第36話 這い寄る傷跡
この部屋には脱衣所がなかった。
いつ男二人が帰ってくるのか分からない中、流石に服を脱ぎ散らかす訳にはいかない。
マリアは先に髪を梳かした後、リュックの中から、折り畳まれた袋を一つ取り出した。
レインコートのような感触のそれを広げると、縦長で円筒状の、真っ黒な袋が姿を現した。防水性が高いドライバッグだ。口を捻ってバックルで閉じれば、水から中身を守ってくれる。
それに着替えを入れ、ビニール袋と一緒にバスルームに持ち運ぶと、マリアは折戸にロックをかけた。そのまま服を脱ぎ、ビニール袋にまとめて入れてからドライバッグに押し込む。
湯を捻ると、壁を叩く水音が響いた。
格安ホテルのシャワーに期待なんかしていなかったが、思いの外水圧があるようだ。
少しだけ蛇口を弱めた。強いシャワーはあまり好きじゃない。ぬるめのお湯だけで、先に全身を洗い流す。
ふと、手のひらが背中のザラつきに触れてしまい、動きを止めた。
風呂に入る時だけ存在感を示す──憎い火傷の跡だった。
それをゆっくりとなぞってみる。感覚だけで、手のひら大より大きいのが分かる。
治る気配のなさに、もはや諦めの感情すら抱かなくなった。
見えもしなければ、誰かに見せるつもりもない。
だから、気にするような傷跡でもないと、頭ではそう割り切っている。
けれど、指先がその存在を忘れてくれない。
燃えさかる壁に追いやられ、背中に走った激痛を。顔見知りに喉を掴まれ、その顔を水で閉じ込めて夢中で逃げ出した、あの惨状を。
脳裏の痛みを、記憶を流し落とすように、頭の先からシャワーを浴び続ける。しかし、それがなんだと言うのだ。なんの気休めにもならない。
しばらくして、泡立ったシャンプーを髪に絡ませていると、冷たく嘲笑するような、悪意すらも感じる女の声が胸の奥を撫でた。自分の腹の底に巣食う魔物──リーリスだ。
《ねぇ貴女……本当にあの坊やたちに絆されちゃったのかしら? 残念だわぁ。私、貴女がちゃあんと戦ってくれる女だったから、そんな人間に憑依できてとっても幸運だわ、って思っていたのに》
「……何の用だ」
《やだぁ、つれないのね? 私ってば、貴女のこと買い被ってたみたいだから、ちょーっとだけ忠告しに来てあげたのに》
「…………」
本当に、神経を逆撫でする女だ。会話をしたところで、禄な内容を話す女じゃない。
マリアは耳を傾けることなく、髪を泡立て続ける。それでもその声は、意識の合間を縫うように、脳内に滑り込んできた。
《貴女はこんなところで、能力者と仲良くするような、ちんけな女じゃないわよね? ……忘れちゃったの? 貴女が、何をされたか》
答えるつもりも、思い出すつもりもない。
しかし、この悪意の満ちる湿った声は、こちらの意志を汲む気なんて持っていない。どれだけ耳を塞ごうとも、お構い無しに語りかけてくる。
《起きたら周りは火の海になっていて……、まずはご両親が……。そして、来てくれたご近所さんに助けを求めたら……ふふふ、犯人だったわねぇ》
記憶ごと、脳裏を舐めずるようにまとわりつく声だ。
不快以外の何物でもない。
《いい? あたしたちは、そうやって命を奪い取るの。人間がいくら慈悲深い生き物だったとして、結局、力のぶつかり合いには無力なの。こぉんな簡単なこと、貴女なら、とっくにわかってると思ったのに……》
姿かたちのない、ただの声なのに、冷たい手が背筋を撫でるような、それでいてねっとりとした湿気が肌に纏わりつく。そんな気持ち悪さが、全身を駆け巡った。
「結論を言え」
《あらあらぁ。本当にお硬くて、せっかちで……素直になれない哀れな女。私はただ、親切で教えてあげてるだけ》
「よく言う」
《だって貴女、てっきり……大事な、だぁいじな思い出、忘れちゃったのかと思って》
マリアは何も言わずに髪の泡を洗い流し、トリートメントを髪に馴染ませ始めた。
リーリスの声に誘われた記憶たちが、頭の中を通り抜けていく。
背中の焼ける音が、母の悲鳴が、父の断末魔が耳を撫で、瞼の裏が燃え上がる。
──一日たりとも、忘れたことがあるものか。
「……私に憑依したことを後悔するといい。私は、私の信じることをする」
《もう、らしくないわぁ。あたしの言葉の方が正解だって……分かってるくせにね? うふふ……》
その言葉を最後に、声は聞こえなくなった。今響き渡るのは、全身を流れる水音だけだ。
バスルームを埋め尽くす湯気の中、深く息をつく。
たった今のやり取りを全て消し去るように、マリアは丁寧に、全身を洗い流していった。




