえず周りに相談する癖をつけることだ」
「え……っ?」
シオリは驚いた顔で、マリアを見た。
「……どうして……優しくしてくれるんですか……こんな、私なんか……」
……これは、優しくしている訳じゃない。
「お前のためじゃない。この先お前が本当に過ちを犯したら、生きていけなくなったら、ある人の顔に泥を塗ることになる」
「……泥……?」
マリアは、夕飯時に呼び止めた、ナオコの大らかな顔と、彼女に託した頼み事を思い浮かべた。
──身寄りを失くしたシオリを、コウスケと一緒に引き取ってくれないかという頼みだ。
「……ナオコという女性が、お前を引き取ると話をしに行っただろう。……彼女にそれを頼んだのは、私だ」
「……えっ!? マ、マリア、さんが……? どうして……!?」
マリアは答えなかった。
特にシオリに肩入れしていた訳ではない。
たまたま目の前に、「子供を引取りたい」と申し出る女性がいたから、ダメ元で声を掛けただけだ。
敢えて言うような理由でもない。
黙っていると、やがてシオリが喉をひくひくと鳴らし始めた。
そして彼女はベンチから腰を浮かせたと思うと、そのまま地面に崩れ落ちた。
両手で顔を覆い、やがて悲痛に満ちた声が、その喉を駆け上がっていった。
「そんなマリアさんを……わ、私は……こ、殺そうと……私……」
今更自分のしでかしたことの重さを実感したのか、胸を押さえて体を大きく震わせている。
人を殺そうとしたんだ。
苦しんで当然だ。
気がつけば、マリアの足は動いていた。
マリアは初めて、彼女に歩み寄っていた。
自分が何をしようとしているのか、理解していた。それがどれだけ身の丈に合わないことだということも。
自分は能力者で、加害者であり。
彼女は普通の人間で、被害者。
自分は故郷を捨てても生きていける力があり、彼女は一人で生きていくには弱すぎる。
何もかもが違う自分に、本当は助言をする権利なんてない。最初から、彼女を気にかけるような立場にいない。
そう思っていたはずなのに。
マリアは、シオリの隣に膝を着いた。
「……人を殺すということは、生きるよりも死ぬよりも重い。これから独りじゃなくなるんだ、人の厚意を無下にするな」
「マ……マリア、さん……」
シオリは喉を鳴らしながら、マリアに勢いよく抱きついた。
マリアは抱き返さなかった。
そこまでできる資格はなかった。
それでもシオリは、心の中で何かが弾けたように、マリアの胸の中でわんわんと泣き声を上げた。
「ご、ごめんなさい……ッ! ごめんなさい、ごめんなさい!!」
彼女の手が、マリアの背中に回る。
肌が一瞬、チクリと刺されたように痛んだ。
服越しに、背中の火傷に触れたのだ。
彼女の泣き声が遠のく。
瞼の裏には燃える家が張り付き、指先からは人の体温を奪った時のように血の気が抜け落ち、耳には親の絶叫が残響した。
──どうしてあの時、誰も手を差し伸ばしてくれなかったんだ……。
たった今、マリアは思い出してしまった。
あの日からずっと胸に燻り続けていた、どこにもぶつける先のない、理不尽への疑問、恨み、後悔を。
そして、家を無くしてからも何度も襲撃され、いつしか必要であれば何でもできるようになり、感情を押し殺してたことを。
──そうか。重ねてしまったのか。私は。
このままでは自分と同じ道を辿ると思ったから、ここまで首を突っ込んでしまったのか。
シオリは落ち着くまで、マリアの元から離れない。
だがマリアは、最後まで抱き返せなかった。




