23.天秤の黙認、狐の書簡
【登場人物紹介】
ヴァイス=アシュラッド
・31歳。
・174cm、60kg。
・アシュラッド伯爵家の三男だが、合法的に兄二人を排除して当主となった。
・アシュレイ公爵の血縁で、姉の息子(甥)。
・天恵は【看破】。眼帯を外すと金色の左眼が現れて発動する。
・アッシュグレーの長い髪と煙灰色の隻眼。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
朝靄を裂いて、三騎が『交易都市フェルゼン』の北の城門を潜った。
石畳の大通りを南へ抜けて丘を上ると、領館の正門にはすでに二つの人影が待っていた。『四本』の金のチェーンを胸に光らせた副団長デュークと、相変わらず騎士服の前を開けたままの参謀長バルハルトである。
「団長。騎士団一千、異状なし。全員、平時の務めを続けながら、いつでも発てるよう支度を整えております」
「ご苦労だったわ、デューク。あなたがいてくれたから、安心して国境を越えられた」
馬を下りたディアナが、デュークの労をねぎらうように頷いた。
老騎士は一人ひとりの姿を順に見回すと、堅く結んでいた口元をわずかに緩めた。その厳格な貌に浮かんだのは、紛れもない安堵の色だった。
「シンディ。すぐに医務室へ行って、首の傷を診てもらいなさい」
「浅手です、ディアナ様。この程度なら――」
「命令よ」
「……かしこまりました」
そういう言い方でしか心配を口にできない主に、シンディはフッと目元を和らげて一礼した。その首筋に巻かれた布には、乾いた血が薄茶色に滲んでいる。
「それで――監軍総官殿は、お戻りにならなかったようですねぇ」
バルハルトが『龍刻の長煙管』を指先で回しながら、三人の背後へと目を遣った。
「ザックが斬ったわ。写しと矢文は、ここにある」
「……そうですか」
煙管を回していた指が、止まった。丸眼鏡の奥で、黒灰色の瞳がすっと細められる。
その視線が、ザックの肩に担がれた<フレイム・ハルバード>へと移った。ザックは何も言わず、正面からそれを受け止めた。
「伯爵には、私から報告する。デューク、バルハルト、ザック、それにシンディも同席を……。シンディは、手当てを済ませてからでいいわ。――私は、その前に着替えてくる」
ディアナは一度だけ北の空を振り返ると、凛とした足どりで館の扉をくぐった。
冒険者「ディア」の黒革の鎧を脱ぎ、騎士団長の黒金の制服を纏うために――
朝の六つ鐘の残響が街並みを渡っていく頃、『金天秤の間』の巨大な硝子窓には、庭園の白樺と噴水の飛沫が明るく映えていた。
マホガニーの長机を挟み、両陣営の首脳が相対する。アードラー側の席次は、前回とは変わっていた。窓側から、首に真新しい白布を巻いたシンディ、デューク、ディアナ、バルハルト、そしてザックの順に並んでいる。
進駐の日には、ヴァイスからディアナを守るために立ち続けていたザックも、今日は彼女に命じられて腰を下ろしていた。巨躯を窮屈そうに縮め、腕を組んだまま黙している。
バルハルトの向かいには、ハルトマンがでっぷりとした身体を椅子に沈めていた。濃灰色の眼が、本来そこにいるはずの男を探すように、アードラーの面々を一人ずつ睨んでいる。
白磁の茶器を配り終えたイルザも退出せずに、入口の扉の脇へと控えた。それを見届けたキリアンが席を立ち、壁の魔道具に手を翳す。防音の結界が、音もなく部屋を包んだ。
「それでは、ご報告いたします」
ディアナが目で促すと、シンディがすっと立ち上がった。主の手から二通の書状を受け取って長机を回り込み、ベアトリクスの前に揃えて置く。一通は、龍の意匠を刻んだ封蝋の割られた矢文。もう一通は、幾重にも折り畳まれた、進軍ルートと補給計画の写しである。
「監軍総官ヴァイス=アシュラッドは、この写しを手土産にレウルキアへ寝返りました。そして、国境を越えた先にあるかの国の砦へ、我が副官を人質に私を誘い出したのです。そこで待っていたのは、レウルキア王国軍の諜報部でした」
一度言葉を切ると、蒼灰色の瞳に冷徹な焔を映しながらディアナが続けた。
「ヴァイスは彼女の処刑を企てて果たせず、砦から逃げようとしたところを我が筆頭騎士が斬り捨てました」
「封蝋を、拝見しても……?」
ベアトリクスが小さく顎を引くと、キリアンは白い手袋の指で矢文を取り上げた。黒縁メガネの奥から、割れた蝋の紋様をじっと見つめる。ほんの数秒の沈黙の後、彼は静かに顔を上げた。
「レウルキア王家の紋章に相違ありません。蝋の配合も、王宮の文書局が用いるものと一致します」
「写しの内容も、監軍総官に渡したものと寸分違いません」
キリアンの言葉を受けて、バルハルトが言い添えた。
「北の礼拝堂で、ヴァイスがこの写しをレウルキアの密偵に手渡すのを、私がこの目で見ております」
シンディが、落ち着いた声で証言した。
「――これでは、レウルキアとの戦になりますぞ!」
ハルトマンが右拳で長机を激しく叩いた。
「セリカの騎士団長が皇国の領内から隣国の砦に押し入るなど、前代未聞の暴挙ですぞ! ベアトリクス様、ただちにアードラーを領外へ追い出すべきです!」
ザックの蒼い瞳が、ゆっくりとハルトマンへ向けられた。【黒嵐の獅子】の眼光に射すくめられ、ハルトマンは思わず息を呑んだ。でっぷりとした身体が、逃げ場を探すように椅子の奥へと沈み込む。
「ハルトマン」
ベアトリクスは茶器を受け皿に戻し、氷緑色の双眸を向けた。
「この矢文は、何かしら」
「……は?」
「レウルキア王家の封蝋で、ヴァーテル騎士団長を砦へ呼びつけた書状よ。そして、この進軍計画の写しは、レウルキアの手の者が我が領内で――私の膝元で受け取ったもの。密偵が『フェルゼン』の城壁の内側を、我が物顔で歩いていた証拠ね」
天恵【威風裁定】の覇気が、じわりと室内を満たしていく。激昂したハルトマンの全身から滲み出していた土気色の魔力が、霧のように散った。
「レウルキアがこれを公にできるなら、してみればいいわ。王の知らぬところで、軍の諜報部がセリカ神国の騎士団長暗殺を企てたと、自ら触れ回ることになるのだから。――これは、我が領がかの国に突きつける外交の切り札よ。追い出すなど、論外ね」
ハルトマンの二重顎が、悔しげに震えた。だが、反論の言葉は喉の奥で潰れ、ついに出てこなかった。
「ヴァーテル騎士団長。兵を率いての越境は、認めないと伝えたはずよ」
「はい。ゆえに、A級冒険者のギルド証を携え、騎士団としてではなく冒険者として国境を越えました。兵は一人も動かしておりません」
「……そう」
ベアトリクスの口元が、ほんのわずかに綻んだ。大人の女の、艶を含んだ笑みだった。
「ならば、ジギスムント領は昨夜のことに一切関知しない。それが私の裁定よ」
「写しが敵の手に渡った以上、我々の進軍ルートは改めます」
バルハルトが、淡々と言葉を継いだ。
「ほう。して、どのように」
身を乗り出したハルトマンに、参謀長は丸眼鏡を押し上げて微笑んだ。
「それは、これから練るところでしてねぇ」
「ハルトマン。南城門の商人組合から、進駐の補償について陳情が届いていたわね。あなたが対応なさい」
「……今、ですかな」
「今よ」
濃灰色の眼に、どす黒い光が宿った。だが、ハルトマンは重い身体を持ち上げ、無言で一礼すると、『金天秤の間』を出ていった。
その足音が遠ざかっても、誰も口を開かなかった。
やがて、扉の脇に控えたイルザの亜麻色の耳が、ピクリと動いた。
「二階の廊下を、南へ……。今、執務室の扉が閉まりました」
「ご苦労さま、イルザ。――続けて、参謀長」
バルハルトは、煙管を机に置いた。
「動かせぬものが、二つあります。一つは、日程。皇都リーアンを発ってから九十日目に大森林東部の決戦場に立つことは、セリカ側の事情により変えられません。いま一つは、『獣人自治領ネーベルハイム』。大森林へ入る前の物資は、伯爵のご尽力で自治領の倉庫に運び込まれております」
「ええ。そこは動かせないわね」
ベアトリクスが、短く応じた。
「ゆえに、捨てるのは一つだけです。写しに記された、『ネーベルハイム』から大森林を抜けて決戦場へ至る道筋」
バルハルトがきっぱりと言い切ると、キリアンの眉がかすかに動いた。
「代わりの道を、お持ちですか」
「持っておりませんねぇ」
バルハルトは悪びれもせずに肩をすくめた。
「だから、伯爵のお知恵を拝借したいのですよ」
ベアトリクスは、しばらく硝子窓の外を見つめていた。
「――あるわ。自治領の者だけが知る、『霧の道』が」
庭の白樺が、風に梢を揺らしている。
「その長は、ヴァルトリーデという九尾の狐よ。獣人たちは【霧の主】と呼んでいるわ。三百年を生きた女で、人族を好まない。皇都からの通達があるから、貴女方を拒みはしないでしょう。けれど、『霧の道』を人族の軍に明かすかどうかは――別の話ね」
「……私が、頭を下げます」
ディアナが、蒼灰色の瞳を真っ直ぐに向けた。
「頭を下げただけで動く相手なら、私も苦労はしないわ」
ベアトリクスは、ふと扉の脇へ視線を流した。
「イルザ。こちらへ」
狐人族の侍女が音もなく歩み寄り、長机の端で深く腰を折った。
「ヴァーテル騎士団長。この娘は、ヴァルトリーデの曾孫よ」
「……曾孫、ですか」
思わず問い返したディアナの声に、隠しきれない驚きが滲んだ。
「幼い頃に、皇国との友好の証として差し出された子よ。皇都は獣人の子を置くことを嫌い、交易のつながりで、先代の父が預かったの。――今は、私の侍女。自治領の長が渋る中で、貴女方の物資を『ネーベルハイム』の倉庫へ運び込めたのも、この娘との縁があればこそよ」
ベアトリクスは茶器を口元へ運び、紅茶を一口だけ含んだ。
「昨日の朝、監軍総官が姿を消したと分かり、レウルキアから矢文が届いた。その時点で、進軍の計画は敵に渡ったと読んだわ。ならば、行き着く先は『霧の道』しかない。――だから昨夜のうちに、イルザに書かせておいたの。もっとも、生きて戻れば、の話だったけれど」
イルザは顔を上げた。淡い金色の尾が、黒い侍女服の後ろで小さく揺れている。
「ヴァーテル騎士団長様。私からも、お願いがございます」
その手には、いつの間にか一通の封書が握られていた。封蝋には、九本の尾を広げた狐の紋。
「曾祖母に宛てた、書簡です。これを、大おばあさまに――いえ、【霧の主】に、お渡しください」
「……貴女が、私に託してくださるの」
「はい。……『ネーベルハイム』を離れて十五年、一度も便りを出しませんでした。曾祖母が、どう思っているのかは分かりません。けれど、ベアトリクス様がお認めになった方なら――と」
ディアナは席を立ち、封書を両手で受け取った。
薄い羊皮紙が、指先に重かった。
「必ず、お届けします――」
硝子窓の向こうで、噴水の飛沫が風に流れていく。
その白い霧の先に、まだ見ぬ『霧の里』の影が、静かに揺らめいているような気がした。
その夜は、どれだけ目を閉じても眠りが訪れなかった。
ディアナは寝台を抜け出すと、白い絹の夜着の上に外套を羽織った。背に流した銀髪が、月明かりを受けて淡くきらめく。そのまま、そっと庭園へ下りた。かすかな水音だけが、寝静まった庭に響いている。
白樺の木立の向こう、池のほとりに、見慣れた大きな影があった。
「……眠れねえのか」
黒い上着姿のザックが、縁石に腰を下ろしたまま振り向いた。闇の中でもなお鮮やかな蒼い瞳が、まっすぐにディアナを捉える。
それだけで、胸の奥が小さく跳ねた。
(どうして……)
国境へ向かう夜道で、この人を愛していると気づいてしまった。それからというもの、ザックの声を聞くだけで、心がうまく言うことを聞いてくれない。
努めて平静を装いながら、ディアナは少し間を空けて隣に座った。
ザックは、それ以上近づいてはこなかった。あの夜から、彼は二人の間に、決して踏み越えない距離を置いている。
「なあ。あの砦で、シンディに何を言われたんだ。お前、耳まで真っ赤になってたろ」
「――ッ!」
頬に、一気に熱が昇った。脳裏に、シンディの囁きがよみがえる。
――あの夜、執務室で。ザックに壁へ押しつけられていた時のお顔――
「な、何でもないわ。あなたには関係のない話よ」
「シンディにも、同じことを言われたな」
喉の奥で低く笑うザックに、ディアナは「笑わないで」と唇を尖らせた。
夜風が吹き抜け、ディアナは思わず外套の前を掻き合わせた。
次の瞬間、肩にずしりと温かい重みが掛かった。ザックが自分の上着を脱いで掛けてくれたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「冷えるぞ。もう戻れ」
上着には、まだ彼の温もりが残っていた。鼻先をくすぐる、懐かしい匂い。十五歳のあの日から、何度もそばで感じてきたはずなのに、今夜はなぜか胸が苦しくなる。
「……ザック」
「ん?」
名を呼んだものの、その先の言葉が出てこない。
(ありがとう。……あなたが、好き)
喉元まで込み上げた想いを、ディアナは静かに飲み込んだ。今はまだ、告げてはいけないものだった。
「……おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、ディアナ」
館へ向かって数歩進んだところで、ディアナはどうしても我慢できずに振り返った。ザックはもう、池の水面へと視線を戻していた。その大きな背中に、月の光が降り注いでいる。
(明日は、ちゃんと返さなくちゃ)
そう思うのに、襟を握る指先には、知らず力がこもっていた。
速くなった鼓動は、館の扉をくぐってもまだ、少しも収まってくれなかった。
「23.天秤の黙認、狐の書簡」をお届けします!
このお話で『第5章 国境の死線』は終了となります。
次からは、いよいよ新章に突入します!
新たな展開を迎えるアードラーを楽しみにお待ちください!




