20.宿縁の鎖、囚われの黒鴉
【登場人物紹介】
ニナ
・17歳。
・156cm、44kg。
・F級冒険者で、黒猫族の少女。
・天恵は【探索者】。弓士。
・真鍮と木で造られた初心者向けの弓を愛用。
※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;
国境の標柱を越えて、どれほど馬を駆っただろうか。
荒野の先、なだらかな丘の上に、黒々とした石造りの砦が姿を現した。城壁の上には松明がまばらに灯り、レウルキア王国の軍旗が夜風に重くはためいている。
前を行く二騎の黒い影は、速度を緩めることなく、開かれた城門の中へと吸い込まれていった。直後、重い鉄の扉が軋みながら閉ざされていく。
(国境の砦……。あの二人、最初からここへ逃げ込むつもりだったのね)
シンディは丘の麓で手綱を引き、馬の背から音もなく飛び降りた。
これ以上馬で近づけば、城壁の見張りに気づかれる。だが、ここで引き返せば、あの写しは二度と戻らない。
あまりにも都合の良かった一頭の馬――
胸の奥で鳴り続けている警鐘を、シンディは奥歯を噛みしめて押し殺した。
(砦の中に忍び込むのは、私の本領よ。写しを取り返して、すぐに戻る。それだけ……)
天恵【暗殺者】を極限まで研ぎ澄まし、己の気配を夜の闇へと溶かし込む。シンディは岩陰から岩陰へと身を移しながら斜面を上り詰め、見張りの視線の切れ目を縫って城壁の真下へ走り寄ると、石積みのわずかな凹凸に指をかけて蜘蛛のように壁を這い上がった。
城壁の縁を乗り越えて歩廊へと滑り込むと、眼下には篝火に照らされた石畳の中庭が広がっていた。奥には、二騎の馬が繋がれている。その向こうに建つ兵舎らしき石造りの建物の窓には、かすかな灯りが揺れていた。
(あそこね……)
歩哨の背後をすり抜け、歩廊から中庭へと続く石段の暗がりを足音を殺して駆け下りる。最後の数段を蹴って、軽やかに石畳へ降り立った――その瞬間だった。
足元の石畳から、淡い紫色の光が一斉に噴き上がった。
光の筋が蜘蛛の巣のように中庭全体へと走り、夜陰に紛れていたシンディの輪郭を、篝火の明かりの下へと容赦なく引きずり出していく。
(この光……、礼拝堂と同じ結界――!)
視線を落とすと、そこには真新しい刻み目がいくつも走っていた。礼拝堂の祭壇の周りに刻まれていたものと、まったく同じ傷跡だった。
「――かかったぞ!」
鋭い号令とともに、兵舎の扉が次々と開け放たれた。
剣や槍を構えたレウルキア兵が、雪崩を打って中庭へと押し寄せてくる。その数は、ざっと三十を下らない。城壁の上にも弓兵が並び、一斉に弓弦を引き絞る軋みが夜気を震わせた。
(罠……。最初から、私を誘い込むための――)
シンディは腰の双刀を抜き放ち、背中を城壁に預けて身構えた。
両手の<冰刀>が冷気を纏う。だが、その青白い光は礼拝堂の時よりもさらに鈍く、刃に宿るはずの絶対零度の力は、まるで霧が晴れるように散っていった。
「囲め! 生け捕りにしろとのご命令だ!」
怒号が飛ぶや否や、最初の三人が同時に斬りかかってきた。
シンディは身を沈めて一人目の剣を掻い潜り、すれ違いざまにその手首を斬り払った。返す刃で二人目の喉元に柄を叩き込み、三人目の槍の穂先を紙一重で躱して懐へと滑り込む。
悲鳴と剣戟が中庭に響き渡り、燃え盛る炎が激しく揺れた。
だが、斬っても斬っても、兵の壁は途切れなかった。
いつもなら一太刀で敵の刃を凍てつかせる<冰刀>が、今は鋼の表面にうっすらと霜を残すばかりで、まるで手応えがない。息が上がり、額から流れ落ちる汗が目に沁みる。
(このままじゃ、押し潰される……! この結界さえ破れれば――)
シンディの眼が、足元の刻み目を捉えた。
それが結界の要なら――
迫りくる槍を左の刃で弾き上げると、シンディは右の<冰刀>を逆手に握り直し、最も近くにあった刻み目へと渾身の力で突き立てた。
刃先が深々と食い込み、石畳が砕け散る。中庭を覆っていた紫の光が、一瞬だけ大きく揺らいだ。
(やっぱり、この刻み目が――!)
「――楔に気づいたか。相変わらず、目の付けどころは悪くない」
その時、喧騒を切り裂くようにして、静かな声が中庭に響いた。
兵たちの動きが、ぴたりと止まる。
割れた兵の列の間から、灰色の法衣を纏った男がゆっくりと歩み出てきた。礼拝堂でヴァイスから写しを受け取った、あの男だった。
「だが、一つや二つ砕いたところで、この結界は崩れない。楔は、この中庭のあらゆる場所に打ち込んである」
男は篝火の前で足を止めると、目深に被っていた頭巾を、ゆっくりと後ろへ払いのけた。
短く刈り込んだ枯草色の髪。感情の読めない、鈍い鉛色の瞳――
シンディの全身から、一瞬にして血の気が引いた。
「……オズワルド……」
唇からこぼれ落ちたその名は、自分でも驚くほどにか細く震えていた。
見間違えるはずがない。十二歳の孤児だった自分に、生きる術のすべてを叩き込んだ男。初めて心を許し、初めて愛した男。そして四年前、差し伸べられたその手を拒んだ自分を置いて、暗殺者ギルドから姿を消した男――
あの見覚えのある歩き方は、気のせいなどではなかったのだ。
「久しぶりだな、シンディ」
オズワルドは、穏やかな口調で言った。四年前と何ひとつ変わらない、抑揚に乏しい声だった。
「領館の裏門でお前の姿を見かけた時から、気づいていた。気配の消し方も、息の殺し方も、すべて俺が教えた通りだったからな」
「……どうして……」
「お前がアードラーの黒鴉として監軍総官を尾けてくることは、最初から読めていた。だから、礼拝堂の脇に馬を一頭だけ残しておいた。――あれを見れば、お前は必ず追ってくると思っていたよ」
シンディは、言葉を失った。
あの時、確かに鳴っていた警鐘。それをねじ伏せてまで跳び乗った馬は、この男がシンディのために用意した餌だったのだ。性分も、判断の癖も、すべてを知り尽くしたこの男の手のひらの上で、彼女はただ踊らされていた。
「……ふざけないで……!」
血が滲むほどに唇を噛みしめ、シンディは双刀を構え直した。
「ギルドを捨てて消えたと思ったら、今度はレウルキアの犬になってたってわけ?」
懐かしさよりも怒りが勝った。切れ長の双眸に焔を宿し、オズワルドを睨めつける。
「あの時、俺は共に来いと言った。それを拒んだのは、お前の方だ」
「当たり前でしょう! やっと……やっと、ギルドに自分の居場所を見つけたばかりだったのよ。それなのに、あなたは私を捨てて、いなくなった――」
オズワルドの鉛色の瞳が、一瞬だけ揺らいだように見えた。だが、それもすぐに凪いだ水面のように静まり返る。
「……今さら語ることでもない。――刃を下ろせ、シンディ。お前では、俺には勝てない」
「勝てるかどうか、やってみなきゃ分からないでしょ!」
シンディは地を蹴った。
力を削がれた双刀が、左右から同時にオズワルドの首筋へと迫る。暗殺者として磨き抜いた、最速の一撃だった。
オズワルドは半身を引いただけで、二振りの刃をあっさりと空へと流してみせた。
「踏み込む直前に、右肩がわずかに下がる。――その癖は、俺の下で修行していた頃から変わっていないな」
次の瞬間、手首に鋭い衝撃が走った。
弾き飛ばされた右の<冰刀>が、篝火の照り返しを受けながら宙を舞い、石畳の上を乾いた音を立てて転がっていく。
「くッ……!」
残された左の刃で斬り返そうとした刹那、鳩尾に重い拳がめり込んだ。
肺の空気がすべて押し出され、膝から力が抜けていく。崩れ落ちるシンディの身体を、オズワルドの腕が静かに受け止めた。
霞んでいく視界の端で、城壁の上の歩廊からこちらを見下ろすヴァイスの姿が見えた。その唇の端が、勝ち誇ったように吊り上がっている。
(ディアナ様……。申し訳、ございません……)
主君の命令に背いた悔恨と、かつて愛した男に敗れた屈辱――
そのどちらもが、深い闇の底へと沈んでいく。耳の奥に、オズワルドの低い声がかすかに届いた。
「悪く思うな、シンディ。お前には、まだ役目がある」
肌を刺すような冷たさで、シンディは目を覚ました。
頬に触れているのは、湿った石の床だった。身を起こそうとした途端、鳩尾に鈍い痛みが走り、思わず息が詰まる。
窓のない地下牢だった。天井から吊るされた小さな魔石灯だけが、黴の臭いのこもった石壁をぼんやりと照らしている。
両手首には、短い鎖で繋がれた重い鉄の枷が、体の前で揃えるように嵌められていた。枷の真ん中からはもう一本、太い鎖が伸び、背後の壁に打ち込まれた鉄の輪へと繋がっている。壁際に座り込むのがやっとの長さで、鉄格子にはとても手が届かない。右の足首にも同じ鉄の枷が嵌められ、床の輪に鎖で留められていた。
暗殺者の手足を封じるための、念入りな拘束だった。
自由の利かない両手で腰を探り、愛刀の重みがないことに気づく。双刀は、二振りとも奪われていた。
黒銀の革鎧は身に着けたままで、着衣に乱れはない。だが、袖口や長靴の内側に忍ばせていた暗器までが、一つ残らず抜き取られていた。隠し場所を知り尽くした者の手際だった。
「目が覚めたか」
鉄格子の向こうに、オズワルドが立っていた。
「……私をどうするつもり?」
屈辱と不安に顔をしかめながら、シンディが訊ねた。
「お前は餌だ」
オズワルドは、淡々と告げた。
「アードラーの騎士団長は、部下を見捨てられる女ではないと聞いている。お前の身柄を盾にすれば、【氷姫】は必ず動く。――少数の供回りで来るなら、ここで始末するまで。兵を率いて来るなら、ユピテルが神国の侵攻を許したと、諸国に触れ回るまでだ」
「……ッ!」
オズワルドの言葉に、シンディは息を呑んだ。
(私のせいで……ディアナ様が……)
どう転んでも、レウルキアは自らの兵を損なうことなく、ディアナ様とアードラーを破滅へと追い込める。自分という餌ひとつで――
思わず鉄格子へと身を乗り出した途端、手首の鎖がぴんと張り、乾いた音を立てて彼女を壁際へと引き戻した。
石壁に背を打ちつけられたシンディは、鉄枷の嵌まった拳を固く握りしめた。
「余計なことは考えるな」
踵を返したオズワルドが、足を止めずに言った。
「ここで大人しくしている限り、誰にもお前には手出しをさせん」
その声音に、ほんのわずかな熱が混じったように聞こえたのは、思い過ごしだろうか。
遠ざかっていく足音を聞きながら、シンディは冷たい石壁に額を押し当てた。
(どうして、今さらそんな声で……)
自分を罠にかけ、主君を窮地に追いやった憎むべき男。そんな男の声に、一瞬でも心を動かされた自分が、何よりも許せなかった。
(いいえ、そんなことよりも……! ディアナ様……。どうか、私のために国境を越えないで……)
揺らぎかけた心を、石の冷たさで無理やり押し鎮める。今の自分が想うべきは、あの男ではなかった。
朝の四つ鐘の音が、白み始めた『交易都市フェルゼン』の街に響き渡った。
領館の二階の執務室で、ディアナは一睡もできないまま夜明けを迎えていた。
執務机の上の燭台は、とうに燃え尽きていた。窓の外の空が藍から薄紫へと移ろっていくのを、ただ黙って見つめ続けていた。
(シンディ……。何か、あったの……)
どんな任務であれ、シンディが報告を怠ったことは一度もなかった。決して深追いはするな――あれほど念を押したのだ。証拠を掴めば、すぐに戻ってくるはずだった。
それなのに、夜が明けても、彼女は姿を見せなかった。
控えめなノックの音が響いた。
「……入りなさい」
樫材の扉が開き、入ってきたのは、参謀長バルハルトだった。
普段の飄々とした笑みは影を潜め、丸眼鏡の奥の黒灰色の瞳が険しく細められている。
「団長、ご報告を。監軍総官の部屋は、もぬけの殻でした。私物も、軍務尚書の命令書も、すべて消えています」
「……ヴァイスが、逃げた……」
「ええ。シンディが戻らないことと、無関係とは思えませんねぇ」
その時だった。
廊下を駆けてくる慌ただしい足音が近づき、扉が強く叩かれた。
「ヴァーテル騎士団長。キリアンです。至急お伝えしたいことがございます」
「どうぞ……」
扉を開けて入ってきた彼は、黒縁メガネをかけた顔を明らかに強張らせていた。常に冷静沈着な男にしては、珍しいことだった。
「早朝に失礼いたします。……つい先ほど、北の国境の見張り塔に、レウルキア側から矢文が射込まれました」
キリアンは、折り畳まれた羊皮紙の書状と、布に包まれた一振りの短刀を両手で差し出した。
「宛先は、アードラー騎士団長とあります。そして、この短刀が……矢文に括りつけられておりました」
ディアナは、もどかしい手つきで短刀の布を解いた。
朝の光を受けて、青白い刀身が鋭くきらめく。その刃には、凍てつく冷気がかすかに宿っていた。
「<冰刀>……」
かつてザックと三人で古代遺跡に潜り、シンディが手に入れた愛刀。彼女が肌身離さず両腰に佩いていた、双刀の片割れだった。
ディアナは、続いて書状を広げた。
レウルキア王家の紋章を刻んだ封蝋が押されたその羊皮紙には、用件だけを記した、素っ気ないほど短い文面が綴られていた。
『アードラー騎士団副官の身柄は、我が国境砦にて預かっている。返還を望むならば、三日以内に騎士団長自らが砦へ出向かれたし。ただし、兵を率いて国境を越えたならば、それをもって我が王国への宣戦布告とみなす』
書状を持つ手が、小刻みに震えた。
(シンディが……捕らえられた……)
昨日の午後、この執務室の扉の前で振り返ったシンディの眼差しが、脳裏に鮮やかに蘇る。何も問わずに一礼して出ていったその背中を、自分は見送ったのだ。
自分が、彼女を行かせた。
その事実が、氷の刃となってディアナの胸を深々と貫いた――
「20.宿縁の鎖、囚われの黒鴉」をお届けします!
我がいとしのシンディちゃん、大変なことになってますねぇ(^_^;
ディアナたちは彼女を助けられるのでしょうか?
ハラハラ、ドキドキ……。
21話を楽しみにお待ちください。




