第九話 バレかけた夜
二十七夜目。
私は、いつものように、男装して、広場で、歌った。
その夜の聴衆は、史上最多、約三百人だった。
歌い終わって、空き缶を抱えて、人垣を、抜けようとした、その時——
「待ちな、坊主」
ふと、私の前に、ひとりの、紳士が、立った。
仕立てのいい、紺色のフロックコート。
銀の懐中時計の鎖。
高そうな革靴。
——え。
——貴族?
私の心臓が、跳ねた。
紳士は、四十代くらいの、痩せた、知的な顔立ちの男だった。
私を、上から下まで、観察した。
「お前、毎晩、ここで歌っている、と、聞いた」
「あ、はい」
「実は、私の主人が、お前の歌に、興味を持っていらっしゃる」
「主人?」
「ベルロワ子爵閣下だ。今夜の歌、影で、馬車から、聞いておられた」
——ベルロワ子爵。
その名前を、私は、リリアの記憶で、検索した。
ベルロワ子爵——下級貴族だが、最近、商業に手を伸ばし、財を成し始めている、新興の子爵。
——え。
——子爵? が、私を?
「閣下は、お前を、子爵家お抱えの、専属歌い手にしたい、と、おっしゃっている。月給、銀貨二十枚」
——銀貨二十枚。
それは、一ヶ月分の、ベルナール男爵家の家計を、軽く、上回る金額だった。
私が一晩で稼ぐ、銀貨七〜十枚を、安定的に、もらえる。
しかも、子爵家の屋根の下で、保護される、という、おまけ付き。
普通の貧民街の少年なら——
迷わず、飛びついた、はずだった。
だが——
「すみません、お断りします」
私は、にっこり、笑って、答えた。
紳士は、目を、丸くした。
「断る、だと?」
「はい」
「銀貨二十枚、だぞ?」
「はい、聞きました」
「お前、頭、おかしいのか?」
「よく、言われます」
——だって。
——子爵家に、専属で、入っちゃったら。
——夜、出られなく、なる。
——オーレリアンに、ご飯、持っていけなく、なる。
——それは、絶対、ダメ。
「閣下に、伝えてくれませんか? 私は、自由に歌うのが、好きなんです、と」
「……お前、本当に、馬鹿か?」
「馬鹿で、結構です」
私は、深々と、頭を下げた。
「閣下のお気持ちには、感謝しています。でも、私は、私の音楽を、私のやり方で、続けたい。それだけです」
紳士は、しばらく、私を、見つめていた。
そして、ぽつりと、呟いた。
「……閣下に、報告する。だが、閣下は、諦めない、と、思うぞ」
「分かりました。次に、何か、提案があったら、聞きます」
私は、もう一度、頭を下げて、人垣の中に、消えた。
◆
その夜、屋敷の塀を、登りながら、私は、考えていた。
——子爵家、か。
リリアの記憶では、ベルロワ子爵は、下級貴族だが、商売の才がある、と、聞いていた。
最近、運送業と、織物業に、手を出して、急速に、財を、成している。
——もしかしたら。
——彼を、利用、できるかも。
専属、にはならない。
でも、「協力者」として、関係を、結んでおくのは、悪く、ない。
なぜなら——
私には、いつか、この、モンフォール侯爵家から、出る日が、来る。
その時に、後ろ盾になってくれる、貴族が、必要になる。
——種を、撒いておこう。
私は、塀の上で、にやり、と、笑った。
——ベルロワ子爵。
——あなたを、私の、最初の、支援者候補に、しておきます。
——よろしくね。
そう、五歳児が、月明かりの下で、誰にも聞こえないように、呟いた、夜だった。




