第76話 小さな背中の始まりの日 〜続・ジンの四日目〜
今日の炊き出しメニューは、豚汁とおにぎり。初日に食べた献立と同じだ。
ジンは夕飯を受け取ると、傍の長机に食事を置いたまま目を真っ赤に腫らしたコウスケの元へ駆け寄った。
すぐ近くには既に食事を持ったカナメとマリアもいる。今日は四人で一緒に食べることになった。
ジンは数十分前の出来事を思い出していた。
結局、コウスケを母親から引き剥がして帰ってきた後、親子の所業は瞬く間に避難所中に知れ渡ってしまった。
というのも、一緒にコウスケを救出した女性が、母親が嘘を吹聴する前に、と先に顛末を広めてしまったのだ。
その時は予め止めればよかったと後悔したが、お陰で母親の言い訳が通らなくなり、結果的にそれがコウスケを守ることとなった。
避難所中から不信感を顕にした目で見られ、居場所をなくした彼女は、喚きながら街を出ていってしまった。
どこへ向かったのかは分からない。
そして、最後の抵抗にコウスケの腕を掴んで連れていこうとしたが、それは周りの大人に阻まれ、それも失敗に終わっていた。
そうして、コウスケは母親と完全に離れ離れになってしまった。
「母ちゃん……もう帰って来ねえのかな……?」
コウスケは掠れた声で聞いてくる。
あれだけ酷く非難されたんだ。恐らく、帰ってこないだろう。
だが、そういうことは、あまり正直に答えるものじゃない。
「今日は、母親のことは考えなくていい」
「そんなこと言ったら、母ちゃんに怒られるよ……」
ジンはため息をつく。
本当に、コウスケの言動全てに心当たりがあった。どうやったら母親に怒られないか、子供の頃は──いや、実家を出るその時までそればかりを考えて、常に頭の中が母親の顔色でいっぱいだった。
胸が痛んだ。指先が冷えた。
ジンは、食事なんてどうでもよくなり、脇に置いて、ゆっくり膝を落とした。
そして、そのままコウスケを抱きしめた。
「な、なんだよ……っ!?」
「……母親のことばっかり考えるの、やめらんねえよな。……辛えよな」
周りで人が夕飯を食べている。カナメとマリアもこちらを見下ろしている。
けれど、人の目なんて関係なかった。
ただコウスケを見るのが辛くて、どうしてやるのがいいか分からなくて、つい、体が勝手に動いてしまった。
「……けど、お前は俺と違って、周りの大人が気付いてくれたから。まだ信じられないと思うけど、もう母親の為に、独りで頑張らなくてもいいんだよ」
しかし、コウスケは首を振る。
「……わかんないよ。それに……今日母ちゃん帰ってこなかったら、俺、これからどうしたらいいんだよ……」
それは、生きる指針をなくしたコウスケの、切実な気持ちだった。
だがジンは、その答えを持ち合わせていない。
自分自身も、答えを知らないまま大人になってしまった子供だった。
「……そうだよな、分かんねえよな。けど、きっと……」
「あ、いたいた、コウスケくん!!」
ジンの言葉は、遠くから叫ぶ女性の声に遮られた。
声の方に目をやると、先程一緒に現場へ向かってくれたハツラツな女性と、見覚えのないふくよかで穏やかそうな女性の二人が歩いてきた。
ジンはコウスケから手を離して立ち上がると、女性たちの方を振り向く。
ハツラツとした女性は「あらっ!」と声を上げると、捲し立てるように喋りながらジンに近づいた。
「まぁ、さっきのお兄さんじゃない! コウスケくんのお母さんのこと、知らせてくれて本当にありがとうね。むしろ今まで気づかなくて、私たちったら本当に情けないわ!」
「……い、いえ……。そんな感謝されることした訳じゃ……それに、たまたま見かけただけなんで……」
女性の勢いに恐縮し、ジンの声は小さくなる。しかし、気づけばもう次の瞬間には、彼女たちの目はコウスケに向いていた。
コウスケはジンの陰に隠れて二人の女性を見る。
緊張しているのだろう。ジンの足に触れる小さな体が、僅かに震えていた。
そんなコウスケの様子を見て、ふくよかな女性はしゃがみ、じっくりとコウスケの顔を見た。
「あなたがコウスケくんね? ……今日のお話は聞いたわ。大変だったわね」
「そ、そうだけど……だ、だから、何……?」
コウスケはジンにピタリとくっついて動かない。すっかり女性を警戒し、目を合わせようとしない。ジンはただ、コウスケの頭に手だけを置いた。
「怖がらせちゃってごめんなさいね? でも、コウスケくんにお願いしたいことがあって来たの。聞いてくれるかしら?」
──コウスケに、お願い……?
コウスケ半ば恐怖に震えた目で、女性の顔をちらちらと見ている。
嫌なことだけは避けたい。
そんな気持ちがよぎり、ジンは無意識に、コウスケの体を引き寄せた。
だが女性の次の言葉は、そんな杞憂を全て吹き飛ばすような、優しく大らかなものだった。
「……私じゃ不安かもしれないけど、良かったら、一緒に住んでもらえないかしら?」
「……えぇっ!?」
コウスケの声が、驚きのあまりにひっくり返った。目は見開き、キョロキョロと辺りを見回している。
ふくよかな女性は、そんなコウスケを安心させようと、優しい声色で言葉を続けた。
「私の子ね、今回のことで……お空に行っちゃって……今一人なの。だからって言うのは変だけれど、もしあなたさえ嫌じゃなければ、家族になってくれると嬉しいわ。……どうかしら?」
しかしコウスケは、ブンブンと力強く首を横に振る。
「そ、そんな……だって俺……みんなに悪いことしてたってバレちゃったし……そ、それに母ちゃんだって帰ってくるかもしれないし……で、できないよ……!」
コウスケは、ここにいない母親の影に怯えてながら、ジンの顔をゆっくり見上げた。
「兄ちゃん……。お、俺……ど、どうしたらいい……? やっぱりダメだよね……? 一人で頑張らないとダメでしょ……?」
その瞳は、明確にジンに答えを求めていた。
従わなければ叩かれて生きてきたような子供に、突然今後のことを決めろと迫るのは、酷な話だ。
それに、本当に母親と縁を切るという選択自体、この子にはまだ、あまりに重すぎる。
「……すみません。なんでまた、そんな急に?」
ジンは、コウスケを安心させようと背中を撫でながら、静かな声で割り込んだ。
「本当に急よね、ごめんなさい。この子の話を聞いた時、私に出来ることって何かしらって考えて、それぐらいしか思いつかなかったの」
女性は困ったように笑う。
この人は善意で提案してくれていて、コウスケも避難所生活とはいえ、今日から一人で生活しないといけない。
普通に考えたら、この提案を受け入れることが一番いいのだろう。
けれど、コウスケに至ってはそれが正解とは限らない。誰にも、本人ですら正解を判断できない。
大人が引っ張ってやらないと。
綺麗な答えはあげられない。
それでもジンは、先の見えないコウスケの未来に、少しでも橋渡しをしたかった。
「……多分、今すぐには、決められないんだと思います。一度、俺に話をさせてくれませんか?」
ジンは女性へ頭を下げた。
彼女は、何も疑わず「えぇ、勿論」と快諾してくれた。自分のことを、信じてくれているのだろう。
少し胸が温かくなった。
その温もりを分け与えるように、ジンは真剣な目で、しっかりとコウスケを見据えた。
「……母親が帰ってくるまでの間だけ、泊まらせてもらう、っていうのはどうだ?」
予想外な答えだったのか、コウスケは一瞬体を強ばらせ、そして不安そうな顔で俯いた。
「母ちゃんが帰ってくるまで……?」
「あぁ。一旦それまでだ。母親がその内帰ってきたら、その時にどうしようか決める。今日帰ってきたらいつも通りでいい……これだったら、少しは納得できそうか?」
コウスケは、じっくり考え始めた。
口をギュッと結び、目を泳がせ、落ち着きなく体の向きを変えている。
ジンが提示したのは「泊まること」だけ。
しかしたったこれだけでも、コウスケにとっては人生の中で大きな決断のはずだ。
ジンは、静かにその答えを待った。
やがてコウスケは、小さい頭で考え抜き、自分の言葉で精一杯に、掠れた声を絞り出した。
「……泊まるだけ、なら……」
その答えを聞いて、ジンは安堵した。
この子には、自分と違って未来がある。
ジンは女性に、再び頭を下げた。
「勝手に決めてしまってすみません……。でもこれで、コウスケをお願いできませんか?」
女性はただ、嬉しそうに微笑んだ。
「勿論、そのつもりよ。コウスケくんも、たくさん考えてくれてありがとうね」
コウスケはハッとして目を逸らし、返事の代わりに一瞬だけチラリと女性を見た。彼女はそれだけで満足そうに笑う。
そんな二人の様子を見ていると、ハツラツとした女性がジンに話しかけてきた。
「お兄さん。コウスケくんの件、本当にありがとうね。やっぱり、子供が嫌な思いしてるところなんて、見たくないもの。じゃ、私は向こうに行くから、あとはよろしくね」
「えっ!? あっ、はい……」
そう言うと、ハツラツとした女性はそそくさと遠くへ行ってしまった。
コウスケたち親子の話を避難所中にして回ったのは彼女だ。きっとその時に、コウスケを引き取ってくれそうな女性も一緒に探し回り、ここまで連れてきてくれたのだろう。
そのお礼を言わなきゃと思ったが、気づけばもう人混みに紛れて見つからなかった。
「……あの、少しいいですか?」
ふと横から、聞き馴染みのある声……でありながら、聞き慣れない言葉が聞こえてきた。驚いて振り向くと、マリアがふくよかな女性に話しかけている。
敬語だ……。
よく知っているぶっきらぼうな声が丁寧な言葉を紡いでいて、そのギャップに思わず目が丸くなってしまった。
しかしマリアはこちらに一瞥もくれず、そのまま女性と話し始めた。
「マリアと言います。実は、折り入ってお願いがありまして。失礼ですが、お名前を伺っても?」
女性はびっくりしつつ、穏やかに答えた。
「ナオコです。よろしくね、マリアさん。ところで、お願いって何かしら?」
「少し、ついてきてくれますか? 歩きながら話します」
マリアはそう言うと、手に持っていた豚汁とおにぎりを長机に置いて、ナオコの手を引いた。
そして、すぐに人混みに紛れて消えてしまう。
「……急に、何なんだろうな? てかあいつもちゃんと敬語は知ってんだな」
「そりゃマリアだって大人なんだから……」
ジンはカナメに耳打ちしたが、カナメは苦笑いでマリアのフォローをした。でも口に出さないだけで、カナメも絶対違和感覚えてると思う。
カナメの微妙な反応に唇を尖らせていると、背中を軽く小突かれた。ジンはあっと思い出したように振り返る。コウスケが、小さい拳を背中に当ててきていた。
「……てかさ、今思ったんだけど。俺が盗みしたの黙ってるって約束したじゃねえか。なんか、めちゃくちゃ知られてんじゃねえか……」
ジンは返事に困って頭を搔く。
コウスケ親子の所業が広まったきっかけは、ジンが現場を大人たちに見せたことだが、あの時、コウスケを守るために間違った選択をしたとは思ってない。
だが、それを伝えるのもなんか言い訳みたいで、ジンは自分を正当化する言葉を言うのをやめた。
「悪かったな、約束破っちまって」
「ほんとだよ。信用した俺がバカだった」
悪態をついたコウスケはそのまま、ジンの背中に抱きついた。
「兄ちゃんが、本当の家族なら良かったのに……」
「…………」
純粋なその願いに、息が詰まってしまった。
コウスケから、温もりが伝わってくる。
──……家族か。
弟がいたら、こんな感じだったのかな。
そう思うほどに、胸から何かが込み上げてしまいそうだった。
「……バカ言うなよ、俺はもう明後日帰るんだ。それに、お前はもうあの人のとこで泊まるんだろ?贅沢言うな」
ジンは、ぐちゃぐちゃになりそうだった気持ちを誤魔化すように、コウスケを体から引き剥がした。
「あーあ、豚汁食うの忘れて冷めちまったわ。早く食わないと」
わざとらしく声を上げ、ジンは豚汁とおにぎりを急いで頬張った。
冷たい豚汁が喉を通り抜ける。
けれどなぜか、胸の辺りに辿り着いた時には、体を温めるほどにポカポカとしていた。
コウスケは夕飯を食べ終わっても、ナオコが戻ってきてからも、ずっとジンに話しかけ続けた。
結局コウスケは、消灯時間が訪れるまで、片時もジンの傍を離れることはなかった。
やがて真っ暗になり、コウスケはようやくナオコに手を引かれて歩いていった。
その小さな背中を見送る頃には、ジンも心なしか、名残惜しさを感じてしまっていた。




