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魔蝕のレゾンデートル  作者: 古里古
第二章
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第56話 汚れていく爪先


 ジンは、浴槽から出れずにいた。

 ホテルのユニットバスなんて、大体シャワーで済ますものなのだろうが、どっと疲れに襲われ、どうしてもお湯に浸かりたくなってしまった。


 ぬるくなったお湯を少し流し、赤い蛇口を捻った。まだ、ここから出たくない。


 ──少しだけ、二人の話を聞いてしまった。


 盗み聞きしようとしたわけじゃない。

 耳が、拾ってしまった。


 マリアが、足の魔物化についてかなり深刻に捉えていること。その危険性を、カナメに伝えたこと。カナメですら、違和感を感じていたこと。


 最後まで聞きたい気持ちと、それ以上聞いたら耐えられないという本能がぶつかり、話が込みいる前に逃げ出してしまった。


 浴槽の中で小さく折り曲げられた脹ら脛を掴み、軽く揺らす。見た目通りの、人間の足だった。


「危険かも、だってよ、俺……。何もかもお前のせいだ」


 頭の中で、ニタニタしながら居座る魔物に悪態をついた。

 こいつはずっと、楽しそうにしている。

 足が変なことになってから、ずっと。


《人間から見れば脅威というだけ。ほんの些細な話だ。悩む必要は無い。それだけの力があるんだ、俺たちにはな》


「余計なことしやがって。力なんて、要らねえのによ」


《馬鹿なことを言うな。そもそも、俺の足が表へ出たのは、お前と俺で力を渇望した結果だ》


 グルザは嬉しそうに喉を鳴らしている。

 その音に、腹の奥がふつふつと煮えそうだった。しかし、怒りは湧いても反論は出来ずにいた。


 足が魔物になってしまったのは、自分のせいだとわかっているからだ。


「……仕方ないだろ……」


 息ができなくなって意識が朦朧とした時、グルザに「生きるのを諦めたのか」「お前が動かなければ全員死ぬ」「全員で生還するぞ」と“鼓舞”された。

 

 全ての言葉が、自分の中で正義だった。

 だから、みんなを守る力を欲して、グルザの手を取ってしまった。

 

 自分の意思で決めたんじゃない。

 グルザの誘いに負けて、流されてしまったんだ。


 グルザはそんな気持ちを全部見透かした上で、敢えて見せつけるかのようにほくそ笑んだ。


《だが、俺も知らなかったぞ。まさか、人間と精神を同調すると、身体の一部を頂けるなんてな。しかも、あんなにも力が湧いてくるとは!》


「身体、くれてやったわけじゃねえよ……。大体、足はお前のでも、動かしたのは俺の意思だったじゃねえか」


 クックッと、耳障りな笑い声が胸の奥まで届く。


《分かっている癖に、何を言う。自分の意識を保っているつもりになっただけだ。間違いなく、あの時の俺とお前は一心同体だった。そうだよな?》


 グルザはそのまま、聞いた事のないほど高揚した声で、跳ねるように畳み掛けてきた。

  

《いつもは力を引き出されるだけだった俺が、俺自身の意思で、お前に干渉してやった! 体を動かしたんだ! あぁ、強く残ったお前の意思で、殺しまではしなかった、人間共との約束を守ったさ。だがな……》


 見えないはずの牙が、チラリと光った気がした。


《これまでと比べ物にならない力を手に入れたのは事実。死にたくないお前にとっても、悪い話じゃないだろう……?》


「あの二人に危険だって思われてんだぞ、もう二度とやらねえよ」


 そう突き放しても、グルザの距離は離れていかない。


《まぁそう言うなよ……あそこで力を合わせなかったら、確実にお前らは全員死んでいたんだ。現に、あのお仲間だけじゃどうにも出来なかったはずだ》


 実際そうだ。だから、強く出ることが出来ない。


《なぁに……一度混ざりあったんだ。いち早くコツでも掴み、俺がお前を導いてみせよう。どうだ、戦いから逃げ続けたお前が、遥かに戦えるようになるんだ》


「別に……俺は戦えるようになりてえわけじゃ……」


 ……。

 

 ……言い切れなかった。

 グルザの言葉を拒む資格なんて、自分にはなかった。


 ついこの間の事なのに、「自分が化け物になるんじゃないか」と怯えていた頃が懐かしい。

  

 最初は、全身が人間離れしていく感覚だけで怖かったのに、カナメの為にって戦いに足を踏み入れ、力の扱いにも抵抗がなくなり、挙句の果てに、足そのものが魔物になってしまった。


 もう、正真正銘の“化け物”になってしまった。

 

「……せめて、抵抗さえあれば、“まだ俺は人間なんだ”って、胸張って言えたのになあ……」


 ため息が、水面を揺らす。


《何を悲観することがある。強くなるだけ生き延びる可能性が高まるんだ。人間という肩書きへの固執なんて些細なものだ。死にたくなければ、さっさと捨ててしまえ》


 悔しいが、一理あると思ってしまった。

 

 今日みたいな逃げきれない相手に、運悪く気配を感知されたら、嫌でも戦いになってしまう。

 ならばもういっそ、最初から諦めて、化け物を名乗ってしまった方が楽なのかもしれない。


 ──こうなりたくなくて、逃げ出したはずなのにな……。


《そうやって、お前が何もかも諦めてくれれば、完全に身体を乗っ取って、好きなだけ暴れ回れるかもしれないしな。俺としては大歓迎だ》


 あーあ。

 

 カナメに「魔物なんかに惑わされるな」なんてカッコつけたこと言った癖に、言った本人がこんな簡単に手のひらで転がされてしまうなんて。

 

 乾いた笑いが、口から零れた。

  

 こんな人間が、ヤバい魔物を腹に飼ってたら、そりゃ危険なんて言われるか。


 ──あぁ、知ってる足音が聞こえてきた。

 

 あいつらの気配だ。

 いつの間にこっち向かってきてたんだろ。


 あの後、何喋ってたんだろうなあ。

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