第21話 氷に遠吠えを
最近、寝つきが悪い。
ふと横を見ると、カナメはもう寝息を立てていた。
ジンは起き上がり、ぼんやりと窓の外を見る。
暗闇の中ポツンと照らされる瓦礫の山。
そこから、マリアの気配を感じていた。
《なんだ、仕留めに行くのか?》
「馬鹿言うな」
グルザの嬉しそうな声をピシャリと押さえつけると、カナメを起こさないように、ゆっくり部屋を出る。
向かう場所は、勿論あの女の所だ。
──マリアに出会ってから、ずっとざわつきが止まらない。
……いや。“マリアの力になろうとするカナメを見ると”ざわつきが止まらない。
最初は、「カナメがリスクを分かった上でマリアを受け入れるならそれでもいい」と思っていた。
けれど、いざそうなるかもしれないという実感が湧けば湧くほどに、「嫌だ」という気持ちが強くなってしまった。
いつの間にかジンは、カナメの成長を受け入れられなくなっていた。
カナメが一歩進むほどに、かろうじて体を支えていた足場が、音もなく崩れていきそうだった。
《お前の精神の乱れが手に取るように分かるぞ。ここ数日はマシになったと思っていたんだがな》
「……うるせえな。誰のせいだと思ってんだよ……」
返す言葉は掠れていた。
もう、いつからなのか数えるのはやめてしまった。月は軽く跨ぐほど前、グルザに取り憑かれてからずっと、世界が音で満ちていた。
壁の向こうの足音、遠くで転がる缶、誰かの息遣い……全部が頭に割り込んできた。
四六時中の喧騒で、頭がおかしくなりそうだった。
音が嫌で、結局誰とも会えなくなって、逃げるように実家に帰ってきた。
そうやって、いつしか魔物だけでなく、何もかもから身を隠すようになった。
何より、化け物のような自分を恥じていた。
そんな中、カナメと久しぶりに会って、淡い希望を抱いた。カナメなら、自分をまだ人として見てくれるかもしれないと。
そして、実際その通りになった。
それだけで、どれほど救われたか。
カナメが友達として扱ってくれる限り、まだ人でいられる気がした。
……なのに。
《何度も言うが俺は構わんぞ、あの女を殺してしまっても。手強そうではあるがな》
……本当は、その囁きに何度も魅かれていた。
視界の端にあの女の気配がちらつくだけで、怒りか焦りか恐怖か──自分でもわからない何かが胸の奥を焦がす。
夜風に当たりながら歯を食いしばる。
もはや、カナメと交わした『誰も殺さない』という約束だけが、理性の細い綱を繋いでいた。
ふと足元を見ると、雑草は色を失い、道が炭を被ったように黒くなっている。瓦礫の山はすぐそこだ。
「……俺、何してんだろうな……」
見たくも無い残骸がもう目の前に広がっているというのに、何をしたいのかも決められないままだ。からっぽのまま、ついあたりを見渡す。
月明かりを跳ね返すほど強い照明の下で、絹のような黒髪がたなびいている。
後ろ姿であっても見間違えるはずがない。
息を整えたかった。だがそれ以上に、世界に──カナメに置いてけぼりにされる恐怖が、背中を押した。
形を失った梁を、屋根を、壁を、踏みしめる。木の軋む音が、割れる音が響いた。
蛇のような冷たい視線が、待っていたぞとばかりにこちらを向く。
「声もかけずに人の家に上がり込むとは、何の用だ」
マリアは足元の残骸を指差す。
つられて目を向けると、折れた蛇口や何処のか分からない取っ手……かつて生活を彩っていたであろう何かが、隙間から顔を出していた。
──ここが、マリアの住んでいた家か。
そう思うのに、時間は要らなかった。
「何だ、昼間の勢いがないじゃないか。私に同情でもしたか?」
「見くびんなよ。こんなんで絆されるか」
「だろうな。……ここは足場が悪い。降りるぞ」
マリアは平坦な道を歩くように軽く、瓦礫の山を下っていく。ジンも後に続き、平地に降りた。
ついに、マリアと二人きりになってしまった。
「……で、もう一度訊くが、何の用だ? 私がどうしたいかと言う答えなら、一晩猶予を貰ったはずだが」
冷たい声が突き刺さる。
「……あんたが……本気でカナメに応える気があるのか……知りたい」
違う。本当はそんなんじゃない。
来ないでくれ。そう言いたかった。
なのに、カナメを裏切る言葉を、喉が拒否した。
「それを今考えているところだ。せっかちは毒だぞ」
「じゃ、じゃあ……“一晩くれ”って言った意味を教えてくれよ。あの時、直前まで冷たかったのに、急にしおらしくなっただろ? カナメに何か、心動かされたのか?」
マリアは無言でジンに近づくと、目の奥を覗き込んだ。まるで心を見透かされてるような視線に耐えられず、目を逸らした。
「貴様に答えたところで、一体何の意味がある? わざわざ一人で来た割には、浅はかな質問だな?」
「い、意味がねえことは……ねえよ……」
「仮に私が奴に絆されたと答えたとして、それに何の意味がある。貴様が望む言質を取りたいだけの、ただの自己満足だな」
「──!!」
息を呑み、後退ってしまう。しかし、マリアは構わず距離を詰めてくる。
「人に問いを立てるなら、まず自分の意図を整理してからにするんだな。独りよがりが滲んでいるぞ」
返す言葉もなかった。
もはや、自分でも何を求めているのかわからない。
それでも、無理矢理にでも言葉を返すしか無かった。
「……あ、あんたがカナメを騙す気がないかとか、俺が見極めてやろうと思ってな。カナメは人を疑わなさすぎるからよ……」
「ふぅん……?」
鋭いその視線は、ジンを蔑んでいた。
“貴様ごときにその価値は無い”と、そう言われているようだ。
「……な、なんだよ、その目……」
「いや。中身のない男だと思ってな」
「な……ッ! 言わせておけば……」
「何のために私に会いに来たのか明確でないだけでは飽き足らず、ことあるごとにカナメカナメときた。貴様には自分というものがないのか」
──思考が飛んだ。
何を言われたのか分からなくなってしまった。
全身が熱くなり、次の瞬間──右手が、マリアの胸ぐらを掴んでいた。
「……哀れなものだな」
「あ──」
右手から力が抜ける。
今……何をしたんだ……。
咄嗟にマリアから背を向けた。
でなければ、次に何をしでかすか、自分でも分からなかった。
「その行動は、図星だと証明したようなものだぞ」
「…………」
もう、反論する気力もない。
「……そんなこと……分かってるよ……」
認めざるを得なかった。
途端、ジンの膝が崩れ落ちた。
理性が、体を支えられなくなっていた。
「……俺って、なんなんだろうな……だっせえよ、ほんと……」
答える声はない。
風の音だけが、耳に響く。
止まった時間の中に囚われていると、背後から小さいため息が聞こえた。
「……その感情を向けるべきは、私ではないんじゃないか?」
「…………」
「貴様らがその状態では、相方が何と言おうと私の席はなさそうだな。相方にも伝えといてくれ」
マリアの言っていることが、分からなかった。
「誰に……どう、向き合わなきゃいけないんだ……俺は……」
「そんなもの、私に聞くな」
背後で、足音が遠ざかる。
「……明日、昼まで戻らん。朝のうちに終わらせておけ」
その言葉を最後に、足音は消えた。
──帰らなきゃ。……カナメが、心配する……。




