第63話 昨日までの自分へのエピローグ
「名前……?」
マリアは、一切の感情もこもっていない返事を返してきた。
部屋に戻ってきたマリアが一息をついたタイミングを見計らい、「そろそろ、普通に名前を呼び合えるぐらいの関係になりたいな」と言ってみたのだが、やはり良くなかっただろうか。
「というか気になってたんだけど、マリアはどうして、呼び方が“お前”ばっかりなの?」
「……は? いや特に……」
マリアは、そんなものには心底興味無いようだ。
目には感情どころか光がない。
カナメは肩を落とす。
今日の話し合いで、心の距離が近づいたかなと思ったのだが、もしかしたら思い上がりだったのかもしれない。
マリアの沈黙に負けて押し戻されそうになった時、背後からジンが援護射撃をしてきた。
「その割には、昨日の夜は俺の名前呼んでたって聞いたぜ。そこんとこどうなのよ? ちなみに俺は、今更恥ずかしくて呼べなくなってんじゃないかって踏んでるとこ」
──それ、冗談じゃなくて本気で思ってたんだ……。
しかしマリアは、何言ってるんだという目でジンを一瞥し、一言答えるだけだった。
「別に、必要があれば呼ぶし、なければなんだっていい。不便はしてない」
「あー……そういう感じ?」
ジンはブーと唇を鳴らした。
「あーあ、せっかく歩み寄ろうとしたカナメが可哀想だぜ。なぁ?」
「いや別にその……俺は距離が縮んだら嬉しいなあーって思っただけで、マリアが嫌なら嫌でいいよ……」
カナメは苦笑いしながら両手を小さく振る。
フォローしてくれたジンの気持ちは嬉しいが、無理なら仕方ない。
すっかり諦めて油断していると、マリアから突然、まさかの答えが飛んできた。
「……特に拘りがあるわけじゃない。そうしろと言うのであれば、別に名前で呼んでも構わない」
「えっ、構わないんだ!?」
駄目だと思っていたのでびっくりした。
横でジンが親指を立てた。多分人のお陰だと思う。ありがとう。親指で返した。
「嬉しいな! ずーっと、なんかちょっと距離ある感じしてたから! やっぱりマリアって良い人だよ!」
「そんなに大きい声を出すな……」
彼女の表情は変わらない。
相変わらず何を考えているのかも読めない。
でも少なくとも、嫌そうだったり、怒ったりはしていないと思う。
「……なんだその目は」
「いつ呼ぶのかと思って待ってるとこ」
マリアは、ジンのニヤニヤした顔を見て呆れている。やがて、しばらく経ってもなかなか目線をずらさないジンに、彼女は観念したようにため息をついた。
「カナメとジン。これで満足か?」
吐き捨てるようにそれだけ言ってマリアは立ち上がった。そして足早に扉に向かってしまう。
「あれ、またどこか行っちゃうの?」
「こんな面倒な絡み方されて、居座っていられるか」
マリアはドアノブに手をかけ──それを回す前に、ピタリと動きを止めた。
「……魔物化の脅威は、個人の問題じゃない。何か気づいたことがあればすぐに教えろ。今日の落とし所は、私も納得いっていないからな」
彼女はそれだけ告げ、さっさと外に出ていってしまった。カナメとジンは顔を見合わせた。
頼もしい声だ。
やっぱり、距離が縮んだと思ったのは、思い上がりなんかじゃなかったのかも。
安心したカナメは、倒れ込むように自分のベッドに仰向けになった。
今日はもう一泊するが、明日からはまた、宛もなく歩き出すんだな、と、カナメはふと思った。
本当に、凄く濃い時間だった。
強敵に襲われ本気で命を狙われて、ジンに異変が起きて、マリアに怒られ色々なことに気付かされて、最後にはみんな本気で向き合った。
これがたった二日間の出来事だなんて、とても信じられない。そう思うくらい、自分の中の何もかもが大きく変わった、気がする。
まだわからないことも課題も、山のようにあるけれど、もっと強くなって、みんなと頑張って生きたいな。そう思えるようになった。
何の気なしに、枕元のホワイトチョコを頬張る。思ったより甘かった。
子供の頃はとにかく甘い味が好きだったけど、いつの間にか、甘さだけじゃ物足りなくなっていたみたいだ。
ちょっとは、成長できたのかな。




