24.狼の抱擁、骸龍の囁き
【登場人物紹介】
マーティン=ラザフォード
・56歳。
・170cm、67kg。
・ラザフォード辺境伯。
・神皇アルカディオスの信頼も厚い大貴族。国境である西部海岸線を所領としている。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
朝の四つ鐘を待たずに、領館の厩舎は出立の支度でざわめいていた。通路の両側には、一頭ずつ横木で仕切られた馬房が並んでいる。
騎士団長の黒金の制服に漆黒の外套を纏ったディアナが、馬丁たちの間を縫って奥へ進んでいく。その左腕には、昨夜ザックから借りた黒い上着が、きれいに畳んで抱えられていた。
(返して、礼を言うだけ。それだけよ)
寝台の中で何度も繰り返した言葉を、もう一度胸の中で唱える。だが、その上着には昨夜の温もりが残っている気がして、どうにも腕に力が入らなかった。
アンヴァルは、主の足音を聞き分けて鼻を鳴らした。
「おはよう。今日から、また長い道になるわ」
ディアナは上着を馬房の横木に掛け、刷子を手に取った。馬の世話を他人に任せたことは、よほど手が離せない時を除いて一度もない。白い首筋を撫でるうちに、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。
「……早いな」
隣の馬房から、低い声がした。
思わず、刷子が手から滑り落ちそうになる。
ザックが、愛馬ヴァルカンに鞍を置いていた。鎧と同じ漆黒の馬体の向こうで、大きな肩がぬっと動く。
「あ、あなたこそ」
ディアナは慌てて刷子を握り直し、アンヴァルの鬣を梳き始めた。心臓が、馬の蹄のように跳ねている。無意識に、手が同じ場所ばかりを往復していた。
「眠れたか」
「……ええ。よく眠れたわ」
嘘だった。目を閉じれば、池のほとりの月と、肩に掛かった重みばかりがよみがえって、夜明けまで寝返りを打ち続けたのだ。
一通りの手入れを終えると、ディアナは上着を取った。
横木の上から差し出そうとして、ザックの顔を見られないことに気づいた。視線は、彼の胸元で揺れる銀のチェーンに落ちたまま、上がらない。
「これ。……ありがとう」
「ああ」
大きな手が上着を受け取った。その指が、ほんの一瞬だけディアナの指先に触れた。
「――ッ」
たったそれだけで、耳の先まで熱が駆け上がった。ディアナは弾かれたように手を引くと、意味もなくアンヴァルの面繋を直し始めた。
(どうして……。昔は、こんなことなかったのに)
冒険者だった頃は、同じ毛布で寒さをしのいだ夜さえあった。何でもなかったはずのことが、今はひとつ残らず、胸の奥をざわつかせる。
「お二人とも、お早いことで」
背後から、わざとらしく明るい声が掛かった。
シンディが、腕に馬具を抱えて立っていた。首には細い包帯が一巻き残っているだけで、顔色はすっかり戻っている。
「ディアナ様。今朝はそんなに冷えますか? 耳が真っ赤ですが……」
「あ、赤くなどないわ」
「厩舎は風が通りますからね。――それにしても、昨夜はよくお眠りになれたようで」
切れ長の双眸が、楽しげに細められた。見られていたことに気づく。
池のほとりか、館へ戻る廊下か――
「こ、この男に貸しを作られたのが、悔しいのよ」
「なるほど。悔しくて、眠れなかったのですね」
「……そうよ。それだけよ」
ディアナは、アンヴァルの轡を取って足早に馬房を出た。治まらない頬の熱を、朝の冷気のせいにしてみる。背中で、ザックが喉の奥で笑うのが聞こえた。
「笑わないで!」
振り向かずに言うと、笑い声はぴたりと止んだ。
その代わりに、シンディが肩を震わせる気配が、はっきりと伝わってきた。
『交易都市フェルゼン』の南城門の前には、アードラー騎士団が整然と隊列を作っていた。
一千の鉄兜、十台の輜重車。『双頭鷲』の軍旗が、朝の風をはらんで翻る。出立の刻限と定めた朝の五つ鐘は、もう間もなくだった。
門の内側には、紋章入りの馬車が一台止まっていた。その前に、銀の刺繍を施した濃紺の軍服姿のベアトリクスが、キリアンとイルザを従えて立っている。
そして、三人から一歩下がった場所には、でっぷりとした身体を持て余すように、ハルトマンが控えていた。
ディアナは愛馬アンヴァルから下り立ち、ベアトリクスの前へ進み出た。
「ジギスムント伯爵。兵站のこと、それに昨日のご裁定……。何とお礼を申し上げればいいのか」
「礼は要らないわ。貸しよ」
ベアトリクスの氷緑色の双眸が、すっと細められた。
「大森林の勝利で返してもらうわ。等価交換、でしょう」
「はい、必ず……」
ベアトリクスは半歩だけ近づき、声を落とした。
「それから、ヴァーテル騎士団長。我が館にも、鼠はいるの。お気をつけなさい」
ディアナの視線が、一瞬だけハルトマンへ流れた。秘書官長は何も聞こえなかったような顔で、濃灰色の眼を石畳へ落としている。
「鼠退治でご協力できることがあれば、いつでも申しつけてください」
ディアナは、ふっと笑って手を差し出した。
ベアトリクスの口元が、ほんのわずかに綻んだ。白い手袋を外した細い指が、ディアナの手をしっかりと握り返す。
「頼もしいこと。――行ってらっしゃい」
二人の手が離れると、イルザが前へ出て、深く腰を折った。
「ヴァーテル騎士団長様。曾祖母を……よろしくお願いいたします」
「ええ。お預かりした書簡と一緒に、確かに」
ディアナは懐の封書を確かめるように、胸に触れて頷いた。
馬上に戻ると、冷たい風が銀髪を吹き流した。
「アードラー、前進!」
ディアナが右手を高く上げ、前方へと振り下ろした。
軍靴と車輪の音が、南城門の石造りの隧道に響き渡る。
ベアトリクスは、最後の輜重車が門の影へ消えるまで、その場を動かなかった。
隊列の尾が見えなくなると、ハルトマンは無言で一礼し、三人から離れた。
向かう先は、南城門の脇に建つ商人組合の建物である。
昨日、ベアトリクスに押しつけられた「陳情の対応」が、今朝ほどありがたく思えたことはなかった。
組合の奥の一室には、商人の身なりをした痩せた男が待っていた。首元に、聖サマルリーナ教の銀の聖印が覗いている。
「……預ける。今日のうちに、ヴェルグランツのアイゼンハイド司教へ」
懐から取り出した封書には、「法務尚書閣下」とだけ記されている。
男が裏口から姿を消すと、ハルトマンは窓辺に歩み寄った。南城門へと続く石畳には、一千の軍靴が蹴立てた土埃が、まだ朝の光の中に薄く漂っている。
(小娘どもめ……)
脳裏に浮かんだのは、門前で交わされた女二人の握手だった。若くして家督を継いだ女伯爵は、父祖が守ってきた『フェルゼン』の古き掟を次々と踏みにじり、今度は他国の騎士団に領内の備蓄を投げ与えた。その挙句、あのお方が寄越した監軍総官を斬り殺したことさえ咎めずに、彼らを笑って送り出したのだ。
だが、それも今日までのことだ。
法務尚書閣下にとって、監軍総官ヴァイスは血を分けた甥である。その甥が裁きも受けずに斬り捨てられたと知れば、あのお方は決して黙ってはいまい。その怒りの矛先が【氷姫】に向かう時、ベアトリクスの「黙認」も同じ刃の下に晒されることになる。
土埃の向こうへ消えた軍旗を思い浮かべながら、ハルトマンは二重顎を震わせて、喉の奥で低く嗤った。
『交易都市フェルゼン』の南城門を出てから十七日――セリカ神国の皇都リーアンを発ってから、すでに六十七日が経過していた。
街道の両脇に広がっていた麦畑が丘陵となり、やがて深い森へと変わっていった。地平の先には、オーディンヴァルト大森林の稜線が黒い帯のように見え始めている。
西の空が茜色に染まる頃、アードラー騎士団は『獣人自治領ネーベルハイム』の門前に到着した。
街を囲むのは、石垣の上に先を尖らせた丸太の柵を巡らせた外壁である。ところどころに見張り塔が立ち、その向こうには大森林の木々が覆いかぶさるように鬱蒼と迫っていた。
森の入口は白い霧に覆われているが、この辺りはまだ視界を遮るほどではなかった。
「……霧の里、ですか」
丸眼鏡を押し上げながら、バルハルトが低く呟いた。黒灰色の瞳が、森の縁を這う白い靄をじっと追っている。
「妙ですねぇ。風は森へ向かって吹いているというのに、霧はこちらへ流れ出てくる」
指先で回していた『龍刻の長煙管』が、ぴたりと止まった。足元に漂う薄い霧は、風に逆らうようにゆっくりと門前へ広がりつつあった。
(なるほど、あれが【霧の主】の力……。あの奥に、我々の通るべき道が隠されているというわけですか)
参謀長の口元に、【戦場の毒蜘蛛】らしい薄い笑みが浮かんだ。
閉ざされた門の前に、十数人の獣人の兵が槍を立てて並んでいた。
その中央に、ひときわ目を引く男の姿があった。
波打つ暗い褐色の長い髪を後ろで束ね、丸みのある耳を持つ獅子族の男だった。縁に刺繍の入った黒い長衣をまとい、腰には反りのある曲刀を佩いている。
門前を埋め尽くす一千の軍勢を前にしても、男の獅子の金眼はまったく揺れなかった。
「セリカ神国、アードラー騎士団長、ディアナ=ヴァーテルです」
ディアナはアンヴァルの背から下り、男に歩み寄って名乗った。
「『獣人自治領ネーベルハイム』参謀、アルスラン」
男は、浅く顎を引いた。礼には適っていたが、歓迎している様子は微塵も感じられなかった。
「ユピテル皇国からの通達により、貴殿たちを迎え入れる。先んじて、主様の言葉をお伝えする」
低く、ゆっくりとした声だった。
「一つ。一千の兵は外壁の内に入れぬ。野営は外壁の外で願う。二つ。滞在は一日のみ。三つ。約束の物資は、明朝、倉庫から引き渡す。四つ。主様への目通りは、騎士団長と幹部数名に限る」
背後で、デュークが重く息を吐くのが聞こえた。
「承知しました」
ディアナは通達のことも、同盟のことも口にしなかった。
獅子の金眼が、初めてわずかに動いた。何かを言い返されることを、予期していたのかもしれない。
「……ご理解に感謝する」
アルスランの視線が、ディアナの背後へと移る。
肩に<フレイム・ハルバード>を担いだザックが、黙ってそれを受け止めていた。金眼の獅子と黒獅子の眼光が、ほんの一瞬ぶつかって離れた。
その時、門の脇の見張り塔で何かが動いた。
「――ザック!」
夕暮れの空に、明るい声が弾けた。
塔の上から、ひとつの影が外壁の上へ飛び移る。赤茶色の髪と、同じ色の狼の耳。影はその上を軽やかに駆け抜け、門の真上で宙に身を躍らせた。
ふさふさとした尾が、宙返りとともに弧を描く。
ふわりと地面に降り立つや、娘は音も立てずに駆け出してザックの首へ飛びついた。
「ザック! ザックだ! ほんとに、ザックだ!」
黒い金属鎧に、しなやかな身体がぶら下がっている。焦げ茶色の革の上着に、編み上げの黒革の胸衣。白い尾先が、嬉しそうに大きく振れていた。
ザックは、ハルバードを担いだまま固まっていた。
「……誰だ、お前」
「ひどい!」
ディアナは、息を呑んでいた。
驚きは、一瞬だった。すぐにそれよりも烈しいものが、腹の底から突き上げてくる。
見知らぬ娘が、ザックの首に腕を回している。豊かな胸を鎧に押しつけて、頬を寄せている。それを、ザックが振り払わない。
蒼灰色の瞳が、知らず凍りついていた。
(……誰なの)
握った指先が、外套の裾に深く食い込んだ。
「おい、リュシカ……。お前、客人の前で何をしている」
アルスランが額を押さえ、狼人族の娘に向かって苦々しげに唸った。
他国の大軍に、自治領の威厳を示そうとした矢先のことである。その場の張り詰めた空気は、彼女のはしゃぐ声ひとつで跡形もなく崩れ去っていた。
獅子の金眼に浮かんでいたのは、怒りよりも呆れ――手のかかる娘を持った父親のような渋い色だった。
時を遡ること十数日。アードラーが『フェルゼン』の南城門をくぐった、その同じ朝――
レウルキア王国の王都サルバレス。その宮廷の一角に、王国軍参謀本部直属の諜報部<黒蝕龍>の本部はあった。
窓のない石の部屋で、燭台の炎だけが揺れている。
「ヴァイスを見殺しにし、写しの原本を女に返したそうだな」
机の向こうで銀仮面の男――イグナーツ=ラザロが言った。
顔の左半分を覆った銀の半仮面には、龍の鱗がびっしりと彫り込まれている。茶色い右眼と仮面の奥にある紫瞳が、目の前に立つオズワルドを真っ直ぐに射抜いていた。
「写しの複製は、すでに届けております。砦の作戦は、ヴァイスが独断で女の処刑を企てて崩れました。……【血誓】には、背いておりません」
オズワルドは、穏やかな口調を崩さなかった。枯草色の髪に鉛色の瞳――その表情は、すべての感情を消し去っていた。
だが、イグナーツの半仮面の下で、紫の眼がすっと細められた。
「背いておれば、お前はここに立ってはおらぬ……」
その時、石の床で硬い音が一度だけ鳴った。
扉が開く音も、足音もなかった。
燭台の灯りが届かぬ部屋の入口に、いつの間にか一人の老人の姿があった。
髪を一本残らず剃り上げた頭。短く整えた白い山羊髭。瞼の重い、眠たげな灰色の瞳。痩せた手は、龍の頭蓋骨を象った象牙の杖を握っている。
「――閣下」
イグナーツが椅子を蹴るように立ち上がり、片膝をついた。
それに倣い、オズワルドも静かに膝を折った。
ベルトラン=ドラクモント侯爵――レウルキア王国軍務大臣にして、<黒蝕龍>を動かす真の主である。
老侯爵は床に控える統括官には目もくれず、オズワルドの前まで歩いてきた。杖の石突きが一歩ごとに床を小さく叩く。
「罰は要らぬ」
囁くような、嗄れた声だった。
「……傷のついた駒でも、盤の上ではまだ動く。捨てるのは、使い切ってからでよい」
イグナーツが顔を上げた。だが、何も言わなかった。
「オズワルド。お前は、大森林へ行け」
ベルトランは、机の上に置かれていた写しの複製を杖の先で軽く示した。
「それを手土産に、魔人国の女王のもとへ使いをせよ。女王アスタロトは、【氷姫】の軍を待っておる。わしは、その手助けを約束する」
「……承知しました」
「イグナーツ。此奴に、新たに誓わせよ」
ベルトランの言葉に、イグナーツが身を起こして懐から短剣を抜いた。
オズワルドが左掌を差し出す。白刃が走り、紅血が滲む。イグナーツの指が、その血をオズワルドの首筋に押し当てた。
「誓え。<黒蝕龍>の任を、何者のためにも妨げぬことを」
「――誓います」
首筋の血が、黒く固まった。
ベルトランは、オズワルドの横をゆっくりと通り過ぎた。
すれ違う、その刹那。
「あの女は、お前を一度捨てた」
耳元に囁きが落ちた。それだけだった。
オズワルドの鉛色の瞳に、ごく小さな影が差した。
四年前の、あの夜の光景――「共に来い」と言った自分と、首を横に振った娘。
彼は何も言わず、深く一礼して扉の向こうへ消えた。
石の部屋に二人だけが残された。燭台の炎がひとつ揺れる。
「閣下。あの男は使えますか?」
イグナーツの問いに、ベルトランは答えなかった。
重たげな瞼の下から、老人の眼差しが閉じた扉に向けられている。やがて、山羊髭の奥で唇がかすかに動いた。
「あの男は戻らぬだろう。……それでよい」
杖の石突きが、石の床を一度だけ叩いた。
いよいよ『第6章 霧の里の獣たち』の開幕です!
まずは、「24.狼の抱擁、骸龍の囁き」をお届けします。
何やら、色々ときな臭くなってまいりました。
ディアナとザックの関係、<黒蝕龍>の暗躍――
これから、どうなっていくのでしょう? どうぞ、お楽しみに♪




