第54話 容赦のない慈悲
「まずは、ジンの魔物化の話から始めようか」
そう話を切り出すマリアの顔は、夜の暗さも相まってちゃんと見えない。その表情の見えなさが、逆に体を強ばらせた。
「……ま、魔物化って、ジンの足が途中で……凄いことになっちゃった時のアレだよね……?」
「ああ。本題に入る前に聞いておくが、お前はアレを直接目にして、どう感じた?」
カナメは少し俯いてその時の記憶を思い返す。
あの時はマリアの指示通り、倒れていたジンの傍で回復を待っていた。
そうしたら急にエルナスが「気配が変だ」と言い出して、同時にジンに手を掴まれた。
そのままジンは黙ってゆっくり歩き出して……上手く言葉にはできないが、「何かが変だ」とは思った。
「……動きとか、少しおかしいな、ジンっぽくないな……って思ったぐらい……。その後、エルナスから“あれは魔物本体の足だ”って言われた。……本当かは、分からないけど」
「なるほど。軽微にしても、何かしらの違和感は覚えたわけだ」
マリアは腕を組み、冷たい声のまま続ける。
「確認ついでにこれも聞いておこう。お前、魔物の気配はどこまで感じ取れる?」
「え、気配……?」
記憶を辿っても、正直、自分から気配に気づいた覚えはほとんどないと思う。
「俺自身は、そこまで……。強いて言うならたまーに、なんか空気がピリっとするな、ぐらいはあるかもしれないけど。どちらかと言うと、ジンとかエルナスに教えて貰ってるだけで、俺自身が感じてるって訳じゃ……」
「合点がいった」
合点……?
「ジンの足の変化だが、お前の魔物が言う通り、魔物の足そのものと考えて差し支えないと思っている。あれは明らかに嫌悪感を撒き散らしているような気配をしていた。それは感じなかったか?」
「えぇ……?」
もう一度記憶を手繰り直す。けれど、終始必死で、そんなに細かい感情までは覚えていない。ただ、少なくとも嫌悪感までは分からなかったと思う。
「……うん。なんか変だな、って思っただけ」
「わかった。なら、それを前提に話を進めよう」
マリアは一瞬の隙すら与えてくれない。こちらの回答を待つ時以外、何の猶予もくれず言葉を続けてくる。
「そもそも、能力者の気配というのは、魔物だけの気配を感じ取っているのではない。少しわかりにくいとは思うが、“人間という箱の中に、魔物が閉じ込められている”というようなイメージを受け取っている」
「……んー、分かったような、分からないような……」
マリアは淡々と続ける。
「本来であれば、人間と魔物、両方を一括りにした気配を感じ取って“これは能力者の気配だ”と認識しているんだ。……だが、あの時のジンは違ったんだ」
嫌な予感に、口を閉じてしまった。
この先の話を聞きたくなかった。
だがマリアは、揺れるカナメの瞳を見ても、一切手を緩めない。
「足に限りだが……魔物“だけ”の気配が剥き出しになっていた。お前は感じ取れていなかったかもしれないが、危険な可能性は相当高いと思った方がいい」
「……ど、どういうこと……」
思わず、手に力が入ってしまう。
「……ジンが、危険だって……そう言ってるの……?」
「断定はしていない。あくまで可能性の話だ」
マリアは組んだ腕を下ろし、一呼吸置いた。
「……お前がそれを認めたくないのは分かっている。だが、このまま曖昧にしていたら、本当にあいつが危険な存在になってしまうかもしれない。それは本意ではないだろう」
ハッとしてマリアを見る。
胸が微かに、チリチリと痛む。
心の奥にある重い重い蓋が、少しだけずらされたような、そんな気持ちになった。
けれど、続きを聞く前に、どうしても一つ確認したくなった。
「……ねぇ、マリアは、本気で思ってるの……? ジンが、危険になるかもって……」
声が震えている気がする。答えを聞くのが怖い。質問したことを後悔した。しかし、マリアは当然のように即答する。
「思っている。そうならない為に、私は明日、あいつに詳しいことを聞くつもりだ。だがその前に、お前には先んじて情報を共有する必要があると判断した」
……危険だと思ってるから、この話をしてるんだよね。聞くまでもなかった。
でもだからって、俺はそれを聞いて、どうしたらいいんだろう。
急にそんなこと言われても、俺に出来ることがあるとは思えない。魔物の知識なんて全くないんだ。
唇を噛んだ。
マリアはそんなカナメの心を見透かすように、言葉のナイフを向けてきた。
「……あいつに向き合うんじゃなかったのか?」
──え?
「私は覚えているぞ。お前が自分本位にしか考えず、あいつの苦しみに見向きもしないで傷付け、謝罪していた事をな。……まさか、謝罪しただけで終わりだなんて言わないだろうな?」
胸の奥が、何かにグサリと貫かれた。
マリアの部屋で、ジンと話したことを思い出す。
いや、あの時、ジンとちゃんと向き合ったじゃないか。謝って、仲直りもした。
言い返したかった。言えなかった。
否定の言葉を掻い潜って姿を現した一つの疑問が、心に刃を突き立てた。
──俺はただ、ジンが苦しんでいることに、知らずに傷つけている事に気づかなくて、俺が悪かったんだって……謝っただけ……?
「お前はジンの、“自分が人間じゃなくなっていくかもしれない”という、肝心な根幹について理解を示していない。だから表面の問題にしか目を向けることが出来ない。違和感の正体を探ろうとしない」
こんなに胸が痛いのに、それでもマリアの言葉は止まらない。
「それともお前は、目の前で苦しいと言われなければ知らないフリをするつもりか? 違和感を抱いておきながら、なお目を逸らすということは、前と全く同じことをしているのと同義だぞ」
マリアの視線は、真っ直ぐカナメを掴んで離さない。
見ないフリを……していた……?
前と同じことをして……ジンを傷つけている……?
心の蓋に隠され続けていた何かが、無理矢理引きずり出されていくような気がした。
苦しくて何もかもがむせ返りそうな気持ちと、それでもマリアの目を見なければいけない圧に、体ごと全部押し潰されそうになる。
でも、それだけじゃない。
頭の中もいつしか、無意識のうちに靄で見えなくなっていたようだ。
マリアの言葉に、ゆっくりと靄が晴れ、思考の輪郭が少しずつハッキリしていく。直視したくないものが、嫌でも瞼の裏に張り付いた。
──そして、マリアの言葉の意味を理解した時、カナメは自分の本当の愚かさを、初めて自覚した。
違和感をすべて、気のせいだと押し隠してきた。寄り添うフリをして、自分の都合のいいようにだけ考えていた。ずっと。ずっと。
「……あ……」
知っているはずの記憶たちが、初めて見る色に塗り替えられていく。中身はそのままなのに、全く違う意味を持った記憶が、心を抉ろうと牙を剥いてくる。
何が起きているのか分からない。指が震える。
ただ、頭が、痛い。
「……ごめんマリア……なんか……急に、怖く……」
「……向き合えるな?」
震えていても、マリアは休む暇を与えてくれない。
「逃げたら、取り返しがつかなくなる。話を続けても構わないな?」
理由の分からない恐怖に身を包まれ、何を考えていいのか分からなくなった。
けれど、「逃げてはいけない」という気持ちだけがカナメを突き動かし、震えながらも確かに頷いた。




