第75話 過去の痛みは未来の橋へ 〜ジンの四日目〜
今日の作業が終わった。
作業員たちは朝一番にジンを見るなり、口々に心配の言葉を掛けたが、これまでと同じように作業をこなすジンを見て、胸を撫で下ろしていた。
日も暮れる頃、ジンは校舎への帰路についていた。
しかし、ふと昨日のコウスケのやり取りを思い出し、足を止める。
特に用があった訳ではない。けれど何となく、昨日コウスケと話した場所に、足を運んでみたくなった。
ジンは感情に背中を押されるがまま、前に進んだ。
コウスケの自宅が近くなり、昨日と同じ焦げた臭いが鼻を通り抜けた辺りで、物陰から一瞬だけ、見覚えのある小さな人影が視界に映った。
「……コウスケ?」
あそこにあるのは、瓦礫となった家だけのはずだ。
また懲りずに火事場泥棒をしているのだろうか。
何かあったら危ない。
そう思ったジンは、すぐさまそこへ走った。
「……え?」
しかし近づくにつれ、目の前の景色は、思ったものと違う色を見せ始めた。
いや、瓦礫の家のそばにコウスケがいるのは変わらない。だが、明らかにおかしいのは、それを背の高い女性が間近で見ていたことだった。
大人が近くで見ているのに、堂々と火事場泥棒するなんておかしい。
ジンは近づくのをやめ、聞き耳を立てる。
するとすぐに、甲高い声で喚く女性の言葉が耳に飛び込んできた。
「この役立たず! ここ最近、大したものも見つけられないで! 何でもいいから早く金目の物見つけなさいよ! 体の小さいあんたなんか、これぐらいしか役に立たないんだから!」
自分に向いた言葉じゃないのに、その威圧感が、理不尽な怒りの言葉が、ジンの胸を刺した。
あれがコウスケの母親だと、直感が告げている。
同時に一つの疑問が、ジンの頭をよぎった。
───まさか、火事場泥棒は親がやらせているのか?
コウスケが、親を喜ばせようと思ってやっているのかと思っていた。
だが、今の母親の言葉を聞く限り、どうやらそうではなそうだ。
「……で、でも昨日、俺……死にそうになっちゃって……」
「言い訳は結構です! どうせ誰かに見つかって盗めなかっただけでしょ!」
──おい、もう日も暮れてるんだぞ。
こんな時間に子供を瓦礫に忍び込ませようなんて、何を考えてるんだ?
「だ、だってここ……焦げてる家多くて……母ちゃんの欲しいものなんて探せないよ……」
「あー! ほんっと、口答えばっか! 大体、生き残ったのがお父さんじゃなくて、よりによってお金の稼げないあんたなのよ! あんたたちのせいで、私の人生めちゃくちゃなんじゃないの!」
母親の言い分が正常でないことは明らかだ。
元々ヒステリックなのか、夫が死んで半狂乱なのか。
今すぐにでも母親を止めたくて、前に出て行きそうになった。しかし、すぐに踏みとどまる。
こういう親は、自分みたいな赤の他人が行ったところで何の効果もない。その代わり、世間体を何より大事にすることも多い。
やるべきは、近所の人集めだ。
ジンは迷わなかった。
踵を返し、急いで学校へと走り出した。
*
「すみません、誰か! コウスケのお母さんと仲の良い方と、あと何人か男性の方! 来てください!」
ジンは学校の敷地に駆け込み、そこにいる全員に向かって大声で叫んだ。
間もなく炊き出しの夕飯が配られる時間。大勢の人が、建物の外に出てきていた。
事情の分からない住民たちはざわつき、こちらを見ている。ジンは構わずに大声で続けた。
「こんな時間なのに、コウスケが焼けた自宅まで行っちゃって危険なんです! 人手が必要で! それにお母さんも居合わせてて、早く落ち着かせてあげないと!」
言っていることの半分は本当だ。
騙しているみたいで申し訳ないが、今はなりふり構っていられない。
ジンの必死の叫びに異常事態を感じたのか、ハツラツとした女性二人と、一緒に瓦礫撤去の仕事をしていた作業員三人が集まってくれた。
もう空が暗くなり始めている。
作業員のライトを頼りに凸凹の足元に気をつけながら、急いで全員で歩を進める。
そこまで離れている訳じゃないが、それでも若干時間がかかる。とにかく今は、コウスケの無事を祈るしかない。
*
焦げの臭いだ。
ジンは耳をすませながら歩く。
すると遠くから、まだ怒鳴り続けている母親の声が微かに聞こえてきた。
「あんた、やっと入ったと思ったらすぐ出てくるなんて! いつまで怖がってんのよ! 今日は言うこと聞くまで、帰らせないからね!」
よかった、まだ無事だ。
コウスケはずっと抵抗しているらしい。
現場に近づく前に、ジンは後ろの五人に一言忠告した。
「俺はコウスケのお母さんのことよく知らないけど、だいぶ慌ててるように見えました。急に出ていって万が一驚かせても危ないので、少しだけ様子を見て、タイミングを判断して貰えませんか?」
本当の狙いは様子見なんかではなく、この人たちに母親のヒステリックを聞かせるためだ。
だが、五人はその言葉を全く疑わなかった。
ジンは、普通の人でもその声が届くであろう距離までコウスケたちに近づく。
そして、母親の声と自分の嘘に心苦しさを覚えながら、全員に少し伏せるように伝えた。
するとすぐに、女性の金切声とコウスケの泣き声が、全員の耳に届いた。
「今日はもう家の中、暗くて見えないって言ってるじゃん! そんな中泥棒なんて無理だよ母ちゃん!」
「泥棒なんて人聞きの悪いこと! あんたが毎日稼がないから、いつまで経ってもこんな窮屈な避難所暮らしから出られないのよ! お父さんの代わりに頑張るって言ったのはあんたでしょ!」
「や、やだ! お、俺、もう盗みなんてしたくないよ! 死にたくない!」
「こんなことで死にません! いい加減にしなさい! 私がその家に押し込むから、何か見つけるまで出しません!」
「嫌だ!! 母ちゃん離して!!」
コウスケの泣き声が悲鳴になり、辺り一帯に響き渡った。
───ヤバい。
事件性すら感じるやり取りに、身を隠している全員の目が合う。
それからはあっという間だった。
一人の作業員が駆け付け母親を羽交い締めにし、もう一人の作業員が大泣きのコウスケを抱き抱えた。
そして顔面蒼白のコウスケの母親の前に、女性二人が仁王立ちをする。
子供を守ろうとする大人たちの連携が、思った以上に凄かった。
母親は辺りを見渡し、震えた声で話しかけてきた。
「……あ、あら皆さんお揃いで……。ど、どうしたのかしら?」
「あなたこそ、こんなところで何をしていたの?危ないじゃない?」
女性の低く重い圧に気圧されながら、母親は繕った笑顔を浮かべた。
「ちょ、ちょっと自分の家が懐かしくなっちゃって……こ、こらコウスケ、ここで遊んだら危ないって言ったでしょ……?」
「……おい」
母親を羽交い締めしている作業員が、母親の背後から話しかけた。
「最近、ちょくちょく瓦礫撤去の現場でこのガキが泥棒してんだけどよ。……あんたの指示か?」
「な、何言ってるの……? そんな訳ないじゃない……?」
母親は震えながら首を振る。
しかし、ここにいる人間はもう、誰一人として彼女を信頼していない。
母親がどれだけ否定しようとも、指示をしているのを目の当たりにしたのだから。
ジンは、作業員の腕の中で泣いているコウスケに近寄った。
「コウスケ、大丈夫か?」
しかしコウスケは声も出せずに泣いている。
きっと、死にたくない恐怖心と、この後母親に何をされるかわからない恐怖心、何が起きているかわからない混乱でパニックになっているのだろう。
しかし、ここまで来たら部外者が出る幕ではない。ジンはコウスケの背中をさすりながら、黙ってやり取りを見守った。
「あ、あらもういやだわ! 皆さん、さっきのは演技よ、ごっこ遊び! もう、すっかり騙されちゃって……」
「……もういいわ。あんたがそういう人だって知らなかったわ。このまま避難所にいて、私たちの荷物が盗まれても困るもの。出て行っていただけるかしら」
仲良しの女性のその一言に、母親の目の色が変わった。
「酷いわ! こんなことまかり通るわけない! 私もあなたたちがこんなに酷い人たちなんだって他の人に伝えますから! 離してください!」
「離すわけねえだろうが!」
母親は、被害者のようなことを口走り抵抗する。
こういう親は本当に、嘘を真実であるかのように言いふらすのだ。
だが今は母親のことなんかよりも、コウスケのケアの方が大事だ。
ジンは二人の女性へ、恐る恐る提案した。
「……先にコウスケを避難所に帰してあげても、いいですか?」
「ええ、そうしましょう。私も一緒に行くわ」
間髪入れず、一人の女性が答えてくれた。最初に名乗りを上げてくれた時もそうだが、判断の早い女性だ。とても助かる。
「待ちなさい! その子は私の息子です! 誘拐だわ! 絶対に、後悔させてやるから!」
背後では、もう一人の女性が母親に怒鳴りつけ、作業員二人で母親の動きを止めて女性を守っている。
ジン、女性、コウスケを抱えた作業員の三人は一足先に避難所へ向けて歩き始めた。
コウスケは今もまだ泣き止まないが、とりあえず一旦安心してもいいだろう。
ジンは胸を撫で下ろしながら、作業員に抱かれるコウスケの頭を撫でた。




