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氷姫の旗を掲げよ~秘めたる愛影に抱かれて~  作者: 椎名将也
第1章 払暁の出撃

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3.氷姫の宣戦、双頭鷲の爪

挿絵(By みてみん)


【登場人物紹介】

ザック

・25歳

・196cm、108kg

・アードラー騎士団筆頭騎士

・二つ名は【黒嵐の獅子】

・天恵は【鬼神(ダイモン)】

・ディアナの剣の師匠で、その技量はセリカ騎士団でも一、二を争う。

・オリハルコンを鍛えた古代級の斧槍<フレイム・ハルバード>を愛用する。


※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;



 皇都リーアンの天空を鋭く突く時計塔から、厳かに鳴り響いた朝の四つ鐘(午前六時)の残響が、白む空の彼方へと冷たく溶けていく。

 薄桃色の重苦しい暁光が東の地平線から這い上がり、夜霧の晴れ行くアードラー騎士団の広大な演習場を、鋭利な刃物のごとき冷徹さで白々と照らし出していた。


 朝露に濡れた砂地から立ち上る、土と鉄の冷たい匂い。これから始まる西部海岸線の『ガザリア国境城塞』へ『上級回復薬(アドバンスド)』と膨大な食料や水を運ぶ兵站輸送任務を前に、広場には静謐ながらも火薬の破裂を待つような緊迫感が満ちていた。


 中央の進軍路には、重厚な鉄帯や装甲板で補強された総数十台の輜重馬車が、出発の時を待って厳然と並んでいた。だが、その車列の先頭に位置する最も巨大な装甲馬車からは、本来積まれているべき遠征物資の欠落を示す、どこか歪な軋み音が朝風に混じって響いている。それは、アシュレイの謀略によって自軍の命綱を部分的に断ち切られた、アードラーの緊迫した現実を無言で突きつけていた。


 その後方に整然と陣を敷くのは、一千の精鋭騎士たち。漆黒の軍馬に跨がり、手綱を握り締めて威風堂々と控える四百の騎兵隊。そして、その背後で槍を抱えて直立不動の姿勢を保つ四百の歩兵隊と、弓兵隊・輜重隊の二百人。彼らすべての先頭に立ち、深紺色の軍旗を背に受けて佇むのは、ヴァーテル伯爵家の令嬢であり、本騎士団を率いる団長ディアナ=ヴァーテルであった。


 流れ落ちる月の雫のような銀髪(シルバー・ムーン)を風に靡かせ、蒼灰色(ヘイズブルー)に輝く瞳は【氷姫(アイス・ドール)】の二つ名そのもののように冷徹に前方を見据えている。漆黒の騎士服の高襟に刻まれた『双頭鷲(ドッペルアードラー)』の徽章は暁光を反射してきらめき、その胸元には騎士団長の証である『六本』の美しい金のチェーンが静かに揺れていた。


(――今回の東倉庫街強襲は、一分一秒の遅れも許されない。絶対に失敗できないわ……!)

 ディアナの蒼灰色(ヘイズブルー)の瞳の奥では、すでに一千の兵を生存させるための冷徹な戦術計算が、火花を散らすほどの速度で回転していた。


(正面入口は突破力のあるザックに任せて、私とシンディは少数精鋭で裏口から突入する二面作戦が必要不可欠ね。アシュレイの私兵どもが物資を移動させる前に、確実に取り返す……。だけど、問題はその先だわ)

 中央の進軍路を見据える彼女の視線の先には、厳重に補強された十台の輜重馬車列の装甲板が旭陽(きょくよう)を反射して輝いていた。


 後方の九台には、ラザフォード辺境伯領(西部海岸線)の『ガザリア国境城塞』に籠もる守備兵五百人と、我がアードラー騎士団一千人の命を繋ぐ食料や水など、およそ一ヶ月分の物資が積載されている。本来の行程日数を超える過剰な積載量であったが、それは目的地である『ガザリア国境城塞』での積載や補給の手間を少しでも減らし、海を渡る大遠征へ一刻も早く移行するための、バルハルトによる徹底した先乗りの戦術計算の成果であった。

 だが、その先頭にある大型装甲馬車の周囲には、輜重兵だけでなく総金属鎧に身を包んだ多数の重歩兵が二m(メッツェ)は優にある長槍を片手に哨戒していた。


 最大積載量二t(トーゲム)を誇る装甲荷台(チェスト)の内部には、『ガザリア国境城塞』へ届ける『上級回復薬(アドバンスド)』五千本が、検閲封印をされたまま厳重に保管されていた。

 しかし、アードラーがオーディンヴァルト大森林までの長期遠征で必要となる『上級魔力回復薬(マナ・アドバンスド)』を収める場所は、ただガランとした虚(うつろ)な空間を晒(さら)していた。その事実は指揮官であるディアナの胸を不安と焦燥で激しく締め付け、底知れぬ絶望の奈落へと誘(いざな)っていた。


(このまま海を渡れば、アードラーはオーディンヴァルトで補給を断たれて全滅する。生き残る道はただ一つ――シンディが掴んだ情報の通り、東倉庫街にあるアシュレイの隠し拠点から、遠征用の『上級魔力回復薬(マナ・アドバンスド)』を力ずくで取り戻すことだけよ……ッ!)

 激しい怒りと重圧に、ディアナは血が滲むほど唇を噛み締めた。だが、その感情を皆に見せる訳にはいかない。彼女は強い意志の力で激情を押し殺し、これから始める争奪戦(戦い)のために蒼灰色(ヘイズブルー)の瞳に静かな闘志を宿らせた。


「団長、法務省の国境港湾局はアシュレイの星金貨(賄賂)に魂を売り、我が団への『上級魔力回復薬(マナ・アドバンスド)』の補給ラインを完全に凍結しましたよ。……ですが、あそこのタヌキどもは致命的な勘違いをしてますね。昨夜、【黒鴉の眼(シンディ)】が掴んだ情報により、『上級魔力回復薬(マナ・アドバンスド)』を隠蔽している敵の拠点は特定済みです。正規の補給が受けられないのなら、アシュレイが裏で用意した物資を我々が強奪する(いただく)までのこと……」


 前ボタンをすべて外した漆黒の騎士服を肩に羽織りながら、参謀長バルハルトが丸眼鏡を右手でクイッと持ち上げた。胸元から垂れた『三本』の金のチェーンが、旭光(きょっこう)を映してキラリと輝いた。

 その手元にある魔力端末には、アシュレイ公爵家が法務省へ流した星金貨三十枚の生々しい闇口座リスト(証拠)と、これから強襲を仕掛ける東倉庫街の拠点が克明に表示されていた。


「見事な『先読み』です、バルハルト。……アシュレイ公爵家が我がヴァーテル家を宮廷から失脚させるため、魔人族(ダークロード)と内通してまで仕掛けた卑劣な謀略――ですが、その全貌はすでに、【軍師(ストラテーガ)】の深謀深慮によって把握済みですね?」

 ディアナが楽しげに訊ねた瞬間、彼女のすぐ隣で退屈そうに<フレイム・ハルバード>の斧刃を磨いていた男がフッと不敵な笑みを浮かべた。


 かつて冒険者としてディアナと生死を共にし、現在(いま)はアードラーで唯一、『一本』の銀のチェーンを許された騎士――ザックであった。一般の騎士たちは外套(マント)の着用が許されていないため、その留め金を結ぶチェーンは施されていない。『一本』の銀のチェーン――それは、騎士団長(ディアナ)に認められた武勇と信頼の証に他ならなかった。


 無造作に跳ねた漆黒の髪の間から、獲物を狙う猛禽のような「凄烈な蒼い瞳」が、昇り始めた太陽の光を浴びて妖しくきらめく。

 貴族出身の騎士たちが並ぶこのアードラーにおいて、平民の身分でありながら団長であるディアナの絶対的な『盾』として存在する男――その佇まいには、いかなる宮廷の権威をも恐れぬ、底知れぬ不敵さと武威の冴えが静かに漲っていた。


「貴族(タヌキ)どもが裏でどれだけ汚い金を回そうが、俺たちの兵站(いのちづな)を掠め取れると思うなよ。これで『ガザリア国境城塞』に輸送する物資は、問題ねえな――アシュレイから上級魔力回復薬(マナ・アドバンスド)を根こそぎ分捕って、そのまま国境まで駆け抜けてやる。だが……」

 ザックは言葉を区切り、厳しい表情でディアナの美しい横顔を真っ直ぐに見つめた。そして、珍しく真面目な声色で続けた。


「問題はその先――ユリウスの坊ちゃんが仕掛けてきた本命のクソ任務だな。兵站をガザリアまで届けたその足で、海を渡ってオーディンヴァルト(未知の魔境)へ突っ込めってか……? そのまま魔境で野垂れ死ねと言わんばかりの熱烈な嫌がらせじゃねえか!?」

「ええ。ユリウス殿下のお望みは、『ガザリア国境城塞』までの兵站輸送を終えたその足で海を渡り、オーディンヴァルト大森林の奥地のどこかにあるという<龍律の古代魔導輝晶(特級遺物)>を入手せよという、涙が出るほど恐れ多いご命令なのですから」


 バルハルトが『龍刻の長煙管』から静かに紫煙を吐き出し、深謀深慮の視線を二人に向けた。丸眼鏡の奥に輝く黒灰色(こくかいしょく)の瞳は、すでにその大遠征の行程と、その過程で起こりうる兵站の消耗を冷徹に計算していた。



 重畳(ちょうじょう)たる軍令――


 建前はセリカ神国の危機を救うための栄誉ある特命だが、その実態は、アードラー騎士団をオーディンヴァ(未開の)ルト大森林(魔境)で魔人族を始めとする人外の種族や兇悪な魔獣に処分させる死刑宣告に他ならなかった。


 ディアナの脳裏に、かつて玉座の周辺で薄笑いを浮かべていた大貴族たちの歪んだ顔がよぎる。彼らは今頃、皇都の豪華なサロンで暖炉の火に当たりながら、アードラーが国境の果て――前人未踏の魔境で全滅する報告を今か今かと待ち望んでいるのだろう。

 だが、彼らは大きな思い違いをしている。アードラー騎士団は、宮廷の権力闘争に付き合うための私兵ではない。国家の命運をその身で支える、セリカ神国最強の盾なのだ。


(……私を、そして我がアードラーを、政治の道具として使い潰せると思わないことね)

 胸の奥で激しく燃え盛る烈火のような怒りを、ディアナは【氷姫(アイス・ドール)】の二つ名に相応しい冷徹な仮面の裏へと押し殺した。彼女がその命を賭して守るべきは、私利私欲のために国家の兵站すら売り渡す腐りきった宮廷の男たちではない。明日の命を繋ぐために泥水をすする無辜(むこ)なる民なのだから――


「……玉座の影に隠れて権力闘争に明け暮れる者たちは、アードラー(我ら)がオーディンヴァルト大森林で壊滅することを願っているのでしょう。だが、私は彼らのそんな思惑に屈するつもりはないわ! 私たちが救うのは、宮廷の権力者ではない。このセリカ神国で暮らす民たちなのだからッ!!」

 ディアナは大きく息を吸うと、蒼灰色(ヘイズブルー)の瞳をカッと見開いた。そして、左腰の<蒼月刀(アズルーナ)>を引き抜き、天を突くように高々と掲げて叫んだ。


「アードラーの騎士たちよ、私に続けッ!! 出陣ッ……!!!」

 ディアナの号令とともに、地平線を埋め尽くす軍勢から鬨(とき)の声が上がった。それは個人の声を遥かに超えた、大地そのものが咆哮するような轟音だった――


 ウッオオォォォーッ……!!


 怒号とも祈りともつかぬ凄まじい地鳴りが、兵たちの足元の泥を、そして遥か高天の雲をも震わせる。誰もが目を血走らせ、胸の奥にある死への恐怖を掻き消すように、ただ狂ったように叫び続けた。


 百騎の軽騎兵と三百騎の重騎兵――合計四百の騎兵隊が息を呑むような鋭さで一斉に剣を天に向かって掲げ、重歩兵百人と軽歩兵三百人は槍の石突を大地に激しく突き立てる。

 百五十人の弓兵は弓矢を握り締めて雄叫びを上げ、輜重兵五十人は短剣を鞘ごと引き抜いて輜重馬車の装甲を激しく打ち鳴らした。


 驚天動地の大咆哮――


 漆黒の騎士服を纏ったディアナの静かな佇まいは、その轟音の渦の中心で異様なまでの存在感を放っていた。

 風に激しくなびく月の雫のような銀髪(シルバー・ムーン)は、絶対零度の冷気を宿しているかのように冴え冴えとした美しさを放ち、その蒼灰色(ヘイズブルー)の瞳には未来の夜明けを掴み取るという寸分の揺らぎすら見せない峻烈な覇気が滾(たぎ)っている。


 ディアナが力強く右手で掲げているのは、凄絶な神気を帯びた<蒼月刀(アズルーナ)>――その一点の曇りもない鋒(きっさき)が真っ直ぐに天を突き、不忠の輩への冷徹な弾劾を告げている。

 彼女の背後で猛烈に風を孕(はら)んでたなびくのは、深紺色の布地に高貴な金刺繍(きんししゅう)と精緻な意匠を施した、ヴァーテル伯爵家の軍旗――その中心には、武門の絶対的な象徴である『双頭鷲(ドッペルアードラー)』が威風堂々と刻まれている。


 それは、宮廷の陰謀を正面から粉砕せんとする【氷姫(アイス・ドール)】の無言にして最大級の宣戦布告であった――


 ディアナが放つ圧倒的な団結力と揺るぎない威風を前にして、ザックは満足げに凄烈な蒼い瞳を細め、愛用の斧槍<フレイム・ハルバード>の太い柄を握り締めた。

(すべてを失ったこの俺が、何があっても命がけで守り抜くと誓った<戦女神(ディアナ)>――お前が前に進む限り、俺は<最強の盾>となってお前を支えてやるッ!)


「おい、バルハルト。残された時間はあとわずかだ。作戦開始の合図をくれ。正面入口の敵は、俺のこの<フレイム・ハルバード>で骨ごと叩き割ってやる。団長(ディアナ)たちが裏口から突入するまで、一秒(タルザン)の遅れも出させねえよ」

 燃え上がる熱情を迸(ほとばし)らせたまま、ザックが凄絶な表情で不敵に笑った。


「おやおや、相変わらず血の気が多いことで……。ええ、ノア様の隠密組織<蒼い影(ブラウ・シャドウ)>がもたらした情報は、すでに私の手元で完璧に精査してありますよ。東倉庫街の敵の配置、および物資の積載状況……。我が天恵【軍師(ストラテーガ)】による『深謀深慮の先読み』によって、すでに必勝の布石が完了しています。あとは、あそこのタヌキどもごと、すべてを白日の下に晒(さら)して御覧に入れましょう」

 バルハルトがニヤリと嗤いながら魔力端末に指を這わせ、結晶紋を冷徹に切り替えた。彼の脳内ではこれから数分(タル)後に始まる強襲計画すべてが、一切の滞りもなく精密に計算し尽くされていた。



 同時刻、皇都リーアンの皇宮に近い一等地――


 天を突く白亜の城塞のごとき威容を誇るアシュレイ公爵邸の一室。

 豪華絢爛な天鵞絨(ビロード)のカーテンが厳重に閉め切られた薄暗い私室で、一枚の美しい硝子鏡を前にして、一人の少女が狂おしいまでの執念を燃え上がらせていた。


 彼女の名前はシルヴィア=アシュレイ――アシュレイ公爵家の令嬢であった。

 ユリウス第二皇子の婚約者候補の筆頭であり、誰もが羨むセリカ神国随一の栄誉を手に入れているはずの彼女――だが、その淡紅色(ローズ・ピンク)のドレスに包まれた小柄な身体からは、ドロドロとした黒い激情が立ち上っていた。


「……どうして、どうしていつもあの小娘ばかりが賞賛されるの……!?」

 シルヴィアはルビーのヘイローネックレスで彩られた細い首筋に、美しく磨かれた指先で白く爪を立てながら、鏡の中に映る自身の美貌を憎悪の眼で見つめた。

 彼女がどれほど高価な宝石を纏い、どれほど美しい微笑みを宮廷で振り撒こうとも、軍務尚書であるユリウス第二皇子の視線の先にはいつも、あの冷徹で気高き【氷姫(アイス・ドール)】――ディアナ=ヴァーテルがいた。


 軍功を立て、民から英雄と称えられ、男たちと対等に戦場を駆けるその姿――

 ディアナという存在は、シルヴィアが逆立ちしても得られない『至高の気高さ』の証明であり、彼女の自尊心を永遠に脅かし続ける、呪いそのものだった。


「お嬢様、法務省に回した星金貨三十枚による、東倉庫街での強奪計画ですが……」

 部屋の暗がりから、公爵家に仕える執事長が怯えた声を出す。シルヴィアが生まれたときから仕えているため、彼女の性格は嫌というほど知っているベテランだ。機嫌が悪い時のシルヴィアに逆らうような愚は絶対に犯さなかった。


「分かっているわ! あれはただの前座に過ぎない。あの小娘は西部海岸線へと続く公道で法務省の臨検に阻まれて、密輸の冤罪で無様に捕縛されればいい! そして、ユリウス殿下が下されたあの『重畳(ちょうじょう)たる軍令』――海の向こうにあるオーディンヴァルト大森林で、魔獣たちに無惨に噛み砕かれればいいのよッ!!」

 シルヴィアの淡青色(ペール・ブルー)の瞳に、狂気の炎が燃えさかった。その時、彼女の背後の大きな扉が静かに開き、一人の威厳に満ちた男が姿を現した。


 セリカ神国の政権を裏から牛耳る巨頭、法務尚書ブライアン=アシュレイ公爵その人であった。彼は重厚な毛皮の外套を揺らし、娘の狂気を見下ろしながら、冷酷極まる声音で部屋の空気を支配した。


「シルヴィア、そう取り乱すな。アシュレイの娘が宮廷の端役のごとく声を荒らげるなど、見苦しいぞ」

 ブライアンはフッと傲岸に笑い、娘の肩に大きな手を置いた。その肉厚な手のひらとは裏腹に、彼の濃茶色(ダーク・ブラウン)の瞳には、感情の通わない冷徹な計算だけが宿っていた。


 ブライアンにとっては目の前で嫉妬に狂う実の娘さえも、アシュレイ家が皇室の実権を完全に掌握するための最高級の『駒』に過ぎない。ディアナへの憎悪を募らせるシルヴィアの歪んだ感情は、彼にとっては好都合な推進力であった。

 しかし、国家反逆罪に問われかねない「魔人国女王アスタロトとの内通」という最高機密だけは、たとえ愛娘であろうとも絶対に知られる訳にはいかなかった。情報を共有する人間は少なければ少ないほどいい。それが、この伏魔殿(パンデモニウム)のごとき宮廷を生き抜いてきたブライアンの信条であった。


「……お父様。ですが、もしあの小娘が『ガザリア国境城塞』までの輸送を無事に終え、さらなる軍功を重ねてユリウス殿下の御前に戻ってきたら……。私は、私は絶対に許せませんわ……!」

「案ずるな。チェス盤の駒は、すでに私の手によって完璧に配置されている。法務省の国境港湾局(役人たち)には、我が資金(ちから)で網を張らせておいた。アードラーの小娘は国境へ辿り着く前に、違法物資密輸の容疑で拘束されることになる。軍務次官であるコルネウス=ヴァーテルは、己が飼い慣らした軍犬(アードラー)の不始末によって、今度こそ軍務の要職から永久に失脚するのだ。万が一、あの小娘どもがその網を喰い破って『ガザリア国境城塞』に辿り着いたとしても、逃げ道などどこにもない」


 ブライアンは冷酷に言い放ち、カーテンの隙間から差し込む朝光を凝視した。国家の法と秩序そのものを魔力的な強制力として支配する、天恵【法統(レクス・マギストラ)】を司るその峻厳な意志の奥には、冷徹な詰みの盤面が明確に浮かんでいた。

 娘には「法務省の力で足止めする」とだけ信じ込ませ、その裏でセリカ神国そのものを揺るがす絶対的な処刑網を完成させている。これこそが、ブライアン=アシュレイという男の底知れぬ深淵であった。


「目的地の『ガザリア国境城塞』には、すでに我が姉の息子であり、天恵【看破(インサイト)】を持つ男――ヴァイス=アシュラッド伯爵を宮廷監査役として先回りさせてある。彼奴(あやつ)の瞳の前では、アードラーが隠すいかなる欺瞞(ぎまん)も、すべて白日の下に引きずり出されるだろう。アードラーの小娘が、再び皇都の土を踏むことは二度とない」

 自信に満ちた表情でそう告げると、ブライアンは初めて父親らしい眼差しをシルヴィアに向けた。


「我がアシュレイの栄華を遮る者は、誰一人として生き残れん。シルヴィア、お前はただ、近いうちに届くであろう【氷姫(アイス・ドール)】の悲報を、淑女らしく優雅に待っているだけでいい」

 ブライアンは喉の奥で低く嗤い、毛皮の外套を大きく翻すと、まるで玉座の間にでも君臨しているかのような絶対的な威風を漂わせた。


 蒼天に向かって<蒼月刀(アズルーナ)>を高々と掲げて、ディアナが出陣の大号令を叫んだのと時を同じくして、宮廷の深奥に巣食う黒き権力者たちは気高き主従を破滅の奈落へと突き落とすべく、冷徹にその謀略の檻(おり)を完成させつつあった。



『氷姫の旗を掲げよ~秘めたる愛影に抱かれて~』の公開記念に、「第1章 払暁の出撃」を三夜連続で投稿いたします!!


第1章の構成は、第1話から第3話となっていますので、お楽しみください!

第2章以降は、少々お待ちくださいませ(^_^;

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