26.月下の恋敵、霧の回廊
【登場人物紹介】
カトリーナ=ラザフォード
・29歳。
・166cm、51kg。
・漆黒の髪と漆黒の瞳を持つエキゾチックな美女。
・ラザフォード辺境伯の庶出の長女(母は東方出身)で、アリスターの恋人。
・ディアナにはない大人の色香を持っており、彼女の憧れとなる。
・天恵は【調剤】。『ガザリア国境城塞』の医療隊長。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
『霧の館』を辞して外壁の門を出ると、野営地はすでに白い霧の底に沈んでいた。整然と並んだ天幕の列が、淡い灯りを滲ませて霧の中に浮かんでいる。
陣の中央に焚き火が組まれ、幹部たちはそれぞれの持ち場へ散っていった。ディアナが自分の天幕の垂れ幕に手を掛けた、その時だった。
「ザーック!」
霧を突き破って、よく通る声が野営地に響いた。見張りの兵の制止の声はたちまち遠ざかり、代わりに軽い足音が焚き火へと駆け寄ってきた。
「夜に、勝手に来ちゃった。だって、ちゃんと話そうって言ったでしょ?」
リュシカだった。狼の耳を立てて赤茶色の尾を大きく振りながら、焚き火の前に腰を下ろしたザックの隣に当たり前のように座り込む。
垂れ幕を掴んだままのディアナの指が、止まった。
「……お前な。ここは軍の野営地だぞ」
「見張りの人には、ザックの知り合いだって言ったよ。ほんとのことだもん」
ディアナは、天幕の中へ入るべきだった。入って、幕を下ろして、何も聞かなければよかった。だが、足が動かなかった。
垂れ幕の陰に身を寄せたまま、ディアナは二人の会話に耳をそばだてた。
「ねえ、ザック。覚えてる? ノルディアのギルドで、ボクのギルド証を作ってくれた日のこと」
「……ああ。お前、字が書けなくて、受付の姉ちゃんを困らせてたな」
「ひどい! でも、そうだった。ザックが代わりに書いてくれたんだよね。『リュシカ、狼人族、十七歳』って」
リュシカが、首に掛けた革紐を指に引っ掛けた。胸衣の内から引き出された小さなプレートが、焚き火の光を受けてスチールの鈍い輝きを放つ。
『リュシカ E級 弓士クラス セリカ神国ノルディア支部』――刻まれた文字が、炎に揺れた。
「見て。まだ持ってるんだよ」
「……スチールか。E級になったのは、確か……」
「レウルキアの山道で、ゴブリンの群れを倒した後だよ。ザックが『お前も一人前だ』って言ってくれて、次の街で昇格したんだ。ボク、嬉しくて一晩中眠れなかったんだから……。『ネーベルハイム』に着くまでの三ヶ月は、毎日が宝物だったな」
ザックの喉の奥で、低い笑いが鳴った。ディアナの知らない、ザックの笑い方だった。
(……三ヶ月も)
ディアナの指が、無意識に自分の襟元へ伸びていた。
騎士団長服の下には、首に掛けたA級冒険者のギルド証が隠されている。ミスリルのプレートに『ディア』の名を彫った、ザックとの盟友の証。
十五歳の春、両親に内緒で冒険者ギルドの扉をくぐり、初めてザックとパーティを組んだ日。あの日から、自分が彼にとって「最初の相棒」なのだと信じてきた。
だが、違ったのだ。
この娘は、ディアナより一年も早く、ザックの隣にいた。同じギルド証を持ち、同じ言葉で認められて。ディアナが一番だと信じてきたものは、すべて二番目だったのだ。
襟の上からプレートを押さえる指先が、ひどく冷たかった。
「ねえ、ザック。ボクの方が先だよね」
リュシカの声が、ふっと真剣な響きを帯びた。
「あの騎士団長さんより、ボクの方が先にザックとパーティを組んだんだよね」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。ザックはすぐには答えなかった。
「……順番の話じゃねえだろ」
「順番の話だよ。ボクにとっては」
金茶色の瞳が、すぐ隣から真っ直ぐにザックを見上げていた。
「七年間、ずっと待ってた。ザックがいつか、この里に来てくれるんじゃないかって。狩りに出るたびに、街道の先を眺めてた」
リュシカはザックの方へ身を乗り出すと、その膝に手を置いて顔を寄せた。
「……だからね、ザック。今度は、ボクがザックの隣にいる番。大人になったボクを見て――」
(あの娘、やっぱりザックのことを……!)
ディアナの胸の中で、激しい嫉妬の焔が一気に燃え上がった。思わず前に出た足が、小枝を踏み折った。乾いた音が、深い霧の中に思いのほか大きく響いた。
「……誰だ!」
ザックが振り返った。
ディアナは垂れ幕の陰から歩み出ると、【氷姫】の仮面を深く被って二人の前に立った。
「明朝の出立について、ザックに伝えることがあったのよ。……邪魔をしたのなら謝るわ」
「ディアナ……」
ザックが何か言いかけたが、その前にリュシカが立ち上がった。
狼人族の娘は、ディアナより少し背が高い。焚き火の明かりに浮かぶ起伏に富んだ肢体は、細身のディアナとは対照的だった。
その豊かな胸を誇示するように、リュシカが両手を腰に据えて見つめてきた。
「騎士団長さん。ボク、はっきりさせておきたいんだ」
「……何を」
「ボクはザックが好き。七年前から、ずっと。だから、ザックを取り戻しに来たの」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。六年かけても口にできなかったことを、この娘は一息で言ってのけた。
揺らめく火影が、ザックの精悍な貌に濃い陰を刻んでいる。そこに浮かぶものを知るのが怖くて、ディアナは目を向けることができなかった。
――取り戻す。
それは、冷たい棘のように胸へ突き刺さった。取り戻すということは、この娘にとってザックは、もともと自分のものだったということだ。そして、ディアナには、それを否定する術がなかった。
二人の間にあるのは、「お前の背中は、俺が守る」という一言だけだ。それが、どれほど脆いものなのか。この娘の告白を突きつけられて、ディアナは初めて思い知らされていた。
「……ザックは、アードラー騎士団の筆頭騎士です」
ディアナの声は、自分でも驚くほど冷ややかだった。
「取り戻すも何も、彼は貴女の持ち物ではありません。今も、七年前も……」
「じゃあ、騎士団長さんの持ち物なの?」
「――」
黙り込んだディアナを見て、リュシカの瞳が一瞬だけ揺れた。答えられないこと、それ自体が答えなのだと、狼の娘は悟ったのだろう。だが、その翳りはすぐに笑みの奥へ消えた。
「……ふうん。そっか」
「リュシカ」
ザックが、ようやく腰を上げた。巨躯が焚き火の光を遮り、二人の間に長い影を落とす。
「もう遅い。帰って寝ろ。明日は、お前が俺たちを案内するんだろう?」
「……分かった」
リュシカは素直に頷くと、ザックの腕にぽんと手を置いた。
「明日から、また一緒だね。七年前みたいに」
そして、すれ違いざまにディアナを見下ろした。『負けないから』と言葉にはしなかったが、金茶色の瞳がはっきりとそう告げていた。リュシカは、そのまま霧の中へ駆け去っていった――
焚き火だけが、変わらぬ音を立てて燃えていた。
「……ディアナ。あいつの言ったことは――」
「何も言わないで」
ディアナは、ザックの言葉を遮った。今、何を言われても、冷静に聞ける自信がなかった。
「出立は朝の五つ鐘。重騎兵隊の支度を、整えておいて」
「……ああ」
ザックは短く答え、それ以上は口を開かずに自分の天幕へと戻っていった。
一人になった途端、ディアナの膝から力が抜けた。焚き火のそばの丸太に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
「……ずいぶんと、冷たいお顔でしたねぇ」
背後から、シンディの声がした。いつからそこにいたのか、副官は霧の中に溶けるように立っていた。
「見ていたの……?」
「見えてしまっただけです。『霧の館』でも、あの子がザックの腕にぶら下がった時、ディアナ様の眉が跳ね上がりましたし……。ご自慢の【氷姫】の仮面も、今日はひびだらけですね」
シンディは愉しげにそう告げると、丸太の反対側に座って焚き火に手をかざした。
「あの子の瞳、見ましたか。あんな野蛮人を、七年も想い続けてるなんて……。でも、ディアナ様は六年間ずっとあいつの隣にいた。待つのと並んで歩くのとでは、重さが違います」
「……慰めているの?」
「一応は……」
シンディは火を見つめたまま小さく笑うと、膝の埃を払って立ち上がった。
「ディアナ様。差し出がましいことを、一つだけ申し上げても?」
「……何かしら」
「想いというのは、伝えられるうちに伝えておくものですよ。手を伸ばせば届くと思っていた相手が、ある日ふっと届かない場所へ行ってしまうこともありますから」
ディアナは、ハッとして顔を上げた。シンディの横顔を、遠いものを見るような色が一瞬だけよぎった。国境の砦で再会し、そして再び見送った男のことを思い出しているのだと気づく。
「……おやすみなさい、ディアナ様」
黒髪を揺らして一礼すると、シンディは霧の中へ静かに溶けていった。
シンディが去った後も、ディアナはしばらく動けなかった。
ふと見上げると、霧の切れ間から青白い月が覗いていた。濡れたような月の光が、野営地の天幕を淡く照らしている。
(……取り戻す、か)
ディアナは、襟元から革紐を引き出した。月明かりを受けて、ミスリルのプレートが静かに輝く。
あの娘がザックと過ごしたのは、たった三ヶ月だ。それに対して、自分は六年間も毎日のように彼の隣にいた。それなのに、先に「好き」と言葉にしたのは、あの娘の方だった。
ディアナはその想いを、いまだに伝えることができないでいる。
(私は、何を恐れているの……)
伯爵令嬢と平民の騎士――その身分の差を、ずっと言い訳にしてきた。
だが今夜、その言い訳はあっけなく崩れ去った。それはただ、踏み出せない自分をごまかすための方便にすぎなかった――
月が再び霧に隠れた。ディアナはプレートを襟の内へ戻し、ゆっくりと立ち上がった。
(今は、駄目……。まだ、その時じゃない――)
これから、アードラーは最大の危機を迎える。それを乗り越えて、皆を生きて故郷に帰すまでは……。
蒼灰色の瞳に哀しい決意を映すと、ディアナは【氷姫】の仮面を被り直した。
夜明けとともに、丸太を組んだ外壁の門扉が左右に開いた。
獣人の男たちが、倉庫から木箱や麻袋を次々と運び出してくる。ジギスムント伯爵領からあらかじめ届いていた、大森林での行軍に備えた物資が、輜重車の荷台に積み上げられていった。
「約束どおりだ。数は、そちらで確かめられよ」
旅装姿のアルスランが、木箱の山の脇に立って言った。黒い長衣の左腰には、愛用の<曲刀>が佩かれている。
「確かめました。感謝します」
ディアナが一礼すると、アルスランは無言で顔を背けた。その先で、<フレイム・ハルバード>を担いだザックが、獅子族の参謀を見据えている。
「……二人とも、朝から喧嘩しないでよ」
リュシカが、呆れたように割って入った。その背には短弓と矢筒、両腕には革の籠手――昨夜とは打って変わった、狩人の装いだった。
「リュシカ殿。『霧の道』を抜けた先の大森林は、どのように進むおつもりで?」
バルハルトが、丸眼鏡を押し上げながら歩み寄った。
「風と霧を読むの。森の風は、水の匂いと魔獣の匂いを運んでくる。それを辿れば、迷わないよ」
「……地図には描けぬ道、ですか。軍師泣かせですねぇ」
参謀長は『龍刻の長煙管』の先で額を軽く叩き、アルスランへ向き直った。
「では、『霧の道』の中は?」
「入れば、貴殿の目にも分かろう」
アルスランは、それだけ言って口を閉ざした。バルハルトは苦笑を浮かべ、煙管を指先でくるりと回した。
朝の五つ鐘――
一千の兵と輜重車の列が、野営地の跡に整然と並んだ。夜の霧は薄れ、朝の光が兵たちの鎧を照らしている。
「アードラーの騎士たちよ!」
愛馬アンヴァルの背から、ディアナのよく通る声が響いた。
「我々はこれより、【霧の主】が開いてくださる『霧の道』を通って大森林に入る。道中、何が見えても、隊列を乱すな。前の者の背中だけを見て進め!」
初めて聞かされた進軍路に、兵たちの顔がわずかに強張る。だが、誰一人として隊列を乱す者はなかった。
その時、九本の尾を揺らしながら、ヴァルトリーデが門から出てきた。外壁の上には、里の獣人たちが鈴なりに並んでいる。
その姿を認めると、ディアナは馬上から身を翻して地面に下り立った。ヴァルトリーデは、白馬の傍らに立つディアナの前で足を止めた。
「よう眠れたかのう、【氷姫】殿――」
「……おかげさまで」
「嘘をつくのが下手じゃな。目の下に隈ができておるぞ」
紅い唇の端が、悪戯っぽく吊り上がった。
「一つだけ忠告しておこう。道は、通る者の心を映す。迷いを抱えて入れば、迷いの分だけ道は長くなる。……霧の中では己の目よりも、そなたを守る者を信じるがよい」
蒼灰色の瞳に真剣な光を宿すと、月の雫のような銀髪に霧の名残を滲ませて、ディアナが深く頭を下げた。
「……肝に銘じます」
「リュシカ。この者たちの目となれ。その男のためではなく、里のためにのう」
「……はい」
ディアナの後ろに立つザックの雄姿をチラッと見上げ、リュシカはバツが悪そうに耳を伏せた。彼女の隣に立つアルスランが、黙って右手を胸に当てて一礼した。
ヴァルトリーデが隊列の正面へ歩み出て、九本の尾を扇のように広げた。
白い尾先から、霧が零れ落ちる。地を這って広がった霧が螺旋を描いて天へと立ち昇り、瞬く間に巨大な壁を築き上げた。
馬たちが怯えていななき、ディアナは手綱を引き締めて震える愛馬を制した。
壁が音もなく割れる――
その奥には、何も見えない。光も闇もない。ただ濃密な霧だけが、一寸先さえも真っ白に塗り潰していた。
「……あれが、『霧の道』か」
デュークが、呻くように言った。
「『深謀深慮の先読み』も、霧の向こうまでは見通せませんねぇ……」
バルハルトは目を細め、口元に薄い笑みを浮かべた。
「この中は、ボクの【風読み】がなきゃ、一歩も進めないよ。みんな、ボクの尾を見失わないでね」
栗毛の馬に跨って霧の口の前へ進み出たリュシカが、隊列を振り返った。金茶色の瞳がザックを捉え、それから隣のディアナで止まる。
「……ザックのために、絶対に迷わせないから」
最後の一言は、はっきりとディアナに向けられていた。
(ザックのために、ですって……? そんな言葉よりも、私は――)
胸の奥で、冷たいものと熱いものが同時に渦を巻く。ディアナは唇を引き結び、燃え上がる激情を断ち切った。その続きを告げる資格は、今の自分にはまだない。
アンヴァルの背に跳び乗ると、ディアナは右手を高く上げ、前方へと振り下ろした。
「アードラー、前進!」
赤茶色の尾が霧の中へ消え、軽騎兵隊がその後に続いた。ディアナは左右にバルハルトとシンディを従え、ためらわずに『霧の道』の中へと愛馬を進める。
目付のアルスランは、そのすぐ後ろで黙々と手綱を取っていた。
軽騎兵隊に次いで、ザックを先頭にした重騎兵隊三百騎が、地を揺らすような蹄の音を響かせる。さらに、デュークの率いる第二部隊、弓兵隊、輜重隊の長い列が、次々と霧の奥へ呑み込まれていった。
『霧の道』に入ってすぐ、ディアナは一度だけ振り返った。
背後のアルスランさえ、白く霞んでいる。その遥か後方にいるはずの「漆黒の金属鎧」は、もう影すら見えなかった。『ネーベルハイム』の外壁も、見送る獣人たちの姿も、朝の光さえも、すでに霧に溶けて消えていた。
前方に視線を戻す。先を行く軽騎兵たちも、霧の中に沈んでいる。その先のどこかで、リュシカの赤茶色の尾が、この白一色の道を切り拓いているはずだった。
「26.月下の恋敵、霧の回廊」をお届けします!
いよいよ、オーディンヴァルト大森林が間近になってきました!
アードラーを迎え撃つのは、女王アスタロト率いる魔人国軍――
決戦の時が刻一刻と近づいてきます!
どうぞ、楽しみにお待ちください!




