第19話 融点
「落ち込むなって。誰も悪くねぇよ」
マリアとの対話の失敗に落ち込んでいると、ジンに肩を叩かれた。
あんなに怒らせてしまったという罪悪感と、もっと他に言いようがあったんじゃないかという後悔が、体を縮こませる。
「……まぁ、そうだよね。話に聞きに行った俺が無謀だったんだよね。ジンは止めてくれたのに……ごめん」
「あー、いや……」
ジンは口をもごもごさせ、少し申し訳なさそうに頭を搔いた。
「今でも、見ず知らずの能力者と一緒にいるのは反対だと思ってる。だけど、さっきのお前見たら、それはそれとして、確かにちゃんと話は聞いておくべきだったなって思い返してさ……」
ジンは一度、息を吐く。
ほんの一瞬、言葉を選ぶように黙り──それから、少しだけ声を落とした。
「……カナメはまだ、アイツを信じたいって思うのか?」
カナメは小さく、しかししっかりと頷く。
胸のつっかえが取れない限り、ずっと引き摺って生きていくことになると思った。
「上手く言えないけど……俺には、マリアが悪い人には思えないよ……」
「そりゃ泊めてくれたし、俺だって悪い奴じゃないとは思うけどよ」
そう。ジンも、マリアが悪い人だから断った訳ではないし、ジンの言ってる事の方が圧倒的に正しい。
理屈ではわかっていても、どうしても心が納得出来なかった。
けれど、マリアに会うのは一回だけというのがジンとの約束だ。
自分の気持ちにどうにか折り合いをつけなければ。
「……何度もごめん。これが最後だから……。昨日見た瓦礫のエリアに行かせて欲しい。それで終わりにする」
ジンは面食らった顔で立ち止まった。
困惑と驚愕と……少しだけ怒りが滲んでいる。
だが、ジンは、それをカナメにぶつけはしなかった。
「……はぁ。まぁそれで気が済むならいいけどさ。けど、本当にこれが最後な」
「ごめん。ありがとう……」
*
──ホテルの窓の位置から、何となくの方角は掴めていた。
記憶を頼りに歩を進めていると、やがて路肩の雑草が緑から灰色へ変わっていく。
煤のにおいに引き寄せられるように歩を進めていると、突然横を歩いていたジンがカナメの前に立ち塞がるように歩き始めた。
「え、どうしたの、ジン?」
「………」
ジンは一瞬だけ不機嫌そうな顔をカナメに向け、再び前を見る。
「……あの女の気配だ」
「え……」
驚きと、少しの期待が胸の中で混じり合う。
また、会えるかもしれない。
だが、当然ながらジンの顔にはそんな様子は微塵もない。
「……忘れてないよな? 俺たち、さっき敵意を向けられたんだからな」
ジンの言葉が突き刺さる。顔を見なくたって、その声が苛立っているのは分かった。
それでももう、カナメの足は止まらなかった。
止め方を、忘れていた。
*
舞い上がる煤の中に、ひと筋の後ろ髪が揺れた。 一目見ただけでわかった。
──マリアだ。
小さな紙袋を右手に提げ、彼女は瓦礫を見つめている。
買い物帰りなのだろうか。その姿は、風景の一部のように瓦礫の前から動かない。
ただ、空を舞う髪だけが、彼女の存在を主張していた。
カナメは突き動かされるように歩き出す。
遅れて、背後からジンの足音が追いつく。
この先どうしようなんて、何も考えていない。
気づけばもう、手を伸ばせば届く距離に彼女がいた。
「……あの」
「紅茶を。買いに来たんだ」
カナメの声を遮って、マリアは答えた。
紅茶とは、その紙袋の中身のことだろうか。
いや、聞きたいのはそういう事じゃない。
「マリアは……どうして、ここに?」
「今答えた」
聞きたい答えは返って来ない。
マリアの横顔を見る。 こちらのことなど、一切見ていない。
瞳にも声色にも、不気味なほど感情がない。
「貴様こそ、何しに来た」
「え、えっと……」
体が強ばる。今の彼女には敵意も何も無い。そう、何も無い。
それがかえって、得体の知れない恐怖を掻き立てる。
「町を出る前に、ちゃんと見ておかないと、と思って……」
「……人の家は、見世物か?」
「ご、ごめんっ! そういう訳じゃ…」
慌てて首を振る。
でも、こちらがいくら大袈裟に仕草をしようと、彼女の視線は動かない。
カナメは意を決し、恐る恐る尋ねた。
「俺たちを……攻撃したりしないんだね」
「必要が無い」
「まぁそうなのかもしれないけど……」
マリアの部屋から出ていく時の、急激な冷えを思い出す。正直、あの瞬間から敵対したと思っていた。攻撃の意思がないだけでも嬉しかった。
だが、その先の言葉を上手く見つけられず、しどろもどろになってしまう。
沈黙の間、マリアは言葉を待つでもなく、延々とただ瓦礫に目を向ける。それだけだった。
その沈黙を遮ったのは、カナメでもマリアでもなく、後ろから見ていたジンだった。
「あんたさ、戦い慣れしてるんだろ?」
「多少はな」
「慣れるほど何度も襲われて、なんでまだここにいるんだ?」
風が吹いた。
灰が舞い、マリアの髪がわずかに揺れる。
「……」
返事はない。けれどその沈黙は、拒絶とも無関心とも違っていた。
「俺たち、色々あって地元から逃げてきたんだ。敵にも追いかけられて、更にそいつからも逃げた。普通、命狙われたら、こうやって遠くに逃げようと思うもんじゃないのか? それでもここにいるのはどうしてだ?」
「……さあな」
「は?」
その答えは、淡々、というほかなかった。
「特に理由は無い。ただここにいるだけだ」
声に抑揚はなかった。けれど、まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
ジンは一瞬言葉を失っていたが、カナメとは違い、すぐに目に力が戻る。
「……質問にはまともに答えねえし、ほんと、何考えてるかわかんねぇ女。よくそんなんで同行させて欲しいとか言ってきたな?」
初めて、彼女の瞳がジンに向いた。
風が止まる。
その視線は、鋭くもなく、柔らかくもなかった。
「普通さ。同行したいなら、それなりに何か距離縮めようとかするだろ。それどころか喋らねーわ敵意向けるわ、やっぱあんた、ちょっとおかしいよ」
マリアは黙ったまま瓦礫に視線を戻したかと思うと、ゆっくりと目を伏せる。
黒髪の隙間からかすかに唇が動くのが見えたが、その声は聞こえなかった。
──だが、ジンの耳は違った。
「今の“そうかもな”って言葉、反論はねえってことか? 自分がおかしかったですって認めて終わりなわけ?」
マリアの瞳が一瞬だけ大きくなり、ジンを振り返る。
「なるほど……気配どころか音にも敏感とはな。いや、そうだな。気配を消せるんだ、力を測れないような相手に、そもそも油断するべきではなかったか」
無機質な声が、揺れて聞こえた。 いや、気のせいかもしれない。言葉が終わる頃には、声色の抑揚はなくなっていた。
空気が痛い。
触れたら棘に刺されそうな、そんな痛々しい空気の中心で、彼女は孤独に立っていた。
助けを求めているわけでも、悲しんでいる訳でもない。それでもなぜか、彼女が苦しんでいるように見えて仕方がなかった。
カナメは息を吐き、両手を握りしめる。
決めた。自分は、何をしたいのか。
──もし本当に何かに苦しんでいるのなら、放っておきたくなかった。
背後のジンに振り返る。カナメの眼差しには、もう迷いがない。
その目の奥を見るや否や、ジンは不服そうに、けれど静かに「……お前の好きにしろよ」と首を振った。
カナメはジンに頭を下げると、瓦礫に戻された彼女の横顔を見つめ、口を開いた。
「ねぇ、マリアはもう、違うかもしれないけど……やっぱり俺、一度マリアを信じてみたい。ダメかな」
風もないのに、彼女の紙袋が揺れた。
長い静寂が訪れ、彼女の唇が動くのを待つ。
その目はもはや、どこも見ていなかった。
そして──。
「…………一晩。くれ」
細い声が、聞こえた。




