第57話 明日の君に向けて
「ただいまー! ごめんジン、遅くなって!」
部屋に戻ると、半裸のジンが服を着ようとしていた。体から湯気が立っている。丁度お風呂上がりのようだ。
カナメは、ジンの体が冷えないよう、マリアが部屋に入ったのを確認して、急いで扉を閉めた。
「あと数秒早かったら、危うく全裸見せつけるとこだったわ」
「何だお前は」
マリアは冷たく言い放つ。
やっぱり男女の羞恥というか、そういう常識的なものはちゃんとあるらしい。見せつけられるの嫌なんだ、なんかちょっと安心した。
「つっても不可抗力なんだからしょうがねえだろ?」
ジンはマリアに突っかかりながら寝巻きに着替えると、自分のベッドに座った。
こう見ると、いつも通りのジンに見える。
しかし、カナメ自身がソワソワしてしまっているからだろうか、どこかいつもと違うようにも見えた。
こういう言葉にできない違和感をすべて、「気のせいだ」と済ませてしまっていたのだろう。
忘れないように、ちゃんと頭の片隅に留めておく。
マリアは黙ってケトルのお湯を沸かし始めた。
椅子に下ろしたその腰が少しだけ重みを持ったように見える。きっと、さっきの説教で疲れさせてしまったのかもしれない。
会話が流れることもなく、少し気まずくなってしまう。全員から漂う疲労感で空気が重い。
正直、あれだけ詰められた後で陽気に話を始める気なんか起きなかったが、やはり性分なのか、カナメは自然と口を開いてしまった。
「……そういえば、明日は久々にゆっくりできるんだよね。なんか、旅行してるみたい」
下手なこと喋ってるなあと思いながら、二人に向けて言う。ジンも下手だと思ったのだろう、ちょっと呆れた顔で笑いながら答えた。
「……はあ? 旅行も何も、ずっとあっちこっち行ってるだろ」
「そうだけどほら、明日はまだ寝床探して宛もなく歩かなくていいし」
「…………」
ジンは黙ってしまった。
頭を掻き、大きく息を吐く。
「……こんな話をする為に戻ってきたわけじゃないんだろ? 早く本題入れよ」
カナメはドキリとした。
ジンが俯いたまま言い放った、その言葉に。
その声には諦めのような、そんな薄暗い色が滲んでいる。
気づいてしまった。
ジンは……聞いてたんだ……。
「何の話だ」
しかし、そこに割り込んだのは、マリアの鋭く、抑揚のない声だった。
「こいつとの話し合いが終わったから帰ってきただけだ。今のところは、お前に話すこともない。これを飲み終わったら、私はシャワーを浴びて寝るぞ」
「……は? どういうことだよ」
マリアはカップにお湯を注ぎながら、ジンに見向きもせず答える。
「お前が何を勘違いしているのかは推察するが、今のお前は疲労が溜まって判断力も落ちているだろう。これから話したところで建設的な答えが貰えるとは思っていない。何をするにしても明日からだ」
「勘違いって……だってお前ら……!」
マリアは返事もせずティーバッグを揺らし始めた。ジンは絶句している。
だが、その体は間違いなく、カナメとマリアの二人を警戒するように身構えていた。
確かにマリアの言う通り、何か誤解しているのかもしれない。
“本題”については明日マリアに任せるにしても、先にジンの警戒だけは解いておかなければ。
そうしないと多分、気になって夜眠れないかもしれない。
カナメはいそいそとジンに近寄り、耳打ちした。
「マリアがお風呂入ったら、ちょっと話そ」
「ん、あ、あぁ……」
ジンは心ここに在らずのまま、空返事を返してきた。とは言え、まだ何を話すかなんて決めてないが、マリアが紅茶を飲み終わるまでに考えよう。
カナメは自分のベッドに座り直し、その時を待った。
*
──マリアが紅茶を飲み終えてからしばらく経ち、香りもすっかり薄まってきた。
ようやく、水が壁を叩きつける、籠ったような音が響き始めた。マリアがシャワーを浴び始めたのだ。
カナメはジンの隣に座り、耳打ちの準備をする。
「そんなに近くなくてもいいだろ……」
「えー、あんまりマリアに聞かれたくないんだけど」
「平気だろ、シャワー浴びてんだし。聞こえねえよ」
そっかあ、と漏らしながら、カナメはジンと少し離れて隣に座った。
「……やっぱり隣なのな?」
「内緒話だし、何となくね」
カナメは少しいたずらっぽく笑う。
それを見たジンは、少し目を逸らした。
「で、話って何だよ……もし、マリアとお前がしてた話のことなら、もう聞いてるぞ」
カナメは息を吸った。
もう、腹を決めた。
「……だと思ったんだ。どこまで?」
「まあ、最初だけだけど。俺の足が魔物になった話になって、カナメが俺のことを、なんか変だったって言ったり、マリアも危険だって言ったあたりまで……」
そうだろうな、とうっすら思った。
もし、ジンが自分を危険人物だと思って、こういう態度を取っているなら、ちゃんと伝えないといけない。
そうしないと、今度こそジンを傷つけて、それだけで終わってしまう。
カナメは、ジンに見えないように、片手をぐっと握った。
「これだけは先に伝えておきたいんだけど、俺、ジンのことは危険だなんて思ってないからね」
「……は?」
ジンはキョトンとしている。
このままジンが沈むところを見たくなくて、カナメは柄もなく畳み掛けた。
「さっき、今のジンを放っておいたら危険になるって話をしたのは本当。でも、だからマリアは、ジンがそうなる前にどうにかしようと言ってくれたんだよ。俺も、そうしたい。……細かい話は、明日マリアに任せちゃうけど」
ジンはギュッとシーツを掴む。
力が入っているのはその指先だけで、口から漏れた声は、酷く弱々しかった。
「……そうなのか?」
指だけじゃない。ジンの喉も、震えていた。
「……俺だって、どうにかできるならしてえよ……。でもわかんねえんだよ、制御できるのかも、今後起きないようにできるのかも。……多分、全部俺次第なんだ。でも、俺自身が……自分を信じられねえんだよ」
このまま、ジンを離しちゃいけないと思った。
昨日してくれたように、ジンの両肩を掴む。
今自分にできる精一杯を、伝えたかった。
「だから、明日、一緒に考えよう。俺も考える。マリアだってすっごく考えてくれてる」
そして、見ないフリをやめて、はっきり気づいた、今の正直な気持ちも。
「俺、このまま何もしないで、ジンがどうなるのかわかんない方が嫌だよ」
「……明日……」
カナメは深く頷く。
「うん。俺も正直、何ができるのか全然わかんないけど、でもできるだけ頑張るから……だからジンも……」
言葉を言い終わる前に、ジンは肩からカナメの手をさっとどかすと、そのままそっぽを向いてしまった。
「ジン……?」
「……お前さ、なんか変わった?」
カナメに背を向けたまま、ジンは少しだけ震えた声で呟いた。
「んー、ちょっと?」
「だよな」
ジンの肩が、一度だけ大きく上がり、そしてゆっくり沈んでいく。
「はーあ。なんか。ごめん。俺だけなんも変わってねえわ。……んだよ、あんま見んなよ」
背中を向けたまま、ジンはカナメをあしらうように手を振った。
カナメは苦笑いしながら自分のベッドに戻る。
ジンは全く顔を見せないまま、もぞもぞと布団に潜っていった。
「……ありがとな」
布団の中から聞こえたその声は掠れて、籠ってもいた。けれど、それが耳に届いた瞬間、心につっかえていた不安や焦りが、スルスルとどこかに落ちていった。
入れ替わりに、ちょっとだけ、胸がムズムズした。
「……やだな、照れ臭いよ」
「うるせ」




