第7話 友が照らした逃げ道
呼吸の落ち着いたカナメは、背中をさすられながら膝を抱えて縮こまっていた。
「ごめん、迷惑かけちゃって……」
「気にするな。俺も軽率だった。悪かったな」
謝るジンの声には、まだ哀しみと困惑が混じっている。
「でもさ、まだ信じられないんだ。だってカナメはついさっきまで魔物のこと自体知らなかった。しかも“盾で人が死んだ”なんて……」
「……俺の出した盾が消えた瞬間、人が倒れていて……それが今も頭から離れないんだ」
「……お前が人を殺すなんて、やっぱり信じられねえよ。おい、カナメの魔物、何か言ってやれよ。なんかの間違いとかじゃねえのか?」
ジンの声は祈るように、しかしその先の答えを恐れるように震えていた。沈黙がふたりを包む。返答次第で何かが変わる気がして、時間がわずかに重くなる。
そのとき、カナメの頭の中で静かに答えが響いた。
《……間違いではない。だが、不運な事故だと言ってもいい》
カナメは膝を抱えたまま視線を落とす。横顔を見つめるジンは、眉間に深い皺を寄せた。
「……事故……?」
ジンの肩が大きく揺れた。座ったまま体を翻し、じりじりとカナメへ詰め寄る。
「事故って言われたのか!? お前のせいじゃないんだな!?」
しかし、それを聞いたところで罪悪感の影は消えない。命を奪った事実は変わらない。
そんなカナメの気持ちを知ってか知らずか、エルナスは落ち着いた口調で続けた。
《──襲ってきた男は、超スピードを出す力を持っていたようだった。魔物ならともかく、人の身体で盾にぶつかれば死ぬに決まっている。自滅もいいところだ》
カナメは言葉を反芻するように呟いた。
「……事故で、俺の盾に、その人がぶつかったって……」
「そんなの、もらい事故じゃんか! やっぱり、お前のせいじゃなかったんだよ!」
ジンの顔がぱっと明るくなり、肩を軽く叩く。
「あんな壁みたいな盾で人が死ぬなんておかしいって思ってたんだ。お前がそこまで苦しむことはない」
ジンの励ましは力強くても、カナメの脳裏にはまだあの男の姿が、押し潰した感覚が、こびりついて離れない。事故か故意か──そんな些細な違いは今のカナメにとって、救いにはならなかった。
「……逃げちまおうか」
唐突な一言に、カナメは呆気にとられてジンの顔を見る。
「俺は魔物の気配をかなり感じ取れるし、自分の気配も消せる。それでずっと戦いを避けてきたんだ。お前の魔物だって、戦いたくなくて隠れてたんだろ?」
ジンは肩を掴んで笑った。偽りのない本心だと、カナメは感じた。
「俺とお前で生き延びてやろう。もっと遠くへ行ったっていい。独りじゃないなら、それだけで心強い」
その言葉に、カナメの胸に小さな灯がともる。受け入れたくない現実を投げ出して、一緒に逃げ出したい──そんな衝動に心が傾いた。
「……それ、いいね」
情けない自分の顔を嫌いながらも、ジンの言葉に縋るようにカナメは、力なく笑った。
*
──ジンから出た「逃げよう」という提案は、本気だった。
一度家に帰り荷造りをしようということになり、今は自宅でリュックに必要なものを詰めている。なのに、まだ何も実感が湧かなかった。
「本当に、ここから出ていくのかな……」
住み慣れた自分の部屋を見渡す。壁を埋め尽くす本棚とポスター、少し奮発して買ったマットレスのベッド、ずっと見てなくて埃をかぶったテレビ。いつもと何一つ変わらない光景は、これからの逃避行は幻と錯覚させてくるようだった。
普段は読みもしない小説に目を落とす。
確か、金持ちの老婆を殺した青年が後に罪の意識を抱き、自首して生まれ変わろうとする話だったと思う。
それに比べて自分はどうだ。今から何もかもを捨てて、逃げ出そうとしている。なんと情けない。
しかし、だからと言って“自分の手で誰かが死んだ”という現実を背負いながら生きていけるような、そんな立派な人間でもない。
逃げながら細々と生きていくのが、きっとお似合いなのだ。
そんなことを思っていると、不意にインターホンが鳴った。画面にはリュックを背負ったジン。ファスナーがはち切れそうで、中身が溢れそうになっている。
「早いね。鍵開けるよ」
「頼むわ」
玄関を開けると、ジンは息を切らして「待たせたか?」と笑いながら入ってきた。必死でファスナーを閉める手つきが、どこか落ち着かない。
「まだ支度終わってないよ。もっとゆっくり来ればよかったのに」
「お、良かった。とりあえず要るだろって物を詰め込んできただけだから。まだちゃんと仕舞えてないんだ」
「見ればわかるよ。とりあえず部屋入りなよ」
カナメはジンを自室に招き、荷造りを再開する。靴。着替え。貴重品。タオル。逃避行の荷造りなんてしたことがない。何を持っていけばいいのか、手探りだった。
「ねぇ、ジン。そんなに何を持ってきたの?」
ファスナーと格闘するジンを横目で見ると、彼は困ったように頭を掻いた。
「俺は着替えと貴重品と……枕と」
「枕なんて入れてるから入らないんだよ。置いていきなよ」
「俺、あんまり他の枕使いたくないんだけどな……」
ジンはリュックから枕を抜き取って残念そうにファスナーを閉めた。直後、彼の顔がふっと曇り、窓の外をじっと睨みつけた。
張り詰めたような顔につい「どうしたの?」と声をかけると、ジンは警戒しているような小声で耳打ちした。
「……実はさ、さっき俺んちの近くに能力者が来てたっぽいんだ。たまたまかと思って急いで出てきたんだけど、なんかこっちへ向かって来てる。裏山で力使ってたの、嗅ぎつけられたのかも」
室内の空気が一度引き締まる。枕の冗談が、瞬時に現実の危機へと戻った。
「それ……本当?」
「ああ。こっちに真っ直ぐ向かって来てる。……靴履いたらおぶる。俺の足かなり速いから、ちゃんと掴まっておけよ」
カナメは息を呑み頷くと、すぐにリュックを背負う。ジンの緊迫さに圧され、迷う暇すらもなかった。
心臓が波打つ。
これで本当に、非日常に足を踏み入れてしまうのだから。
二人は急いで玄関に向かい靴を履いた。ジンは前にリュックを抱え、背中にカナメを乗せ、扉が開くのと同時に足を蹴った。
「──うわ……っ!?」
思わず声が出る。信じられない速さだ。普通の人間とは比べ物にならない。
ジンは一跳びで塀を乗り越え、屋根へ飛び移る。木の枝に足をかけ、その勢いのまま、また屋根を駆け抜けていく。
二人は、戻れない「日常」に背を向け、歪んだ現実へ飛び込んでいった。




