第37話 湯けむり境界線
ここは男専用の大浴場。
大浴場と言っても、たかだかビジネスホテル。あるのは大きな湯船一つと、壁に並ぶシャワーだけ。サウナや露天風呂といった施設はない。
だが、設備自体は意外と新しいらしく、掃除も行き届いて綺麗だ。古いお風呂に感じるような不快感はないし、日中の大浴場ということもあり貸切状態。心身を休めるには十分すぎる。
カナメとジンはサッと全身を洗うと、すぐさま湯船に体を沈めた。
親友とは言え、裸の付き合いともなると、やはり少し落ち着かない。つい、細身な自分と、筋肉質なジンの身体を見比べてしまう。
自分の身体が恥ずかしいとかではない。ただ、隣で男らしい体つきを見せつけられると、どうしても自分が貧相だと感じてしまう。
対するジンは、まったくこちらを気にしていない。自分だけソワソワしているのも嫌だと思い、大きく息を吐いて誤魔化した。
それにしても、湯船に浸かるのは久しぶりだ。思えば、逃避行生活の中では初めてになる。
カナメとジンはこの貴重な機会を、ゆっくりと満喫していた。
「あーー……。マジで体に沁み渡るわ。朝めちゃくちゃ動いたし、風呂浸かれるの嬉しすぎ……」
「ほんと、朝のジン、めっちゃ動いてたよね。マリアとの手合わせ、かなり凄かったよ」
「あぁ、マリアなぁ……」
ジンはそう呟き、天井を仰ぐ。
やるせないような、そんな横顔だった。
「全然近寄れなくて、すっげえやりにくかった。本番だったら、俺きっと死んでたんだろうな」
悔しさ混じりに肩を落とし、ジンは水中へと視線を向けた。
ほどなくして、ジンの周りで水面が揺れ始めた。熱い湯の中で、ジンが脚を揉みほぐしていた。
カナメは、今日までのジンの働きを思い返す。
逃避行初日はカナメを背負いながら長時間全力疾走をし、その翌日に初めての戦い、数日飛んで今朝は手合わせと、短いスパンで脚を酷使している。頭が上がらない。
「俺からしたら、ジンも十分凄いと思ったけどね。腕で攻撃ガードしたりとか、波の中突っ切って行くとか。ああいうのって痛くないの?」
「あぁ、そりゃ痛えよ。それにさ、あの水ビリビリすんだよ。ズルだよズル」
ジンは脚を揉み終えると、今度は全身を伸ばすようにストレッチを始めた。
カナメも野宿で体が固まっていたことを思い出し、ジンに習いながら一緒に体を動かしてみる。
多少とはいえ、朝に身体を伸ばしたはずなのに、動かせば動かすほどポキポキと骨が音を立てた。特に腰が少し痛くて、少し長めに体を捻った。
やがて、全ての部位から骨の音が消えた頃、ジンは大きく欠伸をした。
「ふぁぁ。眠ぃし、のぼせそうだなあ……。そろそろ出るか?」
不意打ちで浴びた眠そうな声に釣られて、カナメもつい、思い切り欠伸をしてしまう。
「ふぁぁ…。もー、釣られちゃったよ。じゃあ、早いところ部屋に戻って休む?」
「部屋はまだマリアが風呂入ってんじゃないか? 適当にその辺でプラプラしとこうぜ。多分まだ一時間経ってないし」
確かにマリアは、一時間はシャワーを浴びるようなこと言っていた。
しかし、徹夜明けの眠気は、鉛より重い。
身体が眠気を思い出した瞬間、早くベッドに戻らないと、どこでも寝てしまいそうな気がした。
「一旦、マリアが出てる事を祈って部屋に戻ってみようかな」
「……マジで? もし出てなかったら嫌じゃね? 女がシャワー浴びてる横なんてゆっくり休める気がしねえよ」
「いやいや、さすがにシャワー浴びてたら部屋出るって。そんなの、俺だって気まずいもん」
*
──しかし、そんな二人のやり取りは結局、虚しくも意味をなさなかった。
カナメとジンは今、シャワーの音が鳴り響く部屋の中、それぞれベッドで寝そべっていた。
理由はひとつ。
マリアに呼び止められたからだ。
帰ってきた音が聞こえてしまったらしく「もうすぐ出るから待っていろ」と叫ばれた。三人集まったなら、まとめてランドリーで洗濯を済ませたいらしい。
すぐ出ると言われてしまっては、いい断り文句も思いつかず、仕方なく部屋で待機することにした。
それにしても、やはり“女性が浴びているシャワーの音”と言うのは、どうしても意識してしまう。
「カナメ、やっぱり帰ってくんの早すぎたんだ……」
「ごめんって。まさか呼び止められるなんて思わなかったから……」
意識すると言っても、こう、下心がある訳じゃない。言うのであれば、電車で痴漢に間違えられないかソワソワするあの感じ。「変に意識してる」と思われる怖さ。
薄い扉一枚隔てた先に、裸の女性がいるという事実は、独り身の男にはあまりにも非現実的すぎて、心臓が落ち着く手段を忘れてしまっている。
結局目を閉じられないまま待っていると、やがてシャワーの音が止まった。
もしマリアが裸のまま出てきたらどうしよう、という焦りが先行し、慌ててバスルームから目を背ける。ジンも同じだったようで、頭まですっぽり布団を被っていた。
だが、その心配は杞憂だったようだ。
バスルームから出てきた彼女は、身構える二人に呆れに満ちた声を投げかけた。
「……裸で出てくるわけないだろ……」
振り向くと、そこにはちゃんと服を着たマリアがいた。彼女はすぐにドライヤーを手に取り、髪を乾かし始める。
「よかった……服着てたんだ……」
ジンも安心したようで、「あーー」とわざとらしく声を上げ、布団から這い出てきた。
「お前のことだから、“気にするな”とか言って全裸で出て来るかもって思ったわ。男女の線引きとか知らなそうだし」
「……私をなんだと思ってるんだ」
マリアの周囲がちょっと凍りついた。
ジンが「やべ」と言う顔で助けを求めてくる。
ジンが悪いんだよ。こっち見ないで。
そういえば、女性のドライヤーってどれぐらい時間かかるんだろうか。マリアのように長い髪は、やっぱり何十分とかかったりするのだろうか。
──……終わるまで、仮眠しちゃおうかな。
本当に眠いし。
「ねぇ二人とも。ごめんなんだけど、俺ちょっと寝るから、終わったら起こして」
普通に発したつもりのその声かけが、自分に残った最後の力だったようだ。
返事を聞く前に、急に脳の回路がプツリと途切れ、視界が真っ暗に閉ざされてしまった。
あぁ、本当に限界だったんだな、と他人事のように思いながら、カナメの意識は暗闇へと溶けていった。




