25.霧の館、氷姫の矜持
【登場人物紹介】
バザード
・56歳。
・171cm、73kg。
・短く刈り込まれた硬質な白髪交じりの髪と、灰褐色の瞳。
・『ガザリア国境城塞』守備隊長。庶民出身の叩き上げの武人。
・天恵は【不屈城壁】。
・マーティンとは学生時代の同期で親友。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
「忘れたの? 七年前、セリカの街道で――人買いから、ボクを助けてくれたでしょ!」
金茶色の瞳でザックの顔を見つめながら、彼女はプウッと頬を膨らませた。彼の首にぶら下がったまま、その顔が口づけをするかのように迫ってくる。
ザックの蒼い瞳に、ゆっくりと光が灯った。
記憶の底から浮かび上がってきたのは、泥と血にまみれた痩せた少女だった。鎖に繋がれ、鞭の跡の残る背を丸めて震えていた、狼の耳の――
「……お前、あの時のチビか」
「チビじゃないもん! もう二十四だよ!」
娘が唇を尖らせて、尾をばたつかせる。その面差しが、七年前の泣き腫らした顔と重なった。
「ザック。あんた、獣人族に知り合いがいたの?」
シンディが呆れたように言った。
「……知り合いというか、拾ったというか」
首に絡んだ腕を外そうともせずに、ザックが苦笑いを浮かべる。
「こいつは、リュシカ……。七年前にセリカで売り飛ばされかけてたのを、ここまで送り届けた」
「やっぱり、ボクのことずっと覚えててくれたんだね」
「いや、さっきまで忘れてた」
「ひどい!」
(セリカからここまで一緒に来た――二人きりで……?)
そのやり取りを、ディアナは一歩離れた場所から見ていた。
七年前――それは、ディアナがザックと出逢うより一年も前のことだ。
自分が知らないザックが、そこにいる。見たこともない女性と、長旅をしていたザックが……。
胸の奥で、冷たいものが音もなく広がっていく。
リュシカがザックの腕に身を寄せ、編み上げの黒革の胸衣に包まれた豊かな胸を押しつけた。そのまま、金茶色の瞳が、ちらりとディアナに向けられる。
値踏みするような、挑むような視線だった。
(……何なの、この娘)
ディアナは自分の胸元に目を落としかけて、慌てて顔を上げた。胸の大きさでは、明らかに負けていた――
「いい加減にしろ、リュシカ」
アルスランが、ようやく二人の間に割って入った。狼人族の娘の襟首をつかんで、子猫のようにザックから引き剥がす。
「主様が、今宵お会いになる。日が落ちきる前に、野営の支度を済ませてもらいたい」
獅子の金眼が、ディアナを捉えた。
「目通りは、騎士団長と幹部数名のみ。それ以外の者は、外壁の外で待機していただく」
「承知しました。準備が整い次第、【霧の主】のもとへ伺います」
心のざわめきを【氷姫】の仮面の下に押し込めて、ディアナは揺らぎのない声で答えた。
アルスランは浅く頷くと、襟首をつかんだままのリュシカを引きずるように門の内側へと戻っていった。
「ザーック! あとでねー!」
門が閉まる間際まで、金茶色の瞳はザックだけを見ていた。
(二十四だと言っていた。七年前は、十七歳……。長い時間、ずっと一緒に過ごしてた――)
抑えきれない嫉妬が、メラメラと焔となって【氷姫】の氷を灼き溶かす。ディアナは平静を装いながらも、蒼灰色の双眸で閉ざされた門を見据え続けた。
西の空から茜色が消え、夜の帳がゆっくりと下りてくる。次第に濃くなる霧が、森の街を幻のように包み込んでいく――
外壁の外では、アードラー騎士団の兵たちが次々と天幕を張り始めた。
野営の支度は、夜の四つ鐘までに終わった。
整然と並んだ陣の中央で、ディアナは謁見に同行する者を告げた。
「デューク、バルハルト、シンディ。一緒に来て。――ザック、あなたは野営地に残りなさい」
「……残れ、だと」
ザックの太い眉が、不満そうに吊り上がった。
「門前で、あなたとアルスランは睨み合ったでしょう。私たちはこれから、【霧の主】に道を開いてもらえるよう頼みに行くのよ。その相手を刺激したくないわ」
理屈は通っている。だが、本心が別にあることは、ディアナ自身が一番分かっていた。
人族と比べて相手との距離が近いのが獣人族の気質なのか。それとも、あの娘が特別なのか――
薄い黒革の胸衣に包んだ胸を、これ見よがしにザックに押しつけてくる。その様子をヴァルトリーデの御前で見せつけられたくなかった。
(……私は、何を考えているの。これからアードラーの命運を背負って、頭を下げに行くというのに)
ディアナは、自分の中で膨れ上がる女の感情を押し殺して踵を返した。
外壁の門が、重い音を立てて開いていく。
アルスランに導かれて一歩を踏み出した時、背後で聞き慣れた鎧の音が鳴った。
振り返ると、<フレイム・ハルバード>を肩に担いだ巨躯が、当然のような顔でついてきている。
「ザック。私は、残れと――」
「重騎兵隊は副官に預けてきた。文句はねえだろ」
「文句は、あるわ」
「お前の背中は、俺が守る。昔から、そうだったろ」
国境へ向かう夜道で聞いた、あの言葉だった。
ディアナは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。頬に昇りかけた熱を、夜の冷気のせいにする。
「……好きにしなさい」
背後で、シンディが小さく喉を鳴らした。
外壁の内側は、森の匂いがした。
丸太と石を組んだ家々が、曲がりくねった道の両側に並んでいる。軒先に吊るされた魔石灯が、足元を淡く照らしていた。
戸口や窓の影から、獣人たちが一行を見ている。耳を伏せた狐人族の老婆。子どもを背後に隠す虎族の母親。誰一人、口を開く者はいなかった。
人族の軍を、この街は歓迎していない。それが、向けられる視線の冷たさだけで伝わってくる。
「ザック、こっちこっち。転ばないでね」
そんな空気の中で、ただ一人だけ明るい声を上げているのがリュシカだった。いつの間にか戻ってきて、ザックの左腕にしっかりと絡みついている。
ディアナは、前だけを見据えて歩いた。隣で何が起きていようと、決して振り向くまいと心に決めて――
道の先に、他とは違う一際大きな建物が現れた。
黒い木材を組み上げた高い屋根。軒には紅い布が垂れ、入口の両脇には石の狛狐が座している。周囲には、何故かそこだけ白い霧がうっすらと漂っていた。
「『霧の館』。主様のお住まいだ」
アルスランが、短く告げた。そして、ザックに寄り添う娘を振り返る。
「お前はここで待て」
「ええっ! どうして!」
「客人の前で、二度も恥を晒すな」
リュシカが口を尖らせたが、アルスランの金眼に睨まれて、しぶしぶ腕を離した。
「ザック、終わったら、ちゃんと話そうね」
その言葉が、ディアナの背中に刺さった。
館の奥にある広間は、紅と黒で彩られていた。
床には厚手の織物が幾重にも重ねられ、壁には紅い布が掛かっている。中央の香炉から、白檀に麝香を溶かし込んだような、甘く重い香りが立ち上っていた。
正面の一段高い座に、一人の女の姿があった。
「よう参られた、セリカの氷姫よ」
腰まで届く純白の髪――
内側が淡い桃色の大きく尖った白い耳――
そして、座の後ろに扇のように広がる九本の尾――
白磁のような肌に、淡い青の瞳。目元と唇に差した紅が、その美貌の中で花のように咲いていた。額には、狐を模した紅い紋様が刻まれている。
三百年を生きた女――この地の獣人たちを束ねる、九尾の狐がそこにいた。
「アードラー騎士団長、ディアナ=ヴァーテルと申します。お目通りを賜り、感謝いたします」
ディアナは、織物の上に片膝をついて正式な騎士の礼を執った。デュークら四人も、背後でそれに倣う。
「妾がヴァルトリーデじゃ。この里の者は、【霧の主】などと呼んでおるがのう。かしこまらずともよい。皇都からの通達があるゆえ、客人を迎えておるだけのこと」
穏やかな声だった。だが、その言葉の裏には、はっきりと冷たいものが流れている。
「その前に――」
ディアナは懐から封書を取り出し、後ろに控えるシンディに手渡した。
「ジギスムント伯爵の侍女、イルザから預かってまいりました」
シンディが封書を両手に捧げ持って進み出ると、高座の下で足を止めた。アルスランがそれを受け取り、恭しく主へ差し出す。
ヴァルトリーデの淡い青の瞳が、封蝋の狐の紋を捉えた。
ほんの一瞬、何かが揺れた。
白い指が、無言のまま封を切った。
羊皮紙を広げ、静かに目を走らせる。
香炉の細い煙が、音もなくたなびいている――
やがて、紅い唇の端がわずかにほころんだ。
「……十五年じゃ。十五年、一度も便りを出さなんだあの子が……」
ヴァルトリーデは文を畳んで胸元にしまい、ディアナを見た。
「そなたが運んできたのは、この書簡だけではないのじゃろう。申してみよ」
「『霧の道』を、お借りしたいのです」
ディアナは、顔を上げて言った。
「我々が大森林へ入るには、【霧の主】にしか開けぬ道を通らねばなりません。どうか、お力添えを賜りますよう」
「ならぬ」
声は、ヴァルトリーデの座の横から飛んできた。
アルスランが、一歩前に出た。
「『霧の道』は二百年の間、我らが守り抜いてきた里の要衝だ。人族の軍に明かせば、その日から道は道でなくなる。皇国の中央は我らに兵は出さぬのに、客の受け入れだけを命じてくる。その上で、里の命綱まで差し出せと言うか!」
獅子の金眼に、押し殺した炎が揺れていた。
「皇国の通達を、盾にするつもりはありません」
蒼灰色の瞳は、真っ直ぐにヴァルトリーデに向けられた。決めるのは、あくまで【霧の主】なのだ。
「私はアードラーの騎士団長として、貴女様に頭を下げてお願いしているのです」
そして、再び深く頭を垂れた。
「……騎士団長の頭一つに、それほどの値打ちがあるとでも思うか」
アルスランの声が、低くなった。
「それに、そなたらには進軍の手筈があったはずじゃ」
ヴァルトリーデが、ゆるりと首を傾けた。
「ジギスムントの女伯爵が、物資とともに届けさせた書付にあったのう。大森林を抜ける道筋がな。何故、それを使わぬ」
ディアナは、一度だけ息を吸った。
伏せておくこともできた。だが、この女の前で偽りは通じない。
「我が騎士団の監軍総官が裏切り、進軍の計画をレウルキア王国に売り渡しました」
九本の尾の動きが、ぴたりと止まった。ディアナは、さらに言葉を重ねた。
「レウルキアは、自らの兵を損なわずに我々を葬ることを望んでいます。計画は今頃、魔人国の女王アスタロトの手に渡っているでしょう。書付の道をそのまま通れば、大森林でその軍勢に待ち伏せを受けます」
「――それを、自ら明かすか」
ヴァルトリーデの瞳が、細くなった。
「我らが『霧の道』を貸せば、アスタロトの牙が里にも向くと分かっておるのか」
「分かっております。だからこそ、隠さずに申し上げました」
「ふざけるな」
アルスランの声が、広間に響いた。
「狙われている軍を、里の道に通せと言うのか。貴殿らの敵を、この里の懐へ引き込めと言うのか!」
ディアナは、立ち上がった。
蒼灰色の瞳が、射抜くようにヴァルトリーデを捉える。
「ご迷惑であれば、断ってくださって構いません」
静かな、よく通る声だった。
「その時は、アスタロトが待つ道を通ってでも、私たちは大森林へ踏み込みます。アードラー騎士団は、定められた日に決戦場へ臨む――それが、我々に下された軍令です」
「……客人の分際で」
一拍の沈黙の後、アルスランが床を蹴って踏み出した。
「里を危うくしておきながら、我らを脅すつもりか!」
獅子の逞しい体躯が、ディアナの眼前に迫る。左腰に佩く曲刀の柄に、手が掛かっていた。
二人の間に、音もなく黒い壁が立ちはだかった。
凄烈な蒼い双眸が、アルスランを睥睨する。<フレイム・ハルバード>の石突を足元に突き立て、ザックが重厚な声で吼えた。
「それ以上近づくなら、斬るッ!」
互いの眼光が、間近で火花を散らす。
デュークが剣の柄に手を掛け、シンディの指が腰の双刀へ滑った。同時に、広間の隅に控えていた獣人の衛士たちが槍を構える。
場の空気が、緊張にビリビリと震えた。
その時――
ヴァルトリーデが、白い手をゆるやかに挙げた。言葉は一つもない。だが、それだけで十分だった。
踏み出しかけていたアルスランの足が縫い付けられたように止まる。曲刀の柄に掛かっていた指が主の意を汲んでゆっくりと離れていく。
息詰まる静寂の中で、九本の尾が一度だけゆるりと揺れた。淡い青の瞳は眼前のザックではなく、その背後で微動だにせず立つディアナをじっと見つめていた。
紅い唇から、鈴を転がすような笑い声がこぼれた。広間を覆っていた殺気が、その声に溶かされるように薄れていく。
「よい、よい。……ほんに、面白い娘じゃ」
細い指先で目尻を拭い、九尾の狐はディアナを見下ろした。
「通達を盾にもせず、己の弱みを自ら明かし、断られれば敵の待つ道を行くと言う。ただの愚か者か、さもなくば――よほど腹の据わった将か。妾の前で、一度も偽りを口にせなんだ人族は久しぶりじゃ。のう、アルスラン」
名を呼ばれた参謀は、苦い顔で口を閉ざしたままだった。
「それにのう、あの子の文もある。十五年ぶりに寄越した便りに、そなたらの力になってほしいと書いてきおった。曾孫の頼みを無下にしては、曾祖母の名が泣こう」
ヴァルトリーデは、胸元に収めた文を慈しむようにそっと押さえた。イルザを思う柔らかな色が、一瞬だけその面差しをかすめる。
だが、再び顔を上げた時、その双眸には刃を思わせる冷ややかな光が宿っていた。魔人国の女王が台頭していく様を、この里の主は誰よりも間近で見てきたのだ。
「アスタロトの牙のことなら、案ずるには及ばぬ。あの女の牙は、遅かれ早かれこの里にも向く。ならば、先に噛みついてくれる者に道を貸すのも悪うはない。――明朝、妾が『霧の道』を開こう」
ディアナの肩から、わずかに力が抜けた。
「感謝いたします、【霧の主】」
深く一礼したディアナに、ヴァルトリーデは扇を払うように片手を振った。
「礼を言うのは早いぞ。『霧の道』は、妾が霧の中に紡ぐ道じゃ。人族の足では、迷わず歩けぬ。導き手が要る。――リュシカ。そこにおるのじゃろう」
「はーいっ!」
扉が勢いよく開き、リュシカが弾むように飛び込んできた。館の前で待てと言われたはずが、いつの間にか扉の陰まで忍び寄っていたらしい。
「お前……聞き耳を立てていたな」
アルスランが額を押さえて唸った。だが、リュシカは平然とした表情で答える。
「だって、ザックが心配だったんだもん」
「リュシカ。この者たちを、『霧の道』の先まで導いてやれ。【風読み】のそなたなら、霧の中でも迷うまい」
「ほんと!? ザックと一緒に行けるの!?」
金茶色の瞳が輝き、赤茶色の尾が千切れんばかりに振られた。リュシカは一目散にザックへ駆け寄ると、ためらいもなくその腕にしがみつく。
「おい、離れろ」
「やだ」
ディアナの眉が、ほんのわずかに動いた。それに気づいたのは、隣のシンディだけだった。
「アルスラン。そなたも行け」
主の言葉に、獅子族の参謀は渋面をつくった。
「……主様。私に、人族の子守りをせよと仰せですか」
「子守りではない。目付じゃ。この者たちが『霧の道』をどう使うか、その金眼で見届けよ。……リュシカのお守りも兼ねてのう」
「えー、おじさんも来るの?」
「おじさんではない」
アルスランは長い溜息をつくと、主に向かって胸に手を当てた。
「……仰せのままに」
顔を上げたアルスランは、リュシカにまとわりつかれたザックを、射殺さんばかりに睨みつけた。
「ディアナ=ヴァーテル。妾が貸すのは、道だけじゃ。その先で生きるも死ぬも、そなたの器量次第と心得よ」
「肝に銘じます」
淡い青の瞳を、ディアナは真っ直ぐに見返した。
館の外では、夜の霧が音もなく里を包み込もうとしていた。
「25.霧の館、氷姫の矜持」をお届けします!
九尾の狐って、なんかロマンがありますよね?
何やら、すごい天恵を持っているみたいです!
次話を楽しみにお待ちください!




