22.死線の救出、氷焔の夜明け
【登場人物紹介】
シルヴィア=アシュレイ
・19歳。
・158cm、44kg。
・アシュレイ公爵家の令嬢。
・背中まで伸ばした金髪と、淡青色の瞳を持つ美少女。
・ユリウス第二皇子に狂愛し、ディアナに激しい嫉妬心を抱いている。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
その男からは、殺気というものがまるで感じられなかった。
剣を構えた兵たちが息を荒らげる中庭で、男だけが祈りの場に佇むかのように静まり返っている。その底知れなさが、かえってディアナの背筋を粟立たせた。
聖サマルリーナ教の修道士が纏う、灰色の法衣――
目深に被った頭巾の陰に沈んで、顔は窺えない。篝火を背に受けて立つ姿は、夜の闇から切り取られた影のようだった。
男の足元から中庭の隅々まで、紫の光を放つ刻み目が蜘蛛の巣のように石畳を走っている。その光に照らされて、兵舎の扉から新手のレウルキア兵が次々と湧き出し、二人を扇の形に取り囲んでいった。
「あの【雷神】を退けた【戦姫】を、こうして結界の内にお迎えできるとは、光栄の至りです」
男は、頭巾をゆっくりと後ろへ払いのけた。
短く刈り込んだ枯草色の髪。表情というものをどこかに置き忘れてきたかのような、鈍い鉛色の瞳――四十がらみの、どこにでもいそうな顔立ちだった。
だが、その眼差しは、生きた人間に向けるものではなかった。憎しみも敵意も宿さず、骸を検めるように、二人の身体をなぞっていく。
「オズワルド、と申します。あなたの黒鴉を預かっている者です」
「……シンディは、どこ」
ディアナの声は、低く押し殺されていた。正眼に構えた<蒼月刀>の鋒を真っ直ぐに彼に向ける。だが、氷霧を纏う白刃の輝きは、吐息ひとつで消えそうなほどにか細かった。
「無事です。少なくとも、今のところは……」
オズワルドは、眉ひとつ動かさずに告げた。その声には抑揚さえも感じられない。
「その刀の光をご覧なさい。この結界の中では、お二人の魔力は通じない。――抵抗を止めれば、彼女の命は保証しましょう」
その言葉を合図に、二人を囲む兵たちがじりじりと距離を詰める。
「寝言は寝て言え!」
ザックが、<フレイム・ハルバード>の石突を叩きつけた。ガキンッという音とともに石畳が穿たれ、放射状にひびが走る。
「団長を始末するために呼び出したんだろうが。それが、『命を保証』だとッ? 餓鬼の使いじゃねえんだ!」
「……信じられぬのも、無理はありませんな」
「よく吠えるものですね。――主人に噛みついた狂犬が、まだ番犬の顔をしているとは」
頭上から、憎悪に濁った嘲りの声が降ってきた。
城門の上へと続く歩廊に、黒い外套を夜風に翻した男がひとり立っていた。
左眼を覆う漆黒の眼帯――
冷徹な煙灰色の右眼――
「ヴァイス……ッ!」
ザックの喉から、獣のような唸りが漏れた。<フレイム・ハルバード>の柄を握る拳が、ギリッと軋む。
「犬に呼び捨てにされる筋合いはありませんね」
ヴァイスは鼻で笑うと、もう用はないとばかりに、視線をディアナへと移した。
「遅かったですね、小娘。――ああ、失礼。今は冒険者の『ディア』殿、でしたか」
アードラーの監軍総官は、芝居がかった仕草で軽く頭を下げた。
彼の背後から、二人の兵が人影を引きずるようにして連れ出してくる。
黒銀の革鎧。肩で切り揃えられた漆黒の髪。両手首に鉄の枷を嵌められ、兵に両腕を掴まれて膝をつかされたのは――
「シンディ……ッ!」
「ディアナ様……! 申し訳ございません……。私のせいで、危険な目に遭わせてしまって……!」
蒼灰色の瞳に、自責の念に顔を歪めるシンディの姿が映った。
「――監軍総官。地下牢の鍵を預けた覚えはない」
オズワルドの声が、初めて低く沈んだ。その視線が、城壁の上を射抜く。
「誰にも手出しはさせぬと、その女に言った。それは、あなたも例外ではない」
「ふん。餌というものは、相手の目の前で吊るしてこそ効くのですよ、密偵。あなた方レウルキアの流儀は、どうにも悠長でいけない」
ヴァイスは腰の細身の剣を抜き放つと、その刃をシンディの首元にぴたりと当てた。
「さあ、【氷姫】。刀を捨てて、膝をつけ。この女を助けたければ、宮廷の夜会でそうするように、優雅にお辞儀をしてみせるのです」
「……私の命が目当てなら、彼女は関係ないでしょう」
「関係ない? とんでもない。この女は、私の裏切りをその眼で見届けたと言ったのですよ。――証人は、生かしておくものではない」
細身の刃が、わずかに引かれた。
シンディの白い首筋に、赤い線が走った。溢れ出した血が、革鎧の襟元へと静かに伝い落ちていく。
「……ッ」
シンディは、声ひとつ漏らさなかった。ただ、切れ長の双眸だけが、ひたとディアナを見つめている。
『私のことはいいから、逃げて』――漆黒の瞳が、無言でそう訴えていた。
――その眼差しを受け止めた瞬間、ディアナの中で何かが音を立てて切れた。
(私の……家族に――)
命を救ったあの日から、片時も離れずに傍らにいてくれた、かけがえのない半身。その首から、血が流れている。
考えるより先に、身体の奥底から凍てつく奔流が噴き出した。
蒼灰色の瞳に、冷たい蒼炎が宿る。月の雫のような銀髪が、氷晶をきらめかせて激しく舞い上がった。
「ディアナ……?」
蒼い瞳を見開いて、ザックが息を呑んだ。<アドリア海域>で見た白銀の光翼は、その背にない。だが、肌を刺すこの気配はあの時と同じものだった。
<蒼月刀>のはばきに嵌まった水龍の宝玉が、結界の抑えをねじ伏せるようにまばゆく輝く。
ディアナは柄を逆手に持ち替えると、無言のまま刃を石畳へと突き立てた。
その刹那、中庭のすべてが白く変わった――
石畳の表面を氷霜が疾走し、篝火の炎が冷気に怯えるように身をすくめる。兵たちの脚が氷に呑み込まれて、その場に縫い留められる。
そして、紫の光を放つ亀裂を目がけて、氷が獣牙となって食らいついていく。
亀裂の下に埋め込まれていた最初の楔が、氷の膨張に耐えきれずに弾け飛んだ。
それが合図だった――
中庭のあらゆる場所から、次々と破砕音が響き渡る。敷石が割れ、残る術式の楔もひとつ残らず砕け散っていった。
紫の光が、息絶えるように消え失せた。
「……楔を、すべて……」
オズワルドの鉛色の瞳が、驚愕に揺らいだ。
一つや二つ砕かれたところで、崩れるはずのない結界だった。それを、たった一突きで――
(これが、【雷神】をも退けた力か……)
ディアナは右腰の<冰刀>を抜くや否や、腕の一振りで歩廊へと投げ放った。
夜気を鋭く引き裂き、蒼光が矢よりも速く闇を貫いた。シンディの首元へ剣を当てていたヴァイスの右手首に、刃が深々と突き刺さる。
「ぎゃああぁあッ……!?」
悲鳴とともに、剣が乾いた音を立てて足元に落ちた。<冰刀>から流れ出た冷気が、貫かれた手首を凍てつかせていく。
「わ、私の手が……ッ! 手がぁ……!」
ヴァイスは凍りついた右手首を抱え込み、無様によろめいた。
「ヴァイス――そこで、待っていろッ! てめえの喉笛、噛み切ってやるッ!」
ザックは凍りついた兵の列を薙ぎ払いながら、城壁へと続く石段へ一直線に駆けた。火龍の宝玉が火焔を噴出し、<フレイム・ハルバード>を真っ赤に燃え上がらせる。結界を失った斧槍の劫火が、鎖を解かれたように咆哮を上げた。
「く、来るなッ……来るなぁッ!」
恐怖に引きつったヴァイスの隻眼には、石段を駆け上がってくる巨躯が映っていた。凍った右手を庇いながら、彼は力任せにシンディの背を蹴り飛ばした。
「きゃああ――ッ!」
枷を嵌められた身体が、城壁の縁を越えて宙に投げ出された。
「シンディ――ッ!」
ディアナの叫びより速く、灰色の影が石畳を蹴った。
オズワルドだった。凍った中庭を疾風のように駆け抜け、落下するシンディの下へと滑り込む。
「くッ……!」
六mを超える高さから落ちてきた身体を、彼は両腕と全身で受け止めた。衝撃に膝が砕けそうに沈み、二人はもつれるように氷の上へ転がった。
「ぐふッ……、げほ……ッ」
シンディが、咳き込みながら目を開ける。すぐ目の前に、自分を抱きとめたまま荒い息をつく、かつての師の顔があった。
(この人が……私を、助けた……?)
四年前、自分を置いて去っていった男の背中が、脳裏をよぎる。
城壁の上では、ヴァイスが城門の物見櫓へ向かって逃げていた。
石段を駆け上がったザックが、その背を追う。重い金属鎧を纏っているとは思えぬ速さだった。歩廊の幅は人ふたり分もない。前へ走り続けるほかに、道はなかった。
「ま、待て……! 私はアシュレイ公爵の――」
「知ったことかッ! てめえが誰の甥だろうが、ここで叩き斬るッ!」
ヴァイスが振り返った。凍っていない左手が、眼帯に伸びる。
「ならば――もう一度、この眼を見るがいいッ!」
引きつった叫びとともに、漆黒の眼帯が引き剥がされ、金色の光が夜闇に開いた。
だが、ザックの蒼い瞳は、最初からヴァイスの顔など見ていなかった。見据えていたのは、相手の足元だけだった。
「二度も食うかよ、そんな手に……ッ!」
天恵【鬼神】――瞬きをする間に灼熱の閃光が、三度夜空を斬り裂いた。
劫火がヴァイス=アシュラッドを呑み込み、断末魔の絶叫ごと焼き尽くした。
炭化した身体がドサリと歩廊に崩れ落ち、肉の焼け焦げる臭いが夜気に広がった。
中庭では、オズワルドが小さな鍵を使って、シンディの手首の枷を外していた。
「……オズワルド。どうして……」
「落ちてくる女を、見ているだけの男だと思ったか」
抑揚のない声だった。だが、その息はまだ乱れていた。彼は法衣の懐から革紐で括られた羊皮紙の束と、一振りの短刀を取り出してシンディの膝の上へ置いた。
「返す。写しも、お前の刀も……」
「……これは……」
「中身はもう、王国の手で写し取られている。俺の任務は、終わった。これを返したところで、誰にも咎められはせん」
「――動かないで」
ディアナの刃が、オズワルドの喉元へ向けられた。瞳の蒼炎はすでに消え、荒い息だけが残っている。
「貴方は、レウルキアの密偵。シンディを罠にかけ、私をここへ呼び出した男よ。このまま行かせるつもりはないわ」
「ごもっとも」
オズワルドは、抗わなかった。ただ、静かな眼差しをシンディへ向けた。
「だが、約束は守ったつもりだ。――少なくとも、命だけはな」
「……ディアナ様」
シンディが、枷の痕が赤く残る手でディアナの手首にそっと触れた。
「お願いです。この男を……行かせてください。写しは、ここにあります。証拠は、もう足りています」
ディアナは、長く息を吐いた。
首元の血。震えていない副官の手。そして、自分を一心に見つめてくる、懇願の瞳――
刃が、ゆっくりと下ろされた。
「行きなさい……。次に会う時は、斬るわ」
「……肝に銘じておきましょう」
オズワルドは立ち上がり、頭巾を被り直した。砕けた石畳の上を、城門脇の通用口へ向かって歩き出す。
「オズワルド……!」
シンディが、その背を呼び止めた。だが、彼は足を止めただけで振り返らなかった。
「四年前、あなたの手を取らなかったのは私よ……。それでも――置いていかれたことは、まだ許せないわ」
「知っている」
短いその一言の奥に何があるのか、シンディにはもう読み取ることができなかった。
「だから、これは……あの時に言えなかった分よ」
シンディは駆け寄り、彼の袖を掴んで振り向かせると、その唇に自分の唇を押し当てた。
ほんの一瞬だった。離れた時、オズワルドの瞳がわずかに揺れたように見えた。だが、それもすぐに凪いだ水面のように静まる。
「……達者でな、シンディ」
それだけを残して、灰色の法衣は通用口の闇の向こうへと消えていった。
「ほらよ、忘れもんだ」
石段を下りてきたザックが、ヴァイスの手首から抜き取った<冰刀>を、ぶっきらぼうに差し出した。口の端が、にやりと吊り上がっている。
「……見てたの、あんた」
「全部な」
「殺すわよ、野蛮人」
シンディは奪い取るように短刀を受け取り、二振りを両腰の鞘へ収めた。それから改めて、ディアナの前に膝をついた。
「ディアナ様。ご命令に背き、深追いをいたしました。そのために、お二人を死地へ――」
「シンディ」
ディアナは膝を折り、シンディの首元の血を自分の手でそっと拭った。その指先が、わずかに震えていた。
「……叱るのは、帰ってからにするわ」
「はい……」
「お前の無茶なんざ、俺らに比べりゃ可愛いもんだ。気にすんな」
そう言い捨てると、ザックは<フレイム・ハルバード>を肩に担いでフイッと顔を背けた。
張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
その隙間から、ディアナの胸に小さな悪戯心が芽生えた。<アドリア海域>の甲板で、血まみれのザックに三度も口移しをした自分を、この副官はバルハルトと一緒になって揶揄ったのだ。
「……それにしても、シンディ」
ディアナは、わざと冷ややかな声を作った。
「敵国の密偵に、自分から口づけだなんて。二十六にもなって、ずいぶんと大胆なことをするのね。見ているこちらが恥ずかしくなるほどだったわ」
あの日の仕返しとしては、我ながら上出来だった。
だが、シンディは涼しい顔を崩さなかった。
「あれは、四年分の別れの挨拶です。それだけのことですよ」
そして、立ち上がったシンディは、ディアナの耳元へ唇を寄せた。
「それより、ディアナ様。――あの夜、執務室で。ザックに壁へ押しつけられていた時のお顔、私はまだ覚えておりますよ……」
「シ、シンディ……ッ!!」
ディアナの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。
「な、何の話だ?」
「あんたには、関係ないわよ」
訝しげに眉を寄せるザックを、シンディが素知らぬ顔で切って捨てた。
その時、遠く荒野の彼方から蹄の音が響いてきた。
警鐘を聞きつけた、近くの詰め所の騎兵だろう。一つ、二つではない。二十を超える騎影が、砂塵を巻き上げて丘へと迫ってくる。
「追っ手だ。砦の連中だけじゃねえな」
「馬なら、兵舎の脇よ!」
シンディが、中庭の奥を指差した。そこには、ヴァイスとオズワルドが乗ってきた二頭の馬が繋がれていた。
シンディを馬に押し上げると、ザックは城門の閂を斧槍の一撃で叩き折った。シンディの馬が、真っ先に門を駆け抜けていく。
ディアナとザックは開いた門から斜面を駆け下り、麓に残していた二頭の元へ辿り着く。二人が鞍に跨った時には、追っ手の先頭はもう数十mの距離に迫っていた。
「先に行け。殿を務めるのが、盾の仕事だ」
「ザック――」
「大丈夫だ。あんたの盾は、そう簡単に砕けねえよ」
ザックは馬首を返し、ひとりで追っ手の正面へと向き直った。
<フレイム・ハルバード>の宝玉が、夜明け前の闇の中で太陽のように燃え上がった。
「来いよ、レウルキアの騎兵さんよ。まとめて相手してやる」
斧槍が三度、大気を裂いた。
噴き上がった劫火は、天をも焦がす巨大な焔の壁となって荒野を横一線に走り、迫ってきた騎兵の列を呑み込んだ。
馬の嘶きと怒号が焔の向こうで渦を巻き、やがて潰えていく。
壁を越えてきた者は、ひとりもいなかった――
東の空が、白み始めていた。
国境の標柱が、朝靄の中に浮かび上がる。三騎は速度を落とし、その古びた石の前で馬を止めた。
「……ヴァイスは、死んだわ。けれど、証拠は揃っている。写し、矢文、シンディの証言、そして私たちが見たもの。あの男の罪は、必ず神国に明らかにする」
シンディの懐に収まった羊皮紙の束に目をやりながら、ディアナが蒼灰色の瞳に決意をきらめかせた。
「公爵の甥を斬ったんだ。宮廷のタヌキどもは、騒ぐだろうな」
「騒がせておけばいいわ。私たちは、間違ったことをしていない」
月の雫のような銀髪を暁の風に靡かせながら、ディアナが二人を振り返った。
罠も、国境という壁も、この夜の三人の絆を断つことはできなかった。
「帰りましょう。アードラーが待っているわ」
「お二人と一緒だと、本当に退屈しませんね」
「お互い様だろ、黒鴉」
標柱を越えて、三騎は南へ――『フェルゼン』へと馬を駆った。
長い夜を越えた三人の背を、生まれたばかりの朝の光が祝福するように包み込んでいた。
「22.死線の救出、氷焔の夜明け」をお届けします。
物語も少しずつ進んでいきますね。
これから三人に、どのような運命が待っているのでしょうか?
ゆっくりマイペースで書いていきますので、よろしくお付き合いください♪




