27.白き迷い道、黒嵐の手
【登場人物紹介】
アリスター
・38歳。
・181cm、85kg。
・黒茶色の髪と、濃紺色の瞳。
・『ガザリア国境城塞』の筆頭騎士。
・天恵は【鉄壁】。
・バザードが最も信頼を寄せる部下。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
音が、死んでいた――
四百余りの騎馬の蹄も、鎧の擦れる音も、輜重車の軋みも、白い霧に吸われて消えていく。自分の息遣いだけが、やけに大きく耳に残った。
前を行く軽騎兵の背中が、朧な影になって揺れている。それを見失えば、二度と隊列には戻れない。誰もがそう感じていた。
光も闇もない。あるのはただ、白だけだった。
「……妙ですねぇ」
ディアナの左に並ぶバルハルトが、声を潜めて言った。
「団長。入ってから、どれほど経ったと思われます?」
「半時間……いえ、もっと」
「私には、一時間にも、ほんの数秒にも思えます。時の尺が、狂っていますよ」
参謀長は『龍刻の長煙管』を懐にしまったまま、取り出そうともしない。火を点けても、霧がすべて呑み込んでしまうからだろう。
右のシンディは、何も言わなかった。その黒髪さえ、霧に滲んで灰色に見える。
道は、通る者の心を映す。
ヴァルトリーデの言葉が、頭の奥で繰り返されていた。
迷いを抱えて入れば、迷いの分だけ道は長くなる――
(迷いなんて……)
ディアナは、手綱を握り直した。
だが、白い霧は容赦がなかった。何も見えない視界の中では、目を閉じているのと同じだ。瞼の裏に浮かんでくるのは、昨夜の焚き火だった。
ボクの方が先だよね。
ザックを取り戻しに来たの。
じゃあ、騎士団長さんの持ち物なの?
ザックのために、絶対に迷わせないから――
あの娘の言葉が、一つ残らず胸に刻まれている。答えられなかった自分の沈黙も一緒に……。
振り払おうとするほど、霧は濃くなっていくようだった。
「……バルハルト?」
気づいた時には、左の影が消えていた。
返事はない。右を見る。シンディの姿もなかった。
「シンディ。……シンディ!」
声は、口から出た途端に白に溶けた。手を伸ばしても、指先が掴むのは湿った冷気だけだ。後ろにいたはずのアルスランの気配も、どこにもない。
前を行く軽騎兵の背中さえ、もう見えなかった。
(落ち着くのよ……)
隊列は乱れていない。乱れたのは、自分の方だ。この道は心を映す。迷った者だけが、置き去りにされる――
アンヴァルの腹を軽く蹴る。どれだけ進んでも、霧は晴れなかった。白い壁が、四方からじわじわと迫ってくる。愛馬が小さく鼻を鳴らし、やがて立ち止まった。
どちらに向かえばいいのか、もう分からなかった。
白の奥に、色が生まれた。
赤茶色の尾が、楽しげに揺れている。その隣に、見慣れた黒い鎧の背中があった。二人は肩を寄せ合い、一度も振り返らずに霧の向こうへ歩いていく。
リュシカが何か囁き、ザックの腕に自分の腕を絡めた。ザックは、それを拒まなかった。
「待って……」
喉から出たのは、掠れた息だけだった。霧は声さえ呑み込んでしまう。
手綱をしごく。アンヴァルは怯えて、一歩も動かない。
二人の姿は、少しずつ小さくなっていった。
これが、自分の恐れていたものか。
六年間、彼はいつも後ろにいた。振り返れば、必ずそこにいた。だから一度も、考えようとしなかった。――その彼が、自分に背を向ける日のことを。
足元が崩れていくような不安に襲われる。
(ザック――ッ!)
声にならない叫びが、白い霧を斬り裂いた。
重騎兵隊の先頭で、ザックは手綱を握る拳に力を込めた。
聞こえた――
耳に届いたのではない。霧を隔てた遥か前方から、脳天に突き刺さってきた。あいつの声を、聞き違えるはずがない。
「ギュンター」
すぐ後ろを進む副官の名を、振り返りもせずに呼ぶ。
「隊を頼む。隊列を崩すな、前に続け」
「……承知」
ギュンターは、それだけ答えた。何故とも、どこへとも訊かない。短く刈った暗い金髪の下で、霜青色の瞳がわずかに細められただけだった。
ザックは漆黒の愛馬ヴァルカンの腹を蹴った。
隊列の脇へ出る。白い霧の中を、黒馬が矢のように突き進んでいく。軽騎兵たちの影が、凄まじい勢いで後ろに消え去る。
迷いなどなかった。
どこへ向かえばいいのか、考える必要すらない。彼女の声のする方へ、ただ駆けるだけだった――
「ディアナ!」
名を呼ばれた。
幻のザックの口は、動いていない。声は、まったく別の方角――背後にそびえる白い霧の壁の向こうから、真っ直ぐに届いていた。
目の前の二人を……、遠ざかっていく影を見る。目に映るものだけが、確かなはずだった。
『――己の目よりも、そなたを守る者を信じるがよい』
ディアナは、幻に背を向けた。
何も見えない白に向かって、手を差し伸べる。
霧が、音もなく裂けた。
黒い籠手が、その手を強く握りしめた。指先から、熱が流れ込んでくる。
馬上から身を乗り出したザックが、荒い息のまま、蒼い瞳でディアナを見据えていた。
「……見つけたぞ」
振り向けば、白い霧があるだけだった。
「どうして……」
ようやく出た声は、自分でも驚くほどか細かった。
「ここが、分かったの……?」
「呼んだだろ」
ザックは、当たり前のことのように答えた。
「お前の背中は、俺が守る。そう言ったはずだ」
同じ言葉だった。国境へ向かう夜の騎行で、二人きりの馬上で聞いた、あの言葉――
昨夜、焚き火の前で、ディアナはこの一言を脆いと思った。あの娘の告白の前では、あまりにも頼りないと思った。
(――脆くなんて、なかった……)
目に映るすべてが幻だったこの『霧の道』で、ただ一つ本物だったもの。それが今、自分の手を握っている。
(ザック、私は――)
言葉が、喉元まで込み上げた。
伝えたい。今、ここで――この手を離さないうちに。
だが、その先は声にならなかった。皆を生きて故郷へ帰すまでは――昨夜、月の下で自分に誓ったことだ。この霧を抜けた先には、最大の危機が待っている。今はまだ、その時ではない。
ディアナは、言葉の代わりに、握られた手を強く握り返した。
鋼の籠手越しに、確かな熱が返ってきた。
「――ディアナ様?」
すぐ右隣で、シンディが呼びかけてきた。
瞬きをすると、左右に二つの影があった。バルハルトとシンディが、初めからそこにいたかのように並んで馬を進めている。後ろには、アルスランの気配も戻っていた。
「……私は、今……」
「ザックが、重騎兵隊から駆けてきまして」
シンディは、ディアナの手元にちらりと目を遣った。
「ほんの数呼吸前のことです。いきなりディアナ様の手をお取りになるものですから、何事かと」
その顔には、愉しげな笑みが浮かんでいた。ディアナは握り締めている籠手の熱に気づき、慌てて手を離した。
「……そうでしたか。一時間どころか、数呼吸でしたか」
バルハルトが、興味深げに呟いた。丸眼鏡の奥の瞳が、ディアナとザックを順に見る。だが、それ以上は口にしなかった。
「主様の霧は、心を映す」
背後から、低い声がした。
振り返ると、獅子の金眼が霧の中からこちらを見ていた。
「迷う者の道は長く、迷わぬ者の道は短い。……貴殿の騎士は、後ろの重騎兵隊から一気にここまで駆け上がってきた。迷いのない男のようだな」
それだけ言って、アルスランは口を閉ざした。皮肉とも、感心ともつかない響きだった。
ザックは無言でディアナに頷くと、黒馬の首を返した。「漆黒の金属鎧」が、霧の奥へ消えていく。
遥か前方で、リュシカは手綱を握ったまま、小さく息を呑んでいた。
風が教えてくれた――
重騎兵隊の先頭にあったザックの匂いが隊列を駆け上がり、一直線にあの騎士団長の隣で止まったことを……。そして、しばらくそこに留まり、元の場所へ戻っていったことも……。
振り返っても、白い霧があるだけだった。何も見えない――それなのに、知りたくないことまで分かってしまう。
狼の耳が一度だけ伏せられた。
それでも、リュシカは前を見つめて風を読んだ。金茶色の瞳に、迷いはなかった。
霧が薄れ始めた。
白の向こうに緑が滲む。水の匂いが風に乗って鼻先をかすめた。
ディアナの視界が一気に開けた。
川だった――いや、河だった。
対岸の巨木が小さく見えるほどの大河が、夕陽を映してゆるやかに流れている。両岸には砂利を敷き詰めた広い河原が続き、その外側に天を衝く木々が壁のようにそびえ立っていた。
『霧の道』からその河原へ、隊列は次々と吐き出されていった。
ディアナたち軽騎兵隊百騎、ザック率いる重騎兵三百騎、デュークの第二部隊の重歩兵と軽歩兵合わせて四百人、弓兵百五十人、そして輜重隊五十人と十台の輜重車――
最後の一台が霧をくぐると、白い壁は音もなく閉じ、跡形もなく消えた。
「……抜けた、か」
後方から馬を寄せてきたデュークが、呻くように言った。
出立は朝の五つ鐘だった。それが今、空は茜色に染まっている。霧の中にいたのが半日なのか、ほんの一瞬だったのか、誰にも分からなかった。
「オーディンヴァルト大森林――」
バルハルトが、ようやく煙管を取り出した。
「地図のどこにも、この河は描かれておりません。敵が待つ道とは、まるで別の場所ですねぇ」
ディアナは、アンヴァルの背から河原を見渡した。
一千の兵が、無事にここにいる。ザックは重騎兵隊の先頭に戻り、そのすぐ後ろにはギュンターが黙って控えている。
(この全員を一人残らず、生きて故郷へ帰す。その時まで――)
霧の中で呑み込んだ言葉を、ディアナは右手に残る鋼の熱ごと握りしめた。
不意に、先頭のリュシカの耳がぴくりと動いた。
上流の梢から、鳥の群れがいっせいに飛び立った。吹いていた河風が、ぴたりと止む。狼人族の娘は栗毛の馬の上で身を低くし、静まり返った河面を睨んだ。
「……止まって」
小さな声だった。次の瞬間、その右手が鋭く挙がった。
「全員、止まって!」
一千の隊列が、河原で凍りついた。
夕陽を映していた大河の水面が盛り上がり、途方もなく巨大な何かがその姿を現し始めた――
「27.白き迷い道、黒嵐の手」をお届けします!
ディアナが最後に頼るのは、やはり彼しかいませんね。
それにしても、不気味なラストシーン……。
いったい、何が出てくるのでしょうか?
次話を楽しみにお待ちください!




