第20話 紅い林檎と雪解けの夜
マリアを一晩待つことになり、またこの町の滞在が決まった。 正直寝床に困ったが、今日もマリアが泊めてくれるらしい。
その代わり、「夜までは外で時間を潰していろ」と言われてしまった。
仕方なく、カナメとジンは最初に野宿をしようとした公園のベンチに腰を下ろす。
先ほどまで張り詰めていた空気に、どっと疲れが押し寄せる。
二人とも言葉を発することなく、沈む夕日をただ見つめていた。
やがて静寂を破ったのは、ジンだった。
「さっきのカナメの言葉……向こうの返答次第じゃ、本当に一緒に行くことになるんだぞ。わかってるよな?」
「……わかってるよ」
カナメは小さく頷いたが、それでもジンは、まだ信用出来ないと腕を組んだ。
「きっと……マリアは大丈夫だと思うんだ」
何故かは分からないが、カナメは確信していた。彼女が、命を狙ってくるような人ではないことを。
夕日が沈んだ。
月を待って、彼女の元に行こう。
*
──ジンと一緒に彼女の部屋に入ると、甘い香りが満ちていた。以前もほんのり香りがあったが、こんなにハッキリとはしていなかった。
「……これ、何の匂い?」
思わず聞いてしまう。
純粋に気になっただけだったが、マリアは問いを聞いてすぐに使用済みのティーバックを数個、袋にまとめて処分した。
「紅茶だが、キツかったか。少し作りすぎてしまってな」
「そ、そういう訳じゃないよ。いい匂いだなって思って……」
横でジンが「合コンの質問みてぇだな」って呟いた。余計なお世話だよ。
「不快でないのならいい。今から少し部屋を留守にするから、好きにしていろ」
「え。うん、わかった……」
マリアはそう言うと、カナメとジンには見向きもせず、ふらっと扉の外に消えていった。
「……おい、家主が消えることあんのかよ」
「まぁ、少しって言ってたし……」
ジンは呆れ床に寝転がると、それにカナメも続いた。
柔らかい床に紅茶の香りの安らぎが、疲弊した心身に染み渡っていった。
「まだ夜になったばかりなのにもう眠いよ……」
「なんか、だいぶ疲れたもんな。いやマジであの女がいる時の空気、息詰まるって」
ジンは肺たっぷりに息を吸う。マリアの部屋なのに重苦しくない空気が新鮮に思えた。
「……けど、ほんとにいい匂いだな。何飲んでんだろ」
ひょいと起き上がったジンは、棚に置かれた紙袋に近づき、手を伸ばした。
「や、やめなよ……勝手に覗くなんて良くないよ」
「見るだけだって。アイツも好きにしてろって言ってたし」
カナメの制止も虚しく、紙袋は音を立てる。ジンは「へぇー」と声を上げて、パックを一つ取り出した。
「バラとリンゴの紅茶だってよ。意外と洒落たモン飲んでんだな」
「えっ、そうなの?」
その言葉に思わず近寄ってしまう。
とてもシンプルなパッケージに、小さくバラとリンゴの写真が載っている。
「この香りもそうだけど、チョイスが意外だよな。なんかこう、渋いのとか珍味とか、意味わかんない味飲んでそうじゃん?」
「そ、そうかな……? というか、早く戻しなよ……帰ってきちゃうかも」
カナメはジンから袋を取り上げると、サッと袋に戻した。
すると同時に、外から扉が2回叩かれた。
「は、はいッ! ほ、ほら帰ってきちゃったよ……!」
慌ててドアを開けるとそこには──知らない女性が立っていた。
「えっ、あ、あの……どなた……」
「あらあら。マリアちゃん、意外と好青年泊めてるじゃないの」
おっとりとした女性だった。何が起こっているか分からず困惑する。
「うふふ、ごめんなさいね? マリアちゃんから聞いてない? 私、ここのスタッフよ、スタッフ。知り合いが泊まるからお布団貸してってお願いされちゃってね」
女性は陰からリネンの乗った台車を引くと、畳まれたままの寝具を二つ、室内に置いた。
「ごめんねぇ、本当はこういうサービスしてないから、お布団はここに置くだけ。でもマリアちゃんのお願いなんて珍しいから、今回だけ特別。これ内緒ね? 朝取りに来るから。じゃーね?」
一方的に喋り終えた女性は、四つ折りにされた紙をカナメに握らせ、颯爽と去っていった。
驚きで数秒間声を忘れてしまった。それはジンも同じだったようで、一瞬沈黙が流れた後、ハッとしたように口を開いた。
「……あの女が頼んでくれたって? マジで?」
一緒になって無造作に床に置かれた寝具を見下ろす。
正直紅茶のチョイスよりも意外だった。
昨日は床で寝たから、今日も同じかと思っていた。
「てか、お前、今何受け取ったんだ?」
「あ、そうだ……なんだろう?」
カナメは握っていた紙を開く。読みやすい文字で書かれた、たった二行の手紙だった。
『風に当たってくる。今夜は戻らない』
「……マリアからだ」
カナメはそれをジンに見せると、案の定目を丸くしていた。
そして少しだけ考えたあと、無言で床に布団を敷き始めた。
「……ほんのちょっとだけ、アイツの印象変わったかも。……ちょっとだけな」
その言葉に、カナメは思わず笑みが零れた。
手紙をポケットにしまい、続いてカナメも布団を敷く。
「俺も、そう思うよ」
今朝までのこの部屋は、 凍った檻のようだった。
今やすっかり寝具と紅茶の温かな匂いに包まれ、初めてマリアの優しさに触れた気がした。




