曖昧な予知
他人に関して特別な感情を抱くことのない君子だったが、食堂を繋ぐ渡り廊下で微かな、普通とは少し違った感情を覚えた時、君子は、それがまるで何処からか突然やって来たような不思議な違和感に思えた。
街の、透き通るような闇と、くっきりと光輝くイルミネーションを見ながら、父に関する薄い感情が深く刻まれでもしたように、君子は傷ついていた。
父が休みを取った。と、言った時、わずかでも期待した自分に厭悪感を抱いた。
自分の為に休みを取ってくれたのではないか?そんな馬鹿げた期待だ。
多分、学校の渡り廊下で普通と違った感情を覚えなければ、そんな期待はしなかっただろう。
すごく見えない何かに弄ばれたみたいで腹が立った。
君子は、苛立ちながら、自宅を出た。きちんと整理整頓された、生活感のない自宅にいると、落ち着けない。泊まるつもりでいたが、耐えられずに出てしまった。
乃木亜本社ビルの地下四階の、今だにきちんとした名前がないチャイルドスペース(仮)に着くと、ドアを開くと同時に沙耶香と驍の声が飛び込んできた。
ダイニングスペースに入ると、カフェスペースで沙耶香と驍が大きな声で話をしているのが見えた。沙耶香の隣には、少し笑みを浮かべた悠亮もいた。そして、ダイニングテーブルには、仕事をしている麗香がいた。
あゝ、嫌な予感も消えたのか?何だったんでしょうね。
少し笑みを浮かべた悠亮を見て、君子は微かな苛立ちを覚えた。
「あっ、君ちゃん。今日は自宅のマンションに泊まらなかったの?」と、仕事の手を止めずに麗香が言う。
麗香は、メガネ型デバイスをして、しきりに左手の三本の指を動かしていた。
麗香のメガネを覗かない限り、何をしているのか分からない。不気味な行動だが、そんな光景も慣れてしまい、誰も不思議に思わなくなった。
「うん。多分、父は帰らない。ひとりで、あの生活感のないマンションにはあまり居たくないもの」と、君子は言った。
「あーそうなんだ」と、麗香は、メガネのテンプルを触って機能を一時停止した後にメガネを外した。
「どうしよう、君ちゃん。フードホルダーが空っぽだ。ディナー食べていないのでしょう?」と、麗香が言った。
その時、沙耶香と喋っていた驍がダイニングスペースに来た。
「おう、君子君、やっぱり帰って来たか。どうもそんな気がしていた。俺がなんか作ってやろうか?」と、驍が言った。
「あーうん、いや、別にいいよ。自分でやるから…」と、君子は言ったが、すでに驍は、キッチンのなかへと入っていった。
驍は、君子には謎の人物だ。麗香の適当な説明によると、厚生労働省から研究棟に派遣されてきた人で、出向扱いになっている。なんでも自宅は菟針市から随分遠くだというのに、住まいも探さずに身ひとつで来たかと思うと、社外では知り得るはずのない、このチャイルドスペース(仮)に住まわせてくれと申し出たらしい。このチャイルドスペース(仮)の存在は、限られた役員しか知らない。だから乃木亜内でも、知られていないのだ。それは君子たちは随分後になって聞かされた。
君子たちは、自分たちが、乃木亜の地下四階に住んでいるなどと、なんとなく秘密にしていたのだが、どうやらここの存在を会社は隠したがっているようだった。
そして、麗香から、ここの存在が知られるのは、どうもコンプライアンス上あまりよろしくないと、ある日正式に言われた。
それなのに、厚生労働省から来た驍は、ここの存在を知っていて、麗香の反対を押し切って、自ら扉を開いてやって来たのだ。
それから月日を重ねているうちに驍は、すっかりとここに馴染んでしまって、誰も警戒しなくなっていた。
「確か、冷凍ハンバーグがあった。君子君、それでいいか?温めるだけだからすぐにできるよ!」と、驍がキッチンから声を張り上げた。
「驍君は優しいね。君ちゃんたちの兄さん的存在を目指しているのかな?」と、麗香が言った。
「いや、兄さんだろう?」と、驍が言った。
「って言うか、驍君は仕事しているんですかね。研究棟にいるより、ここの学習室に閉じ籠っていることが多いんだけど。誰も驍君のこと、管理しないの?」と、君子が言った。
「しないね。驍君を管理する業務は、研究棟の誰の仕事でもないから…」と、麗香が答えた。
「驍君はなんか面倒くさそうだ。好き勝手にやってる。やっぱり研究棟でも好き勝手にやってるの?」
「さあね。そもそも驍君がなんで、乃木亜の研究棟に出向しているのか、私の周りの人間は誰も知らないんだな。だから私には関係ない。ここに住むことを許したのは社長だし、私たちに迷惑かけなければ、好きにすればいいと思うよ」と、麗香が投げ出したように言う。
「まぁ、私も関係ないんだけど…」と、君子は呟いた。
驍がダイニングテーブルに、ハンバーグが入ったプレートを置いた。なんと自分用のプレートも準備していたのを見ると、君子は、ぷっと笑った。
「えぇぇ?驍君、食べてなかったの?」と、おそらく二食目になるに違いないと思った君子は皮肉を言った。
「食べたんだけど、自分でも気づかないうちに二食分温めていたんだよ。無意識だ。旨そうなハンバーグが悪いなこりゃ…」と、驍が悪びれずに言った。
そして、君子は麗香の横に座った。
「あゝ、先に着替えてくれば良かったな。ハンバーグのソースで制服が汚れたらどうしよう」と、君子が言うと、驍が気を利かせてか、キッチンからエプロンを持って来た。
「わっ…ださっ。でもソースで汚すよりいいっか」と、驍から受け取り、君子はエプロンを着けた。
驍は、何を食べたか知らないが、一食分食べたとは思えないほど、がっついて食べていた。その食べっぷりを唖然と見ていると、これまで気にならなかった耳鳴りが聞こえてきた。
君子は、ふとカフェスペースにいた悠亮を見た。
悠亮は黙っている。まるで独り言を言っているような沙耶香の声しか聞こえてこなかった。
耳鳴りに聞き入る君子も黙り込んでしまった。驍が何かを話していたが、君子は聞いていなかった。
麗香が肩に触れてくると、君子の目を見て言った。
「君ちゃん、あなた時々、そうやって、ぼんやりする時があるね…。何?いつも前触れなく突然だ。その時、君ちゃんの中で何が起こっている?」
「えっ?何が…?もちろん考え事です」と、君子はつくり笑いを浮かべた。
「そんなわけないね。ひとは何の脈略もなく突然、周りのことも分からなくなるほど、深い考え事はしない…見てたらひどく不自然だった」と、麗香が言った。
「うそうそ!考え事じゃない。ちょっと疲れただけ」と、君子は言った。
「そんなこといちいち指摘するんじゃない。考え事をしようが、ぼーぅっとしようが、そんなの君ちゃんの勝手だ」と、驍がハンバーグをがっつきながら、言った。
「うるさい!私は君ちゃんが心配なの。自宅に帰ってたから…」と、麗香がぷんぷんした。
麗香さん、父が休みを取ったことを知らないのかな?
一瞬君子は思ったが、すぐに考えないようにした。
その時、悠亮の声が聞こえた。
悠亮は、聞こえたら、何でもいいから僕の名を呼んでと言った。
名…?なんか、わりと難しいな。
君子は、カフェスペースへ意識を向けた。
すごく沙耶香が喋っている。悠亮は黙っているのに、一方的に喋っている。
沙耶香は辛抱強い。喋れない悠亮に必死に喋っているのだ。時折、悠亮は笑ったり、頷いたりしているのだろうけど、それでも一方的に喋るのは、体力がいるし、疲れてしまうだろう。それなのに悠亮を楽しませる為に必死だ。
そんな沙耶香のお喋りを遮るのは、少しいやだ。それに、必死で喋る沙耶香の前で、結局悠亮は別のことを考えている。その共犯者になるのも少しいやな感じがした。
「何?悠亮君、盛り上がっているね。沙耶香は、どんな面白い話しを聞かせてくれているの?」と、君子はダイニングテーブルに着いたまま、カフェスペースに向けて言った。
これでいいだろう。と、君子は思った。
「うるさいわね。あなたに聞かせる話しはないから黙っててよ!」と、沙耶香が叫んでいた。
君子が苦笑する。
ザザザーーザザーー君ちゃん。…シャーーー…すごく嫌な悪意みたいなものを感じるんだ。…今朝より強い。ザザザーーザー今夜か明日だ。…ザザザーーザザーーザーシャーー何かが起こる…かもしれない…シャーーー
何かが起こる…かも知れない。と、言われても…。
何が起こるのか?嫌な悪意みたいなものって何なのか?今朝より強いって、どれくらい強くなっているのか?機関銃のように問いたいが、今は、沙耶香の話しを遮れないし、悠亮だってソファから動こうとはしない。
私はどうしたらいいの?
悠亮…?
君子は、ハンバーグを食べ終わると、後片付けをして、内階段を上がって、プライベートルームで着替えを済ました。
内階段を上がると、そこは実質地下三階だ。
君子の個室と、沙耶香の個室は並んでいる。君子の隣りにはもうひとつ空いている個室がある。そして、沙耶香の個室の隣りの部屋がプライベートルームだ。君子と、沙耶香が共同で使用する、寝る以外の暮らしの全てを補える部屋だった。例えば、TVや動画を見たり音楽を聴いたり、くつろいだり…。あとは化粧をしたり着替えをするのもその部屋だ。君子と沙耶香は遠慮して、時間をずらして使用していた。
そして、ぐるりと回った反対側に悠亮と驍の寝るだけの個室がある。やはり同じように共同のプライベートルームがあるのだが、そこは今では驍の部屋になっている。だから空いた驍の、寝るだけの個室は悠亮がゲームをしたり着替えをするのに使っている。だが悠亮は、ほとんどの時間、カフェスペースにいることが多かった。
あと学習室が二つと、もともとは管理室だった部屋を麗香が使っていた。
そして、謎の個室がひとつある。それは悠亮の個室と、もともと驍の個室の並びにある、開かずの扉。誰もそこを覗いたことがない。だが時折、中から音が聞こえてくる。人の気配を感じることも…。暫く、その開かずの扉のことが話題になっていた。今では誰も触れようとはしないが、悠亮は、そこを通るのを心なし避けていた。
あとは、階下にはダイニング、カフェスペース以外に、学校の教室をコンパクトにした学習室とリモート会議室と、サーバー室、それに大きな浴槽の風呂とシャワールームがあって、チャイルドスペース(仮)はAIが完全管理する快適なシェアハウスと化していた。
麗香が最初に打ち出したコンセプト、乃木亜社員の家庭の事情がある子女の健康と育成の為の、AIが24時間完全サポートするチャイルドマインダースペースからは大きくかけ離れてしまった。
ここの存在を会社が隠そうとしているのは、そんなところに理由があるのかもしれないが、本当のところは誰も分かっていなかった。
君子は、いつものように朝を迎えた。
昨夜は悠亮の言う“何かが起こる”という予知は当たらなかった。
しかし、そんな曖昧な予知でも悠亮の予知というか予感というか、かなりの確率で当たっていた。
悠亮が何をどんなふうに感じているのか、君子には分からない。
だが、悠亮の、そんな不安は君子にも感染してしまうのか、何だか朝から憂鬱だった。
学校には一人で登校していたが、気持ちがどんよりと沈んでいった。




