第51話 沈黙の観測者
扉を開くと、二重の寝息が耳に届いた。
二人を起こさないよう、マリアは静かに部屋に入る。
ケトルの元に行く前にジンの足に目をやると、氷嚢は完全に足からずり落ちていた。
解けたタオルが両足の脇でシワだらけになっている。おおかた、タオルで足に氷嚢を巻き付けていたのだろう。
ジンの足に触れ、温度を確かめる。
熱は引いているし、冷えすぎてもいない。これなら起きた頃には痛みもだいぶマシになっているだろう。
ついでに、役目を終えた氷嚢を回収する。ほとんどの氷は溶けて、結露で濡れたタオルがベッドにシミを付けている。
とりあえず、袋に入った水を捨て、タオルは適当に干しておいた。
マリアはようやくケトルの電源を入れる。
せめて紅茶を飲み終えるまでは、二人とも寝たままでいてもらいたいものだ。
ティーバッグと備え付けのカップを準備し、ため息と一緒に椅子に腰掛けた。お湯を入れずとも、ティーバッグから薔薇の香りはほんのりと漂う。
今日はただでさえ死線を潜り抜けたと言うのに、魔物から必要のない煽りを散々聞かされ、無駄に疲れてしまった。
嗅ぎなれた香りで、そんな疲労を包むように誤魔化した。
なんとなしに、ベッドの上の二人に目を向ける。
リーリスの言葉を気にしている訳じゃない。確かに、戦いで生き残るにはあまりにも向いていない性格をしているとは思うが、それでも、ついて行く相手を間違えたとは、微塵も思っていない。
カナメの事実と向き合えない甘さも、ジンの不安定な精神も、それを見た上で「信頼できる」と判断したのだ。多少の不都合が生じたところで、何の問題でもない。
ついて行くと決めた日、壁越しに聞いていたカナメとジンの会話を思い返す。
最初は打算で泊めただけだった。
まさかそれで、男二人の喧嘩に巻き込まれるとは誰が予想できるだろうか。あの時は、とばっちりにも程があると思ったものだ。
だが同時に、そこで繰り広げられたのは、間違いなく本心のぶつかり合いだった。
だからこそ、垣間見た二人の人間性に「信頼できるかもしれない」と期待したのだ。
いや。もしかしたら、最初に「二人を泊める」という選択をして接触した時には、既にその片鱗を感じていたのかもしれない。
ケトルのお湯が沸いた。
意識を現実に戻す。
少しらしくないことを考えてしまったな。
カップにお湯を注ぎ、ティーバッグを沈める。
蒸らし終わるまでカップの側面で指先を温め、凝り固まった頭の中をほぐしていく。
──さて、先程は嫌な女に水を差されてしまったが、本題に戻ろう。
ジンの足の変化についてだ。
あの嫌な気配の正体は、よくよく思い返せば、剥き出しになった魔物そのものの気配のようだ。
さらに、リーリスの言った「人間と魔物が手を取りあった」「魔物に体を貸した」という事象が、実際に起きたものだと仮定してみる。
そしてマリアは思考を巡らせ、たどり着いた答えに、ため息をついた。
先程推測した「魔物による思考の侵食」ですら、希望的観測かもしれない。
最悪、「人間と魔物が同化」したのかもしれない。思考も、体も。
リーリスの言葉を鵜呑みにしているわけではない。だが、悲しいかな、一番辻褄が合ってしまう。
ただ、情報源が情報源だ。
確定だと思うには、まだ早い。
……十中八九、そんな気はしてしまうが。
ジンの足の魔物化について明確化する事が最優先事項ではあるが、その前に一度、カナメとも話をしたい。
ジンのことをどう受け止めているのか。
リーリスの言葉ではないが、確かにカナメには「見たくないものには目を背けがちな性質」はあるように見える。
先程の戦いが顕著だった。
「相手の足を潰さなければ生き残れない」という決断に対して、受け止めきれず抵抗を示したこともそうだ。
だが、カナメにはそれ以上に、もっと目を背けているものがある。
その役目を、ジンが担ったことだ。
ジンは戦いの後、あろうことか“歩いて”帰ってきている。これは「相手の移動手段を確実に潰した証拠」に他ならない。
しかし、カナメ自身はもう、いつも通りにジンに接している。
意図してそうしているのかまではわからない。
受け入れるでもない、「その事実に気付いていないかのように」、カナメは振舞っている。
意図して触れていないのであればそれはそれでいい。
だが、無意識の癖ともなれば、その積み重ねがいつかは命取りになる。そうなる前に、見えているリスクは摘み取らなければならない。
「……まるで保護者だな」
紅茶を一口飲む。
いつの間にか部屋には、ハッキリとした香りが満ちていた。
まぁ、二泊取ったんだ。
疲労困憊な二人に話したところで、どうせまともな答えは返ってこないだろう。
何をするにも、明日からでいいか。




