閑話② ベルナール男爵家の食卓 〜ジュリアン視点〜
(語り:ジュリアン・ベルナール)
リリアが屋敷から消えて、三週間が経った。
朝食の席に着いた俺の前で、母上はにこやかに、メイドにジャムを取らせていた。
「やはり、屋敷の空気が違うわね。あの卑しい子がいなくなって」
「……そうですか」
「あなたも、いずれは婚約者を迎えるのでしょう? あの子のような汚点が屋敷にいたら、まともな縁談が壊れてしまうもの」
母上の言葉は、全て正しかった。
ベルナール男爵家は、決して裕福な家ではない。
父上は政治には興味がなく、領地経営にも疎い。
家を支えているのは、母上の実家からの援助と、嫡子である俺の、これからの婚姻政略だ。
そのためには、屋敷から「妾腹の娘たち」を排除しておくことは、当然の判断だった。
俺は、それを、合理的な判断として、下した。
それなのに——
なぜ、今朝の紅茶は、こんなに、苦いのだろうか。
「ジュリアン、リアナはどう?」
「……まだ、寝込んでいます」
「あら、まだ? 困ったわね。あの子も、あまり長くはなさそうね」
母上は、紅茶を、ひと啜りした。
「いっそ、神殿に引き取らせるのも、手かしらね。死ぬ前に」
——母上。
——あなたは、本当に、リアナの命など、何とも思っていないのですね。
俺は、心の中で、吐き捨てた。
そして、すぐに、自分自身を、嘲笑した。
——お前も、同じだろう。
——お前も、リリアを、売った。
◆
その夜。
俺は、屋敷の三階の、自分の私室の窓から、月を、見上げていた。
リリアが、最後に、俺に言った言葉が、頭から、離れなかった。
——『お兄様より、長生きすると思いますから』
冗談、として言ったのではないのは、明らかだった。
あの五歳児の目には、はっきりと、生への意志が、灯っていた。
俺は、十二歳。
ベルナール男爵家の嫡子。
これから、婚姻政略のための駒として、生きていく。
家のため、母上のため、領民のため、自分のため。
——その全部が、本当に、俺自身のものなのだろうか?
——リリアは、五歳で、自分の人生を、自分で選んだ。
——「私が売られます。リアナはここに置いてください」と。
——俺は、十二歳で、何ひとつ、選んでいない。
ふと、俺は、机の引き出しを、開けた。
中には、一通の手紙の、書きかけが、入っていた。
俺は、それを、誰にも見られないように、隠していた。
『モンフォール侯爵様。
当家から先日売り渡したリリア・ベルナールについて、近況をお伺いしたく——』
そこまで書いて、俺は、ペンを止めた。
——なぜ、俺は、こんな手紙を、書こうとしているのだろう。
リリアは、もう、家の問題ではない。
売却済みの、過去の存在だ。
近況を確認する必要など、どこにもない。
それなのに——
俺は、書きかけの手紙を、もう一度、机の引き出しに、しまった。
——馬鹿な。
俺は、自分自身に、向かって、呟いた。
——馬鹿な。
——だが、リリア。
——お前は、本当に、あの侯爵家で、生き延びるつもりなのか?
——お前は、本当に、いつか、リアナを迎えに、戻ってくるつもりなのか?
月明かりの下で、俺は、たぶん、生まれて初めて——
誰かの「生」を、心から、願っていた。
それが、自分が捨てた、妹の命だということに、俺自身、まだ、気づいていなかった。
---




