第二話 不死鳥の歌
モンフォール侯爵家の屋敷は、ベルナール男爵家の三倍はあった。
馬車が正門を抜け、長い並木道を進み、ようやく辿り着いた本邸は、石造りの三階建て。
両翼に塔があって、屋根には、月明かりに光る金の装飾。
「うわあ……」
五歳の口から、思わず声が漏れた。
前世のオタク魂が、咄嗟に「ロケ地巡礼したい」と呟きそうになるのを、慌てて飲み込む。
——いや、私、観光客じゃないし。
私は、これから、ここで命を削って働く奉公人。
正面玄関ではなく、裏口に回され、使用人頭という顔の険しい中年女性に引き渡された。
「リリア・ベルナール。五歳」
帳面に書き付けながら、使用人頭は、私を上から下まで眺めた。
「思ったより、痩せておるな。だが、目だけは、強い。三日もせんうちに折れる子もおるが、お前は……まあ、見ものじゃな」
「ご期待に添えるよう、努めます」
私が丁寧に頭を下げると、使用人頭は片眉を上げた。
「妾腹の娘とは聞いておったが、躾は受けておるようじゃの。よし。今日は遅い。地下の奉公人棟に案内する。明日から、お嬢様方の魔力肩代わりを始めてもらう」
——地下、奉公人棟。
案内されたのは、屋敷の本体ではなく、裏庭を抜けた先の、別棟だった。
地下に降りる狭い階段。
カビ臭い空気。
そして、十畳ほどの広さに、五人の少女がぎゅうぎゅうに詰め込まれた、薄暗い部屋。
「これからお前の同僚じゃ。仲良くやれ」
使用人頭は、それだけ言って、扉を閉めた。
私は、五人の視線を、一身に浴びた。
一番年上で、たぶん十二歳くらい。
一番年下で、八歳くらい。
全員、青白い顔をしていた。
全員、目に光がなかった。
全員、私と同じ、魔力提供奉公人だった。
——ああ。
——これが、私の、未来の姿。
リリアの記憶が、教えてくれる。
魔力提供奉公人の平均寿命は、二十歳。
身体は徐々に衰弱し、最後は、立てなくなって、死ぬ。
でも、私は、ニッコリ笑った。
「はじめまして、リリアです。五歳。よろしくお願いします」
少女たちは、ぽかんとした顔で私を見た。
最年長らしい少女が、ぼそりと呟いた。
「……新入りで、こんなに元気な子、初めて見たわ」
「すぐに、消えるわよ」
別の少女が、抑揚のない声で言った。
「ここでは、笑うのは、無駄。泣くのも、無駄。何も感じないのが、一番、楽」
——そう、ですか。
私は、その言葉を、心のメモ帳に書き留めた。
——でもね。
——私は、感じる。
——感じて、感じて、感じ尽くして、その全部を、糧にする。
——だって、私は、推し活オタクだから。
私が、与えられた藁の寝床に座り込み、麻の毛布を被ったその時。
ふと、聞こえた。
——……歌声?
最初は、空耳かと思った。
それくらい、微かな音だった。
でも、確かに、聞こえた。
壁の向こう、地下のさらに奥から。
低く、深く、けれど、どこまでも澄んだ、男の子の歌声。
私は、息を、止めた。
身体中の毛穴が、ぶわりと開いた気がした。
心臓が、痛いくらいに、跳ねた。
——なに、これ。
「あの……あの歌声、なんですか?」
私が思わず尋ねると、最年長の少女が、肩をすくめた。
「ああ、地下牢の、稀少獣人。たまに、夜中に歌うのよ。何の意味もないんだけどね」
「地下牢」
「奥の隠し通路の先にあるの。けど、近づいたら、お仕置きされるわよ。あれは侯爵様の所有物で、私たちが触れていいものじゃないから」
——所有物。
その言葉が、私の中で、火種のように燻った。
——所有物、ね。
少女たちは、間もなく、藁の寝床に丸まって眠ってしまった。
ろうそくの火も、誰かが消した。
私は、目を、見開いていた。
眠れる、わけがなかった。
——だって、聞こえる。
——まだ、聞こえる。
歌声は、止んでいなかった。
低く、低く、ずっと、続いていた。
私は、毛布をそっと退けて、立ち上がった。
足音を殺して、扉に向かう。
鍵は、かかっていなかった。
たぶん、ここから逃げ出す気力のある奉公人なんて、いないからだ。
私は、廊下に出て、歌声の方向に、歩き始めた。
——だめだ、戻れ、リリア。
頭の中の理性が、警告を発する。
——お仕置きされるって言われたでしょ。
——明日からの仕事に、響くでしょ。
——リアナを迎えに行くために、長く生きなきゃいけないでしょ。
——うるさい。
私は、その理性を、踏み潰した。
——今、私の魂が、行けって言ってるの。
——推し活オタクの、勘が。
——これは、絶対に、聞き逃しちゃいけない歌だって。
廊下の突き当たり、壁に隠された扉を、私は見つけた。
少女が言っていた、隠し通路。
鍵はかかっていたけれど、五歳児の小さな身体は、扉と床の隙間を、ギリギリ、潜り抜けることができた。
通路は、暗くて、狭くて、長かった。
歌声は、近づくほどに、はっきりと、輪郭を持っていく。
——これは。
——これは……
歌詞は分からなかった。
たぶん、エトワール王国の言葉ではない。
東方の、山の民の言葉。
でも、意味なんて、関係なかった。
——魂が、震える。
私は、走り出していた。
通路の最奥、鉄格子のはまった、小さな部屋。
そこから、歌声は、漏れていた。
私は、息を切らして、鉄格子に取りすがった。
そして——
見た。
◆
月明かりが、天井の小さな格子窓から、銀色の柱になって差し込んでいた。
その光の中に、彼は、いた。
膝立ちで、両手を背中で鎖に繋がれて、それでも、背筋を伸ばして、目を閉じて、歌っていた。
年は、たぶん、八歳か、九歳。
髪は、燃えるような暁の色。
朝焼けの空を、そのまま糸に紡いだような、赤と金の混ざる絹糸。
肌は、月光を弾いて、白く光る陶器のよう。
肩のあたりに、半透明の、薄い羽根の痕跡が、揺らめいて見えた。
そして——
彼が、ゆっくりと、目を開けた。
紅い、瞳だった。
朱でも紅でもなく、燃え上がる炎の中心の色。
その瞳が、鉄格子の向こうに立つ私を、捉えた。
歌が、止んだ。
世界が、止まった。
——ああ。
私は、声に出さずに、呟いた。
——ああ。
——見つけ、ちゃった。
二十八年と五年。
合計三十三年間の、私の魂が、震えていた。
全身の細胞が、叫んでいた。
——この子だ。
——この子こそ、私が、世に出すべき、推しだ。
「あなた」
私は、鉄格子越しに、声をかけた。
五歳児の声は、震えていた。
「あなた、お名前は?」
少年は、しばらく、私を見つめていた。
警戒でも、驚きでも、悲しみでもない、ただ、深い、静かな視線だった。
そして、ぽつりと、答えた。
「……オーレリアン」
低く、澄んだ、歌うような声だった。
「オーレリアン」
私は、その名前を、復唱した。
口の中で、転がした。
——暁の、太陽の、という意味の、フランス——じゃなくて、エトワール王国の、貴族名。
なんで、奴隷に、こんな名前が。
「あなた、稀少獣人なのよね? 何の獣人?」
「……鳳。フェニックス」
——不死鳥。
鉄格子を、握る手に、力が入った。
不死鳥。
神話の獣。
歌声で、人の魂を癒やすという、伝説の存在。
何百年に一体しか生まれないと言われる、絶滅寸前の稀少種。
「あなたの歌、聞いてた」
私は、鉄格子に額を押し付けた。
「素敵、なんて言葉じゃ、足りない。私、生まれて初めて、こんな歌を聞いた。前世も入れて」
「……前世?」
「ああ、こっちの話。気にしないで」
私は、咳払いをして、もう一度、彼の紅い瞳を、まっすぐに見つめた。
そして、宣言した。
「オーレリアン。私、リリアっていうの。今日からあなたと同じ屋敷で、奉公人として働くの」
「……」
「あのね。私、決めた」
「……何を」
「私、あなたを、世に出す」
紅い瞳が、ゆっくりと、瞬いた。
「世に、出す?」
「うん」
私は、五歳児の小さな胸を、めいっぱい張った。
「今は、私、何にもないただの妾腹の幼女なの。鎖を解いてあげる力も、お金もない。でもね、絶対、稼ぐから」
「……」
「絶対、力を持つから。絶対、あなたをここから出して、その歌を、世界中の人に、聞かせる。あなたを、誰にも触らせない、誰にも傷つけさせない、世界一のスターにする」
「スター……」
「うん。スター。星」
私は、にっと、笑った。
「だって、ここ、エトワール王国でしょ。星の王国。それなのに、本物の星を、地下に閉じ込めておくなんて、ぜったい、間違ってる」
オーレリアンは、長い長い時間、私を見つめていた。
紅い瞳の奥で、何かが、ゆっくりと、灯った気がした。
それは、たぶん、希望、というには、まだ小さすぎる、けれど、確かに——
——「興味」。
「お前、変な子だな」
オーレリアンは、初めて、唇の端を、ほんの少しだけ、上げた。
笑う、というには、控えめすぎる仕草だった。
でも、私の心臓は、また、痛いくらいに、跳ねた。
——尊い。
——私の推しは、笑顔まで、控えめに尊い。
「変、ってよく言われる。でも、ほめ言葉として受け取っとくね」
私は、鉄格子の隙間から、小さな手を、彼に向かって、差し出した。
「オーレリアン。これから、よろしくね。私のたったひとりの、最初の、推し」
オーレリアンは、鎖で繋がれた手を、動かせなかった。
だから、彼は、ただ、私の手を、見つめていた。
そして、ぽつりと、聞き返した。
「……『推し』って、何だ?」
「あー、説明、長くなるからまた今度ね」
私は、にっこり笑った。
——大丈夫。
——時間は、たっぷりある。
——だって、私たち、これから、長い長い、革命を、始めるんだから。
廊下の奥で、ふと、誰かの足音が聞こえた気がした。
私は、慌てて、鉄格子から手を引いた。
「また、来るね。絶対、また来る。歌、聞かせてね」
そう言って、私は、来た道を、駆け戻った。
背中で、もう一度、歌が、始まった。
低く、深く、けれど、どこまでも澄んだ、不死鳥の歌。
——待っててね、オーレリアン。
私は、暗い通路を、走りながら、誓った。
——私が、絶対、あなたを、世界の頂点に、連れていく。
——だって、私、推し活令嬢、リリアだから。
(第二話・了)
---




