見えない個
教室に響きわたるキンコンカンコーンという鐘の音を合図に生徒たちからふわりと呼吸が漏れる。先生が教室を去った。
「さーてと執事君、今日は生ハムのサンドイッチが食べたいのだが、買って来てよ」と、先生が去ると、すかさず雨観の声が響き渡る。
「へぇー生ハムのサンドイッチか。それは旨そうだ。執事君、僕にも買ってきてくれよ」と、廊下側の席の男が便乗すると、他にも二人の男たちが便乗した。
だが、執事君と呼ばれる草理は、ぼんやりとしていた。
「おい、執事君、何ぼーうっとしているんだ!さっさと買って来いよ」と、雨観が怒鳴った。
窓の外を眺めていた草理が、その声に気づくと、ぼんやりとした顔で雨観を見た。
「おい、執事君、大丈夫か?はやくー、生ハムのサンドイッチ買って来てくれよ。無くなってしまうだろう。無くなったら執事君、弁償してくれるのかな?」と、雨観の声が響き渡る。
「まったくだ。何をぼけーっとしているんだ。執事のくせに!無くなったら弁償しろよ。街で買って来いよな!」と、廊下側の男子が怒鳴る。
その時、雨観が不思議そうにした。
いつもなら、草理の前に座っている、正義感の強い風戸純が、勢い良く立ち上がって、雨観に嫌悪感を向けると、もう、言い返せないほど激しく怒鳴り散らすのだ。
昨日は、こんなふうだった。
「自分で買いに行きなさいよ!何が執事君よ。草理君をそんな名で呼ぶやつは私が先生にチクッてやる。三倍くらい盛ってやるから、覚悟しなさいよ!毎日毎日草理君を虐めて、みっともないと思わないの?草理君が何も言わないからっていつまでも調子にのるな!」と、すごい剣幕で怒鳴った。
彼女の勢いが収まった頃、ぼぉーとした顔で、草理は教室を出て行った。戻って来た時、天丼弁当を雨観の机に置いた。
「結局、買ってきたんかよー」と、雨観は心でなかで突っ込みを入れた。
だが、今日の風戸純は、黙って俯いて、なにやら本を読んでいた。
まったく調子狂うな。何とか言えよー。と、雨観は思う。
だが、今日は風戸純は黙ったまま口を開くことはなかった。
なんだ、結局、この女子も、正義感を誇示するだけのつまらないやつか…?
雨観が、そう、思っていると、本当にぼんやりした顔で立ち上がった草理が、雨観をぼーぅっと睨みながら教室を出て行った。
「おいおい、くそ執事、初めから素直に動けよ。手間かけるなよ!」と、廊下側の男が苛立って叫ぶ。
「えーと、お前なんだっけかな?執事君って誰のことを言っているんだ。お前のパンなんか買ってくるわけないじゃない。あいつのこと執事君って呼んでいいのは、俺だけなんだよ」と、雨観が言った。
「何言ってる?執事君と皆んな呼んでいるんだが…。今更、なんだ?」と、廊下側の男が叫ぶ。
「えー?まさか執事君、俺らのパン買って来ないつもりなのか?それは許せない!もし買って来なかったら、グーパンだな…!まぁ、とにかく減点だなぁ、こりゃ…」と、便乗した男が、また便乗する。
「なんだお前ら、名前知らんが、調子乗んなよ。今度、お前らが執事君のことを呼んだら…」
「えっ、執事君と呼んだら…どうすんだ」と、廊下側の男が、興奮して、立ち上がった。
雨観は、ニヤリと笑った。
「お前のそのタブレット、デバイス、全て使えなくしてやってもいいが…」
雨観が、そう言うと、五分後くらいに三人の叫び声が教室に響いた。
ニヤリと更に雨観は微笑した。
タブレットやデバイスを失うのは、この学校では、何よりも恐怖だ。タブレットの中には学校教育ではとても得られない、AIがプログラムした高度な学習システムがある。普通に勉強したところでとてもAIの合理的な学習システムのスピードには追いつけないからだ。
便乗したあの三人がAIの学習システムを失うと、成績が下がってしまうのは確実だ。
「舐めるな。俺には、お前らが持つことのできない、高性能な強いAIがあるんじゃ!さて、一日も早く復旧できるといいな」と、雨観は冷笑した。
「くそっ!」と、便乗した男子たちは慌てて、タブレットを再起動したり、あらゆることを試みていた。
それはAI自らがメンテナンスしないと、無理だな。高くつくだろうが、こいつらだったら親がどうにかするんだろうな。と、思いながら、雨観は、ゲームをしながら、生ハムのサンドイッチを待った。
「まったく、風戸純が正義風を吹かせてくれなかったばかりに…、俺が釘を刺す羽目になったじゃないか」と、雨観が呟いた。
一方で草理は、相変わらずぼんやりしながら、一階の食堂に向かっていた。雨観の生ハムのサンドイッチを買いに行ったのだが、雨観の言う通り、便乗した三人の声はまったく聞こえていなかった。
その途中、胸ポケットに入れておいたメガネ型デバイスがブルブル震えているのに気がついた草理はメガネを掛けた。
ーねぇ、君、もしかして学校ではパシリ君的な虐めを受けているの?ー
AIが言った。
「へえ、お前、起動しなくても、聞こえているのか?」と、楓が尋ねた。
ー君はひどく古いバージョンのAIのことしか知らないのか?時が止まっている?君は、一歳の幼児の時からチップを入れる親の話しを知っているか?最近、すごく話題になっている話しだが?ー
「ふてぇ、親だな」
ーあっ、そういう反応なんだ。どうやら君はネットも見ないのだな。つまり、幼い頃から共にAIと成長するんだよ。AIは、子供と同じ経験を積み重ねながら学んでいく。その子に合った最高で最適なサポートを学んでいくんだ。だから成長して大人になったら、最強の個として完璧な大人となる。どうだ!ー
「それがどうした。結局、AIの器になっているだけだろう」
ーそうではない。共に成長するから、もうAIを含めて立派な個だ。例えばその子の特性を踏まえて、最適な判断を下したり、最適な選択ができる。AIがリードするわけでなく、共に成長していくから、無理なく向上できる。その子と個として、共に最高の道を歩むことができるんだ。しかも、判断の速度も早くなるし、効率も上がる。判断する材料を演算する能力も格段に上がるから、二十年もしたら、そんな最強な子供たちがこの地球上に溢れる。まぁ、まだ、そんな奇跡の子供たちは幼いから、今の君を脅かすこともないだろう。今でも個人が持つAIの普及率は格段に上がっている。君は、明らかに時代遅れの部類に入っているから、クラスでも浮いた存在になっている—
「ふぅーん。それは、まだ一部の人間のことだろう。この学校は、名門だ。比較的金を持っている親が多いから一見すると、高い普及率だと感じるけど、そんな待遇の高校生がどれくらいいると思っているんだ。いち個人が持つAIの普及率なんかそんなに高くない。俺は惑わされない」と、草理が言った。
ーうーん、君が見ないようにしているだけじゃないの?ここ五年で普及率は急激に上がっている。月額料も下がる一方だ。今に普通の高校生でも手が届くようになる。ところで、仲介屋がわたしに君を託したのは、君が先週、偽の仲介屋のメッセージを受け取って、偽の依頼を受けたからだー
AIがそう言う。
楓は、AIの話しを聞きながら、雨観がすでに注文していた、生ハムのサンドイッチを二個受け取った。
「偽のメッセージ?」
ーそうさ、偽のメッセージだ。君の携帯端末は、バージョンが古くて、セキュリティがもう無効化されている。だから丸裸状態だ。君があまりにも無頓着すぎるから、携帯端末が誰かに覗かれていても気がつかない。これからは、もう古い携帯端末は捨てて、そのメガネ型デバイスを使うようにと仲介屋の伝言だー
「先週といえば、公園のベンチに置かれたファストフードの袋を届けるという依頼だった。中身は見るなと言われたけど、あれは仲介屋の偽物だったのか…?まぁ、奇妙な依頼だと思ったよ。結局、届けるはずの相手は現れず、最後は、また別の公園のゴミ箱に袋を捨てておしまいだった」
ーそれ犯罪の片棒を担いでいる可能性がある。今、仲介屋が調べている。これからは仲介屋の依頼はわたしが管理するから、絶対携帯端末に送られるメッセージを見ないように—
犯罪の片棒…?
ま、まずい。犯罪はダメだ。いやいや…、思い出してしまった。そうだ、今朝も刑事にあんなことをしてしまった…。
楓は、犯罪というワードにひどく敏感だ。唐突に、午前中、不安に襲われたことを思い出し、再び不安になった。
食堂から教室に帰る渡り廊下を歩いている時だった。渡り廊下を降りると、緑豊かな中庭がある。楓は、不安な気持ちを落ち着かせる為に中庭に降りた。そして、中庭の隅に設置されたベンチに腰掛けた。
犯罪の片棒?あれが犯罪の片棒というのなら、いったいどんな犯罪に利用されたんだろう?仲介屋の偽物…?確かに奇妙な依頼だ。こんなことなら、袋の中身を見ておけばよかった。もしかしたら俺は単純に運び屋をやらされた…?
そもそも、仲介屋の依頼そのものが、どれもこれも奇妙な依頼だ。見抜けるはずもないだろう。今朝だって、倉庫街の道路沿いの監視カメラがバグを起こしているから仲介屋が送ってきたメガネ型デバイスのカメラで撮影してくれって…。結局ジャミングされた可能性があるとだけ、それだけの情報しか教えてくれなかった。
仲介屋は、本当に『探偵』の情報屋の仲介屋なのか?本当なのか…?
あー疑いだしたら全てが怪しい。
楓はくるくると思いを巡らし、そこから抜け出せなくなってしまった。そして、無意識のうちに生ハムのサンドイッチを食べ尽くし、真っ青な空を仰ぎ見た。その時、楓は、何処からともなく強い視線を感じた。ゆっくりと、流すように周囲に視線を移すと、渡り廊下からひとりの女子が楓を見ていることに気がついた。
目が合った。
えっ、誰…?なんで。
女子生徒はじっと楓を見ている。視線が合っているのにそらそうともしないで、じっと。だから楓も視線を逸らせなかった。
えっ、なんか見たことあるひとだ。
楓は思った。
楓は、学校のことにあまり興味がなかった。クラスメートのことも、そして、同じ歳の男の子が妙に浮き足だったように騒いでいる女子の噂話にも、何の興味もなかった。
だから、渡り廊下から、少し驚いたような表情で楓を見ている咲村君子のことは、見たことあるようなないようなくらいの記憶しかなかったのだ。
だが、楓は少し思ってしまった。
えっ、なんか可愛い…。誰なんだろう?
その瞬間だった。
これまで目も逸らさずに見ていた女子が突然、まるで慌てるような感じで目を逸らし、食堂の方へ去っていった。




