第56話 汚れていく爪先
ジンは、浴槽から出れずにいた。
ホテルのユニットバスなんて、大体シャワーで済ますものなのだろうが、どっと疲れに襲われ、どうしてもお湯に浸かりたくなってしまった。
ぬるくなったお湯を少し流し、赤い蛇口を捻った。まだ、ここから出たくない。
──少しだけ、二人の話を聞いてしまった。
盗み聞きしようとしたわけじゃない。
耳が、拾ってしまった。
マリアが、足の魔物化についてかなり深刻に捉えていること。その危険性を、カナメに伝えたこと。カナメですら、違和感を感じていたこと。
最後まで聞きたい気持ちと、それ以上聞いたら耐えられないという本能がぶつかり、話が込みいる前に逃げ出してしまった。
浴槽の中で小さく折り曲げられた脹ら脛を掴み、軽く揺らす。見た目通りの、人間の足だった。
「危険かも、だってよ、俺……。何もかもお前のせいだ」
頭の中で、ニタニタしながら居座る魔物に悪態をついた。
こいつはずっと、楽しそうにしている。
足が変なことになってから、ずっと。
《人間から見れば脅威というだけ。ほんの些細な話だ。悩む必要は無い。それだけの力があるんだ、俺たちにはな》
「余計なことしやがって。力なんて、要らねえのによ」
《馬鹿なことを言うな。そもそも、俺の足が表へ出たのは、お前と俺で力を渇望した結果だ》
グルザは嬉しそうに喉を鳴らしている。
その音に、腹の奥がふつふつと煮えそうだった。しかし、怒りは湧いても反論は出来ずにいた。
足が魔物になってしまったのは、自分のせいだとわかっているからだ。
「……仕方ないだろ……」
息ができなくなって意識が朦朧とした時、グルザに「生きるのを諦めたのか」「お前が動かなければ全員死ぬ」「全員で生還するぞ」と“鼓舞”された。
全ての言葉が、自分の中で正義だった。
だから、みんなを守る力を欲して、グルザの手を取ってしまった。
自分の意思で決めたんじゃない。
グルザの誘いに負けて、流されてしまったんだ。
グルザはそんな気持ちを全部見透かした上で、敢えて見せつけるかのようにほくそ笑んだ。
《だが、俺も知らなかったぞ。まさか、人間と精神を同調すると、身体の一部を頂けるなんてな。しかも、あんなにも力が湧いてくるとは!》
「身体、くれてやったわけじゃねえよ……。大体、足はお前のでも、動かしたのは俺の意思だったじゃねえか」
クックッと、耳障りな笑い声が胸の奥まで届く。
《分かっている癖に、何を言う。自分の意識を保っているつもりになっただけだ。間違いなく、あの時の俺とお前は一心同体だった。そうだよな?》
グルザはそのまま、聞いた事のないほど高揚した声で、跳ねるように畳み掛けてきた。
《いつもは力を引き出されるだけだった俺が、俺自身の意思で、お前に干渉してやった! 体を動かしたんだ! あぁ、強く残ったお前の意思で、殺しまではしなかった、人間共との約束を守ったさ。だがな……》
見えないはずの牙が、チラリと光った気がした。
《これまでと比べ物にならない力を手に入れたのは事実。死にたくないお前にとっても、悪い話じゃないだろう……?》
「あの二人に危険だって思われてんだぞ、もう二度とやらねえよ」
そう突き放しても、グルザの距離は離れていかない。
《まぁそう言うなよ……あそこで力を合わせなかったら、確実にお前らは全員死んでいたんだ。現に、あのお仲間だけじゃどうにも出来なかったはずだ》
実際そうだ。だから、強く出ることが出来ない。
《なぁに……一度混ざりあったんだ。いち早くコツでも掴み、俺がお前を導いてみせよう。どうだ、戦いから逃げ続けたお前が、遥かに戦えるようになるんだ》
「別に……俺は戦えるようになりてえわけじゃ……」
……。
……言い切れなかった。
グルザの言葉を拒む資格なんて、自分にはなかった。
ついこの間の事なのに、「自分が化け物になるんじゃないか」と怯えていた頃が懐かしい。
最初は、全身が人間離れしていく感覚だけで怖かったのに、カナメの為にって戦いに足を踏み入れ、力の扱いにも抵抗がなくなり、挙句の果てに、足そのものが魔物になってしまった。
もう、正真正銘の“化け物”になってしまった。
「……せめて、抵抗さえあれば、“まだ俺は人間なんだ”って、胸張って言えたのになあ……」
ため息が、水面を揺らす。
《何を悲観することがある。強くなるだけ生き延びる可能性が高まるんだ。人間という肩書きへの固執なんて些細なものだ。死にたくなければ、さっさと捨ててしまえ》
悔しいが、一理あると思ってしまった。
今日みたいな逃げきれない相手に、運悪く気配を感知されたら、嫌でも戦いになってしまう。
ならばもういっそ、最初から諦めて、化け物を名乗ってしまった方が楽なのかもしれない。
──こうなりたくなくて、逃げ出したはずなのにな……。
《そうやって、お前が何もかも諦めてくれれば、完全に身体を乗っ取って、好きなだけ暴れ回れるかもしれないしな。俺としては大歓迎だ》
あーあ。
カナメに「魔物なんかに惑わされるな」なんてカッコつけたこと言った癖に、言った本人がこんな簡単に手のひらで転がされてしまうなんて。
乾いた笑いが、口から零れた。
こんな人間が、ヤバい魔物を腹に飼ってたら、そりゃ危険なんて言われるか。
──あぁ、知ってる足音が聞こえてきた。
あいつらの気配だ。
いつの間にこっち向かってきてたんだろ。
あの後、何喋ってたんだろうなあ。




