幻の託児所
乃木亜株式会社本社移転効果は10年届くことなく、菟針市を繁栄へと導いた。高層ビルが立ち並び、シンボルとなるドームやタワーが建設され、オフィスビル、商業施設、高層マンション、コンベンションセンター、官公庁と、新副都心としての役割を果たすようになっていった。
量子AI、ロボット、映像メディア事業を柱に、更にメディカル企業を吸収合併して、企業の魅力を存分に訴求。NOKIAのロゴは国内中に溢れていた。
だが、悠亮と君子が引っ越してきた時、長い時間を過ごした中2階の託児所は、今では次世代型最新ロボットの展示場と化していた。
乃木亜は、託児所を菟針市と共同で運営を図り、社員だけでなく、地域住民まで幅を広げ、地域に根ざしていることを印象づけた。菟針市子供コミュニティセンターとして、都市公園に、注目を集める外観デザインを施し、市民への訴求効果を高めた。
悠亮と君子は小学生の頃は、学校が終わると、託児所に寄って静かに遊ぶのが習慣になっていた。自宅に戻っても父はなかなか帰ってこなかったからだ。
結局、エントランス中2階の託児所で遊んでいたのは小学三年生までだった。
悠亮と君子の父はいつも迎えに来なかった。待っても待ってもいつも…。
母親がいない二人には、窓の外が暗くなっても平静さを失わずに、静かに誰もいない自宅に帰る日々が続いた。
そんなある日、突然、託児所に鹿野麗香という、可愛い女の人が二人を呼びに来た。
そして、麗香は彼らを乃木亜本社ビルの地下四階まで連れて行き、二人に父を待たなくても良い、居場所を与えてくれた。
「ここは私たち研究棟がきちんと予算を確保して、私たちが創った託児所。って言っても、あなたたちはすっかり大きくなってしまったけれど…」と、麗香は笑った。「悠亮君と君子ちゃんのお父さんは、いくら私たちが早く帰るようにお願いしても没頭しちゃうと何も見えなくなってしまうのよ。分かるでしょう。それで私たち考えたの。研究棟の託児所作っちゃおうということになって、ここを作ったのよ。今のところあなたたちと、もうひとり、三人だけの託児所よ。勿論、会社であなたたちの境遇のような家族がいたら、どんどん利用してもらうわ。研究棟はどうしても他の部署みたいに決まった時間に帰れないことが多い。社員はできるだけ会社の決まり通り帰らせているけど、責任のある私たち役職を持った者はそういうわけにはいかないの。お父さんしかいないあなたたちを自宅でひとりきりにさせるのも心配だから…。私たちはあなたたちを24時間体制でサポートするから、これからは絶対に寂しい思いをさせない。安心してね」と、鹿野麗香が言った。
そして、部屋の中を案内してくれた。
そこは、24時間しっかりとしたサポート体制で、暮らしに困ることはない。と、麗香は説明を始めた。
まず、ハウスキーパーをふたり、研究棟から人員を出し、時間に合わせて家の仕事をすること。食事は、ハウスキーパーのスケジュールに合わせて作り、マンションの集合ポストによく似たフードキーパーというもののなかに保管し、いつでも食べられるようにすること。料理もほぼ、AIのフードメーカーで作るからそんなに手間がかかるものではなかった。そして、部屋の掃除。実はこれもAIお掃除ロボットがするので、そこまで人員を割くこともない。研究棟から人を派遣するのは、常に大人の目を入れることが目的だというこが分かる。
そして、お小遣い管理。毎月のお小遣いが携帯端末にポイントとして、送金され、収支を記録。お金の使い方をAIが助言するようになっている。学校の連絡は、父親と共有して、学校行事に関しては、父親のチーム総出でサポートすることを説明した。
「不思議だわ…」と、しみじみ二人を見て鹿野麗香が言う。「あんなに大勢子供たちがいたのに、あなたたち二人が仲良くなるなんて。あなたたちのお父さんはライバルであり、すごく仲の良い親友と言っても過言ではない。お二人共、すごく研究熱心で、ここまでうちの研究所のAIが進化したのもお二人の力なのよ。まだ量子AIは充分に普及されていないのだけど、これから先、人の生活も一変するわよ」
「ふぅーん、だけど、人々の生活がどんなに飛躍的に変化しようと私たちに父の存在を問われても何も言いようがない。こんな地下四階に追いやられちゃったんだもの。だけど、愚痴は言っても文句は言わない」と、君子は言った。
「うん、本当に申し訳ないと思う。これからはあなたたちのお父さんに変わって私が全力でサポートするし、…それにあなたたち二人のことをお父さんはすごく心配しているのよ」と、麗香が言った。
しかし、君子にはそれが鹿野麗香の主観にすぎないことが分かっていた。
父は、量子コンピュータのことになると、他の全てを忘れる。その集中力の異様さを君子は知っている。父の頭の中は想像すらできない。そんな人間に人間らしさを望むことは罪悪感すら感じてしまうのだ。それが父の使命であるのなら、孤独の恐怖など取るに足らない問題だ。と、そう思ってしまう。
幼い頃からそうやって君子は育ってきた。
大人っぽいそれが君子に大きなストレスを感じさせていることを自分自身でも気づいていなかった。
「でも、中学生になったら、自分家で一人で暮らしても大丈夫なのでしょう?それに今だって時々家で過ごしても問題ないでしょう?」と、君子は言った。だが、それは叶わなかった。何故なら、この地下四階の暮らしが思いの外、居心地が良く快適だったからだ。
だが、この最高に心地良い環境の中に、君子には想像もできない、最悪なことが起こった。それが、ここの託児所のもうひとりのメンバーの存在だった。
乃儀沙耶香。乃木亜の社長の息子である常務の娘だった。
沙耶香は、偶然母の浮気現場に出会したことで母親に強い憎しみを抱くようになった。遂には家に寄り付かなくなり、祖父母の家でほとんどの時間を過ごした。母への当てつけか、母とは折りが合わない祖母に懐いた。
沙耶香は、もともと母親の素行の悪さに嫌悪感を抱いていた。母に対する嫌悪感は沙耶香の性格をねじ曲げていった。そして、祖母を味方につけて母親を容赦なく攻撃して、やがて母親を家から追い出ししまった。常務は、すっかりねじ曲がった性格の沙耶香を持て余すようになった。
そしてある時、研究棟から送られてきた電子稟議書の承認を求める社内システムを目にした常務は、食い入るにように内容を確認した。「当社社員の家庭の事情で両親と過ごすことが困難な子女を24時間体制でサポートするチャイルドスペース(仮)設置の件」というタイトルだ。常務はすぐに承認すると、担当者に沙耶香を預ける為の書面を作成し、申し込み書として送った。
暫くの間、沙耶香は地下四階のチャイルドスペース(仮)に足を踏み入れることはなかった。
だが、チャイルドスペース(仮)には沙耶香は在籍していることになったままだった。
やがて君子は朝食を終わろうとしていた。後は、コーヒーを飲むばかり。耳鳴りには、もう悠亮の声は聞こえなかった。
悠亮が感じる、嫌な感じについては、もう何も聞こえてこない。と、いうことは今すぐのことではないのかもしれない。
君子は、コーヒーを残して、食器をフードボックスの裏側にあるシンクまで運んだ。食器をシンクの横にある食器洗浄用のシンクの中に入れると、後は勝手に洗ってくれる。シンクの上に水避けの薄いシートが貼られシャーという水音が響き始めた。
「悠亮君、その嫌な感じって…」
そう言いながら、コーヒーを片手に悠亮に歩み寄ろうとした時に、沙耶香が内階段を降りて来た。
君子と違って、沙耶香は薄化粧を施して、きちんと制服を着ていた。
そんな沙耶香を見ると、君子は顔を顰めた。
「悠亮…。おはよう。朝食食べた?一緒に食べよう」と、沙耶香が言うと、悠亮は首を横に振った。
「ああ、食べたんだ?なんで?待ってくれてもいいじゃない。ああ、今朝は誰もいないのか?麗香も驍さんも…。だから食べちゃったんだ」と、沙耶香はつまらなそうにした。
乃儀沙耶香は、中学二年生の時、何故か突然、このチャイルドスペース(仮)にやって来たのだ。
理由は分からない。これまで在籍だけの存在だった沙耶香が自ら入居を希望して、誰も伴わず、ひとりでやって来た。
その時から君子の生活が脅かされた。
沙耶香は驚くほど好戦的で、言葉の端々を拾い上げ、勝手な理論で揚げ足をとり、ぐうの手も出ないほどに相手を論破した。激しい性格での論破だ。相手がひどく傷つき、立ち直れなくなるまで徹底的に打ちのめす。
君子は何度も打ちのめされ、遂には麗香に相談した。しかし、麗香とはいえ、常務の娘を嗜めることなどできない。
君子は、チャイルドスペース(仮)を出るところまで追い詰められたのだが、ある時、ふと考え直した。
彼女を分析してみたのだ。
冷静に見ていると。沙耶香は周囲の人間を徹底して見下している。だが、結局、見下しているが、周りの人間など自分が相手にするほどのものではないと考えているようだ。彼女の、人より大きなパーソナルスペースに立ち入らない限り、存在していないも同然なのだ。
そこは、君子も同様だ。彼女と相容れる必要などこれっぽっちもない。ただ関わりたくない存在というだけだから、彼女のパーソナルスペースに立ち入らなければ、お互い違う次元に存在する、まったく見ず知らずの他人だ。と、考えれば、そうそう彼女を煙たがる必要もないことに気がついた。
君子の考えは的を得ていた。その日から沙耶香は脅威ではなくなった。
だが、何故だか沙耶香は、口の聞けない悠亮に同情してなのか、すごく悠亮を構うようになった。それが次第に同情から恋ごころへと変わっていったのかもしれない。常に悠亮の傍にいるようになった。だから自ずと、君子は悠亮に近寄れなくなった。
その日も、沙耶香は君子など存在していないように、真っ直ぐに悠亮に向かった。
だが、君子にしてみたら、その状況は悪くはなかった。入れ違いに真っ先に内階段で上がっていった。
その時悠亮の声が耳鳴りに混じっていたが、君子は無視した。
ザーーザーーー…君ちゃん…ザーーザザーザーー行かないで…ザーーザザーザーー…
どうやら悠亮も沙耶香が苦手のようだ。
君子の父の研究棟は、乃木亜本社の大きな敷地に隣接した、緑豊かなオープンスペースにあった。その建物と、地下四階のチャイルドスペース(仮)とは地下通路で繋がっていた。そして、君子のマンションは、その研究棟から近いところにある。いつでも帰れる場所だ。そのせいだろうか?いつでも帰れるという思いから、沙耶香の存在に悩ませながらも、チャイルドスペース(仮)に居着いている。或いは、沙耶香同様悠亮から今ひとつ離れきれないのか?いずれにしても、何故、チャイルドスペース(仮)に縛られているのか、君子自身理解できなかった。
もう、高校生になったというのに。チャイルドスペース(仮)は、君子にとって、託児所の記憶の続きなのかもしれない。それは、悠亮も同じだろうか?
ーー君子が悠亮から、“嫌な感じ”の思念伝達を受け取った朝の同時刻ーー
乃木亜本社から随分離れた倉庫街を草理楓は、監視カメラが設置された道順通りにスケートボードで滑らかに移動していた。
ちょっとした隙間バイトだ。
楓は、昔から漫画や小説に出てくる『探偵』というものに、ぼんやりとした憧れを抱いていた。そういうものを楓は現実で見たことがなく、漫画や小説などの空想上の組織だと思っていた。だが、それは存在しているらしく、案外身近で見た者がいて、それは求人情報などに結構な頻度で掲載されているらしかった。ネットで検索したら確かに出てくるのだが、大抵浮気調査やペット探しなどといった類いのもの。それは探偵ではなく、万屋ごとき類いのものだという認識で、困難な事件を解決していくのが『探偵』だと思っていた楓は、やはりあれは漫画や小説のなかにだけ存在しているものだと思った。
だが、それは存在した。
楓は、『探偵』の情報屋をしている者から依頼を受けた仲介屋からの依頼で、昨日からジャミングされたと思われる監視カメラの調査をしていた。ジャミングされた監視カメラはずっとひどいバグを起こして、過去をぐるぐるとランダムに映し出すことしかしなくなったということだ。
楓は、仲介屋から送られてきたメガネ型デバイスで監視カメラを一つずつ正しくピントを合わせて撮影していった。
監視カメラをメガネ型デバイスのカメラで撮影して、何をどう解決できるのか、楓にはさっぱりだ。だが、正義に携わっている仕事をしていると思うと、結構調子に乗ってウハウハだった。スケボーも加速した。
誰が、ここら辺一帯の監視カメラを使えなくしたのだろうか…?凶悪な犯罪の匂いがする。
楓は、まるで漫画の探偵になった気分で普段より更に視覚と聴覚、嗅覚を研ぎ澄ました。
だが、楓は、その依頼の詳細を全く知らなかった。
2026/4/21 2ヶ所漢字と言葉の修正をしました。ご了承下さい。




