声の主
昼休みがあっという間に終わった。楓には突然響く予鈴の音は、無理やり現実に引き戻されたような不快な音となった。
さっきまで、そこにいたはずの女子の姿が、異次元の世界と共に消えていった瞬間だった。
楓は、その光景を忘れることにした。
多分、もう見ることはないだろう。と、思った。
偶然が重なった瞬間だった。何かが交差したように、ベンチと渡り廊下の空間が異次元の世界となって、あの光景が映し出されたような気がした。
楓は、学校にいる時、人の顔を見ない。視界のなかでひとの形をしたものが、ぼんやり無意味に、無作為に動いているだけだった。
おそらくああいった偶然はもう起こらないだろうと、思った。
教室に戻ると、雨観の机に生ハムのサンドイッチが入った袋を置いて、楓は自分の席に着いた。
「何、やってんだ!」と、雨観が怒鳴った。「食う暇ないじゃないか!もう5時間目が始まるだろうが!」
そう、怒鳴っている間に本鈴が鳴り、ドアが開いて教師が入って来た。
授業もデジタル化が進み、もう起立、礼というような儀礼もなくなり、生徒たちは皆、メイホウアカデミックシステム。通称MASにログインする。机にはタブレットがひとつ置かれただけだった。
「ん…?三名ログインされていませんが、午後から欠席ですか?」と、教師が言う。
その間、雨観は体勢を低くして、真っ赤な顔をして、生ハムのサンドイッチを食べていた。雨観自身、ゲームに夢中になって、時間を忘れてしまい、楓の戻りが遅いのに気づかなかったのだ。
「すみませーん。タブレットがぶっ壊れました」と、先程便乗した一人が叫ぶ。
更にもう一人も続いて叫ぶ。
「後二人のタブレットもぶっ壊れました!もう授業できません。帰っていいですか?」
「そうですか。仕方ないですね。今日は特別にブラックボードに表示しますので、メモ機能使って後で追加して下さい。それから授業終わったら、MASメンテナンス室で見てもらって下さい」と、教師が無表情に言った。
雨観は、急いで生ハムのサンドイッチを口の中に押し込みながら、草理を見た。
今日は朝からいつにも増してぼーっとしているな。と、思いながらも、左の耳に入ってくる教師の話しに反応した。
あいつら、MASメンテナンス室で面倒な手続きさせられた上に、MASが復旧したとしてもゾアシステムの壊滅に絶望することになる。親に連絡して、チクられるかもな。と、考えていた。
ゾアシステムとは、AIがプログラムした高性能な学習システムの通称だ。
この学校の生徒の普及率は、40パーセントくらいだが、全体で言えばそこまで普及しているとは言い難い。ゾアシステムを所有しているということは社会的にもステータスが高かった。格差の象徴とも言えた。
雨観はチクられることを心配しながらも、ざまぁない。と、思っている。
そして、午後の授業が始まった。
その日の夕方…。
君子は、1週間に1度くらいのサイクルで、誰もいない自宅のマンションに帰った。
その日は、自宅のマンションに帰る日だった。別に帰らなくてもいいのだが、いつのまにか習慣化されていた。
自宅に帰ると、掃除の必要もないくらいにきれいに整理整頓されている、生活感がない冷たい空間が帰宅した君子を迎えいれた。
君子の父は几帳面だ。整理整頓をきちんとする。おそらく夜遅く帰ってはいるのだろうが、散らかることはない。ただ冷蔵庫を見ると、確かに食料が減っている。だが、あまり料理をしない父が、食しているのを想像できない野菜などが減っていた。そうしたいつもと違う変化は、微かに君子を不安にさせた。
誰かに料理を作ってもらったのかな?と、想像してしまう。
いつのまにか長い時間会っていない父に対して、君子の方がこんなんでいいのだろうか?と、慣れているのに、すごく不安になる。
午後7時。
お掃除ロボットが動き出した。
フローリングを動く姿が愛らしい旧型ロボットだ。一見旧型ロボットに見えるが、ひとたび側面の扉が開くと、たくさんの小さなロボットたちが、何処からともなく現れて、お掃除ロボットのところへ集まってくる。君子は、それを虫と呼んだ。
虫たちは、部屋の狭いあらゆるところへと消えていき、塵や埃を綺麗にしたり、小さな落し物を見つけたりといった物凄く地味な仕事をしている。そして、その中に三体、父のスパイロボットがいた。スパイロボットは、君子の部屋に潜り込んで、君子の日常を窺う。
だが、君子は、ほとんど部屋にはいない。というか、おそらくこの家にはほぼ君子の存在など消えかかっているだろう。
君子の部屋は、モデルルームのようなものだ。最近でこそ、こうして1週間に1度帰って来ているが、小学生の頃も中学生の時も殆ど家に戻ることはなかった。
乃木亜の本社ビルの地下四階の今だにチャイルドスペース(仮)と呼ばれている、あの託児所に行ったきりだ。
それは、ある意味、君子のささやかな抗議だったのかもしれない。
スパイロボットが何故、いつも君子の部屋を偵察するのか、謎だった。
やがて、虫たちがお掃除ロボット本体の中に自ら入っていく。今日の、恐ろしく地味な仕事の終了だ。人が殆ど存在しない部屋であっても日々塵や埃が溜まっていくのか?人にとっては怖くなるほど孤独な作業だ。
虫たちがお掃除ロボットの中に収まる。だが、扉は閉まらない。やがて、最後に三体の偵察ロボットが帰って来た。二体が中に入っていった。しかし、一体がまだ止まっている。
君子は止まった一体をじっと見ていた。
すると、虫が君子を見上げた。
「帰っていたのか?」
突然、ロボットが喋った。
父の声だ。
「えっ?」 君子は軽く驚いた。
「良かった。会えた」
いや、会っているわけではないが…と、君子は思った。
「本当に会えて良かった」と、ロボットが言った。いや父が言った。
「いえ、会ってません。勘違いしないで下さい」と、君子は言った。
「今日、君に会えなかったら、どうしようかと…」
父の“君”は、名前の君ではない。二人称の方だ。イントネーションで分かる。だから君子は、聞き流すことができない。だが指摘することもできなかった。いちいち小さく傷ついた。
「休みを取ったんだ」と、父が言った。
「えっ?休みを…」と、君子はほんの一瞬だけ顔を赤らめた。
「そうだ。何日か遠出をしようと思う」
「えっ?何処に?」
「昔、君の母さんと出かけた山だ」
「山…?1人で?」
「いや、母さんとだ」
「母さんと?まさか、母さんそっくりのアンドロイドでも作ったの?」
「まさか、それだけは絶対しない。1人で母さんのことを想いながら…」
「何を言っているんですかね?命日すら忘れているくせに…」
「忘れていないさ。ただ、霊園という近代ビルに眠っている母さんに会いに行く意味が分からないだけだ。あのビルに母さんがいるとでも思っているのか?」
「思うわけないでしょう。それでも…いや、何でもない」と、言った後に「子供の言い訳か…」と、君子は小声で呟いた。
なんで今更…。ずっと母のことなど忘れていたのに。
「どうして、突然、そんなことをするの。わたしが知っている限り、あなたが母のことを話したことなど一度もなかった」と、君子は少し責めるように尋ねた。
「君の母のことを忘れたことなどないよ。言葉に出来なかっただけだ。ただ、先週いつもと違う行動を取った。何故だか、野菜を丸齧りしたくなったのだ…」と、父が言う。
野菜…?先週冷蔵庫に入っていた。珍しいと思った。そして、今日見たら、その野菜が減っていた。丸齧り…?何を言っている。何を言おうとしている?さっぱり分からない。
君子は苛立った。
そして、今度の“君”もやはり二人称だ。
「スーパーなんて行ったことなかったから、何処にあるのかも分からないだろう。だから徒に車を走らせてしまって、すこし遠いところのスーパーに辿り着いのだ…」
えっ?スーパーに行ったことない。なんなの…?そんな大人がいる?…って言うか、何の話ししているの?
君子はじわじわと苛立ちを募らせた。
「そして、丸齧りしたい野菜を念入りに探したのだ。いったい何の野菜を丸齧りしたかったんだろう…わたしはどの野菜を齧りたいと思ったのか?まぁ、こんな場合、普通胡瓜なんだが、本当に胡瓜か…」
「丸齧りしたい野菜がそんなに重要なの?いったいあなたが何を伝えたいのか?私が何を尋ねたのか、もう分からなくなった…」
「まぁ、重要ではないな…」と、父は、少し黙った。そして、意を決したように続けた。「そこで昔の友人に偶然会ったんだ。君の母さんの友達、そうだな親友だな。そして、わたしも友達になった。すごく品が良く美しかった。いつも綺麗にして、気高い女性だった。厚生労働省の人と一緒になって、結婚後も何度かわたしたちは自宅に招待され、ご主人にも会った。やはり彼女は気高く、美しかった。彼女の美しさは、例え歳を重ねても変わることはないだろう。と、そう信じていた。たが、スーパーで会った彼女はすっかり変わっていた。少しくたびれたカーディガンを着ていて、彼女は、割引シールを貼られたパックの肉を念入りに見ていた。まぁ、肉の質を見るのではなく、プライスラベルだけを必死で見ていた。わたしはあまりにも衝撃を受けて、声もかけずに去ってしまった…わたしはふと我に返ってしまった。この街の東側に広がる地域を何度か見ていたが、その時は何も感じなかったのだけど、変わり果てた彼女の姿を見た時、この街には乃木亜の本社ビルの周辺から外れた東側には、昔からここに住んでいた、二十年前から全く変わらない街並みが広がる地域があることを思い出してしまったのだ。乃木亜本社ビル移転から急速に発展した菟針市の、その恩恵をまったく受けられない人々、そればかりか跳ね上がる菟針市の税率による格差を新たに生んでしまった。わたしはそれからそのことが頭から離れなくなって、ぼんやりする始末だ。だがらちょっと頭を休めようと思って、一週間休暇を取って、あの頃のように君の母さんと登った山々を訪ねてみようと考えた。まぁ、一週間しか休みが取れなかったから山々というわけにはいかないだろうけど…」
父の話しがようやく終わった。
君子は、どう反応していいのか分からなかった。
ふぅーん。と、言っただけだった。そして、小さなロボットは本体のなかに消えると、いつもの場所にお掃除ロボットは収まった。
真っ暗になった街並みに鮮やかなイルミネーションが広がる窓を見ると、重なるように映し出された自分の姿がぼんやり見えた。
そして、君子は思い出した。
犯罪はダメだ。絶対だめだ…。母さんに知られると…、多分壊れてしまう。ギリギリなんだ。二つも仕事を掛け持って、いらないと言うのに、きちんと晩御飯まで作る。人って、そんなに動けるものなのか?動けるはずないよな。ギリギリなんだ。毎日、ギリギリなんだ。なのに息子が犯罪に手を染めたとなったら、あの人は、きっと壊れる。何処かにピリっとひびが入り、あっという間にバキバキと崩れて、粉々に壊れてしまう…。
午前中、耳鳴りに混じって聞こえていた声だ。
そして、昼休みに中庭のベンチに座っていた人が、きっと声の主だ。
鮮やかなイルミネーションが広がる夜景の裏側には、昔からこの街で暮らす人々の営みもある。だが、そんな人々が乃木亜本社ビル移転によって、更に貧富の格差が生み出され、苦悩を強いられている。誰もが見ようとしない、見えない格差だ。
だが、何故か、理由は分からないが、彼の言葉が君子の心を温かくした…。




