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氷姫の旗を掲げよ~秘めたる愛影に抱かれて~  作者: 椎名将也
第5章 国境の死線

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20/28

19.密偵の追跡、裏切りの逃亡

挿絵(By みてみん)


【登場人物紹介】

アンヴァル

・ディアナの愛馬。雌。

・<月の女神(ディアーナ)>が騎乗したと伝えられる軍馬。

・白銀の額を飾る面繋(おもがい)にはサファイアが嵌められている。


※【登場人物紹介】は、ネタが切れるまで続ける予定です(^_^;





 昼の一つ鐘(正午)を告げる響きが、『交易都市(ハンデルス)フェルゼン』の澄み切った青空に高らかに広がった。

 領館の裏手にある厩舎の脇では、アードラーの軍馬たちが飼い葉を食む穏やかな音だけが、真昼の陽だまりに満ちていた。


 その片隅で、ザックは古びた木箱に腰を下ろしたまま、左腕に巻かれた包帯を無言で見つめていた。

 白い亜麻布には、昨夜自らの短剣で穿った傷から滲んだ血が、赤黒い染みとなって浮かび上がっている。


(……あの時、俺は確かに抗った。だが――)

 脳裏に焼きついて離れないのは、金色の魔光でも、流れた血の熱さでもなかった。壁に押さえつけたディアナの紅唇と、柔らかな胸の感触――

 あの行いは【看破(インサイト)】に命じられての所業だったのか、それとも己の奥底に眠る欲望に駆られての衝動だったのか。ザック自身にも、もはや判然としなかった。


「――こんな所で油を売ってたのね、野蛮人」

 背後から音もなく掛けられた声に、ザックは顔を上げようともせず低く応じた。

「……シンディか。説教なら、朝に聞いたぜ」

「お生憎さま、今度は説教じゃないわ。昨夜のヴァイスの動き、詳しく聞かせてもらおうと思ってね」

 肩で切り揃えた漆黒の髪を揺らし、副官シンディが切れ長の双眸でザックを見下ろした。天恵【暗殺者(アサシン)】によって気配を完全に絶った彼女の接近に、厩舎の馬たちでさえ耳一つ動かしていなかった。


 ザックはしばらく黙り込んでいたが、やがて重い口を開いた。

「……奴は昨夜、夜の六つ鐘(午後十時)に部屋を抜け出した。黒い外套(マント)を羽織って、使用人用の裏階段から一階の勝手口へ向かってやがった。館の外で、誰かと会うつもりだったんだろう」

「誰かって?」

「そこまでは分からねえ。俺が前に立ち塞がったら、あの金色の眼を剥き出しにしやがったからな。……だが、わざわざ外へ出たがるのは、館の中じゃお前の網に引っかかるからだろうよ」


(館の外……。だとすれば、相手は館に出入りできない人間――)

 シンディの眼が、鋭く細められた。

 脳裏に浮かんだのは、この数日、領館の裏門の近くで幾度か見かけた灰色の法衣の男だった。目深に被った頭巾(フード)のせいで顔までは窺えなかったが、聖サマルリーナ教の修道士を装うその足運びは、祈りに生きる者のそれではなかった。音を殺し、重心を常に爪先へと預ける――見覚えのある歩き方だった。


「……助かったわ、ザック。それから――」

 踵を返しかけたシンディは、一瞬だけ足を止めた。

「その傷の手当て、怠るんじゃないわよ。あんたが倒れたら、ディアナ様の盾がいなくなっちゃうんだから」

 振り返ることなく告げられたその言葉に、ザックは包帯の上から左腕にそっと触れた。




 陽が西へ傾き始めた頃――

 二階の執務室では、昨夜ザックの巨体が突き破った窓が、早くも枠ごと新しく付け替えられていた。真新しい硝子越しに差し込む光が、執務机に積まれた補給計画の書類を白く照らしている。


「――以上が、ザックから聞き出したヴァイスの動向です」

 シンディの報告を聞き終えた瞬間、ディアナの蒼灰色(ヘイズブルー)の瞳の奥で、凍てつく焔が燃え上がった。

 午前中に再開したジギスムント側との実務交渉で、保管倉庫の割り当てと、大森林へ至るまでの進軍ルートおよび補給計画が正式に確定した。そして監軍総官であるヴァイスには、監査の名目でその写しが渡されている。


(もし、あの男がそれを外へ持ち出せば……)

 一千の騎士たちの命綱が、そっくりそのまま敵の手に渡ることになる。その光景を思い描いた瞬間、背筋がぞくりと粟立った。


「ディアナ様。ヴァイスは今夜も動くはずです。新たな補給計画を知った以上、一刻も早く相手へ流そうとするでしょう」

「……今すぐ拘束できればいいのだけれど」

 ディアナは悔しげに唇を噛んだ。


 ヴァイスは、軍務尚書ユリウス第二皇子の命令書を携えた正式な監軍総官だ。ザックの証言だけで拘束すれば、アードラーが宮廷の監査を力ずくで排除したと、アシュレイ公爵に格好の口実を与えることになる。必要なのは、誰の目にも明らかな裏切りの証拠だった。


「シンディ、ヴァイスを尾行しなさい。密会の相手と、受け渡しの現場を押さえるのです」

「御意」

「ただし――」

 ディアナは顔を上げ、【黒鴉の眼(ヘヴンズ・アイ)】と呼ばれる双眸を真っ直ぐに見据えた。


「決して深追いはしないこと。証拠を掴んだら、すぐに戻りなさい。これは命令よ」

「……承知いたしました」

 わずかな間を置いて、シンディは静かに頭を下げた。


 扉へと向かう副官の背に、ディアナは小さく声をかけた。

「それと、シンディ。……ザックを、ここへ呼んでくれるかしら」

 一瞬、シンディの足が止まった。振り返ったその眼には主君を案じる色が浮かんでいたが、彼女は何も問わずに一礼して部屋を出ていった。


 ひとりになった執務室で、ディアナは両手を胸の前で固く組み合わせた。

(決して二人きりにはならない――そう誓ったばかりなのに……)

 だが、騎士団長として、彼の口から直接確かめなければならないことがある。それに、いつまでも筆頭騎士を避け続けていては、団員たちに示しがつかない。

 そう自分に言い聞かせても、早鐘を打つ鼓動は少しも鎮まってはくれなかった。


 やがて、重い靴音が廊下に響き、樫材の扉が控えめに叩かれた。

「……入りなさい」

 平静を装ったはずの声は、自分の耳にもひどく硬く聞こえた。


 扉を開けて姿を現したザックは、部屋の入口で立ち止まったまま、それ以上踏み込もうとはしなかった。

 左腕を覆う鎧の隙間からは、白い包帯がわずかに覗いている。いつもなら不遜なまでに真っ直ぐな蒼い瞳が、今は己の足元に落とされたままだった。


 その姿を目にした瞬間、ディアナの身体の奥で、昨夜の熾火(おきび)が微かに疼いた。

 壁に縫い留められた手首の痛み。容赦なく押し入ってきた唇の熱さ。そして、抗いながらも溶かされていった自分自身――

(駄目よ……。思い出しては、駄目……)

 ディアナは執務机の下で爪が食い込むほど拳を握りしめ、【氷姫(アイス・ドール)】の仮面を必死に被り直した。


「シンディから聞いたわ。昨夜、貴方はヴァイスの不審な動きを察して、一人で待ち伏せていたのね」

「……ああ」

「そして、【看破(インサイト)】に落とされた」

「……ああ」

 短い肯定だけを返すザックの声は、痛々しいほどに掠れていた。


 沈黙が落ちた。硝子窓の向こうから、庭園の噴水が立てる水音だけが遠く聞こえてくる。

 ザックは、ゆっくりとその場に片膝をついた。


「団長。……いや、ディアナ」

 顔を上げたザックの瞳には、たとえこの場で首を刎ねられようとも構わないという、悲壮な覚悟が宿っていた。

「操られていたなんてのは、何の言い訳にもならねえ。お前を壁に押さえつけたのも、お前の唇を奪ったのも、この俺だ。……すまなかった」

 絞り出すようなその声が、ディアナの胸を深く抉った。


 彼は己を責めている。ヴァイスの術ではなく、自身の内側にあったものを――

 その時、ディアナは不意に悟った。昨夜、自分の中でこじ開けられたものがあったように、彼の中にもまた、ずっと押し殺してきた何かがあったのだと。

(それを、私は怖いと思った。でも――)

 怖いと思ったのと同じだけ、その熱を知ってしまった自分がいる。その事実に頬が火照り、ディアナは思わず視線を逸らした。


 それでも、目の前で膝をつくこの男は、冒険者として出会ったあの日から、いつも自分の背中を守り続けてきた相棒なのだ。

 ディアナはひとつ息を吸い込むと、努めて冷徹な声を作った。

「筆頭騎士ザック。アードラー騎士団長として、貴方の謝罪を受け入れます」

「……ディアナ」

「勘違いしないで。許したわけじゃないわ」

 言葉とは裏腹に、その声はかすかに震えていた。

「貴方を操ったヴァイスの罪は、必ず償わせる。だから貴方は……その腕で、これからも私の盾でいなさい。それが、貴方の仕事でしょう?」


 ザックの蒼い瞳が、大きく見開かれた。

 張り詰めていた彼の肩が、ふっと緩んだ。膝をついたまま背筋を正すと、ザックは力強く頷いた。

「――ああ。この命に代えても」


 その低い声が、昨夜とは違う温もりを帯びてディアナの鼓膜を震わせる。

 それが騎士の誓いなのか、それとも――

 答えを確かめる勇気のないまま、ディアナは火照った顔を隠すように窓の外へと視線を向けた。新しく嵌め込まれた硝子の向こうで、西の空が茜色に染まり始めていた。




 大通りから人影が途絶え始め、酒場の喧騒だけが街角に取り残された頃――

 厚い雲が月を覆い隠す中、領館の裏庭の茂みで、シンディは息を殺していた。

 気配を絶ったその身は、夜気そのものに溶け込んでいる。ただ、その双眸だけが、闇の中で鋭く光っていた。


 勝手口の扉が、音もなく開いた。

 黒い外套(マント)を深く羽織った細身の影――ヴァイスだった。昨夜ザックに阻まれたのと同じ道を、今夜は誰に咎められることもなく、彼は足早に敷地の外へと抜け出していく。

(……やはり動いた)

 シンディは十分な距離を保ちながら、その背を追った。


 ヴァイスが向かったのは、『フェルゼン』の北の城壁に寄り添うようにして建つ、聖サマルリーナ教の古い礼拝堂だった。

 石造りの尖塔は半ば崩れかけ、祈りを捧げに訪れる者も絶えて久しい。だが、その裏手の木戸からは、かすかな灯りが漏れていた。

 戸口に立ったヴァイスは、尾行を警戒するように辺りを見回している。その隙に、シンディは鐘楼の壁を軽やかに伝い、朽ちた高窓から堂内を覗き込んだ。


 二階ほどの高さにある窓から真っ先に目に入ったのは、一本の燭台が置かれた祭壇だった。揺らめく火影(ほかげ)が照らし出すのは祭壇の周りのわずかな空間にすぎず、その先は濃い闇に閉ざされて広ささえもよく分からない。辛うじて判別できるのは傾きかけた長椅子と、真新しい刻み目が走った石畳だけだった。その傷跡が何を意味するのか、シンディには知る由もなかった。


 祭壇の前には睨んだとおり、灰色の法衣の男が待ち受けていた。頭巾(フード)に隠された顔は、炎の届かぬ陰に沈んで窺えない。

 その時、正面やや右下にある木戸からヴァイスが入ってきた。そして、足元の暗がりを確かめるように、ゆっくりと長椅子の間を抜けて男の前で立ち止まった。


「お待ちしていました」

「挨拶はいい。……手筈は」

「すべて整っています。裏に馬も用意してあります。国境の向こうでは、王国のお歴々が首を長くして待っていますよ」

 ヴァイスは鼻を鳴らすと、懐から『銀の懐中時計』を取り出し、その竜頭(りゅうず)を押し込んだ。盤面に燐光が灯り、怯えたような老人の声が堂内に響く。


『ヴァ、ヴァイス殿か……』

「アイゼンハイド司教。『フェルゼン』の手前でアードラーを待ち伏せさせる手筈は、どうなったのです? 連中は今も、のうのうと領館で寝ているのですがね」

『そ、それは……。レウルキアの者たちが、皇国の領内で事を構えればユピテルとの全面戦争になると渋ったのだ。ただでさえ自慢の魔導艦隊を壊滅状態にされ、もはやアシュレイ公爵閣下のお言葉も信用できぬと……。どうしても協力を求めるのであれば、星金貨百枚を寄越せと言ってきた』

 アイゼンハイドの言葉に、ヴァイスは煙灰色(スモーキーグレー)の隻眼を不服そうに細めた。


「百枚ですと……?」

『だ、だが、閣下の資金は神国の安全保障局に見張られていて、とても動かせぬ……。私の力では、どうにも――』

「言い訳は結構」

 ヴァイスの冷たい声が、堂内の空気を凍りつかせた。

「ならば、金の代わりにこれをくれてやるまでです」


 彼が外套の下から取り出したのは、革紐で括られた分厚い羊皮紙の束だった。

「アードラーの大森林までの進軍ルートと、今朝確定したばかりの補給計画の写しです。これを手土産にすれば、レウルキアのお歴々もブライアン様への信用を取り戻すでしょう。……あの小娘の喉元に、ようやく刃を突きつけてやれるというものですよ」

 法衣の男が恭しく両手でそれを受け取る。ヴァイスの唇の端が、暗い愉悦に吊り上がった。


(――見つけた)

 シンディの指先が、腰に佩いた<冰刀(アイス・ダガー)>の柄にかかった。

 監軍総官が、敵国に軍の機密を売り渡す。これ以上の利敵行為はない。あとはこの光景を、ディアナ様のもとへ持ち帰るだけだ。


 その瞬間だった――

 法衣の男が、不意に顔を上げた。頭巾の奥から放たれた思いのほか鋭い視線が、シンディの双眸を真っ直ぐに射抜く。

「――鼠が一匹、紛れ込んでいるようですな」

 男の足元から、淡い紫色の魔法陣が波紋のように堂内へと広がった。気配を絶っていたはずのシンディの輪郭が、その光に絡め取られるようにして闇の中に浮かび上がる。

(感知の結界……!? この男、ただの修道士じゃない!)


 シンディは窓枠を蹴って、祭壇の前へと舞い降りた。両手に抜き放った<冰刀>が冷気を纏う――だが、その青白い光は、いつになく鈍かった。

「そこまでです、監軍総官。貴方の裏切り、確かにこの眼で見届けました」

「……アードラーの黒鴉(くろからす)か」

 ヴァイスの顔が、忌々しげに歪んだ。眼帯の奥の金瞳(きんどう)を警戒し、シンディは彼の爪先を見据えて間合いを測る。だが、ヴァイスの口元に浮かんだのは焦りではなく、冷ややかな嘲笑だった。

「見られた以上、長居は無用ですね」

「逃がさないわよ!」


 シンディが踏み込むより早く、法衣の男が何かを石畳に叩きつけた。

 炸裂した閃光と白煙が、一瞬で堂内を呑み込む。

 視界を奪われながらも、シンディは気配を頼りに<冰刀>を振るった。だが、刃が裂いたのは虚空だけだった。裏手の木戸が乱暴に開け放たれる音――続いて、馬の嘶きと蹄の音が夜の静寂を引き裂いた。


 煙を掻き分けて外へ飛び出したシンディの眼に映ったのは、城壁の崩れ目を抜けて北へと疾駆していく、二騎の黒い影だった。

 夜には閉ざされる城門を避けて、密輸人たちが街を出入りする抜け道なのだろう。その先、わずか数km(ケーメッツェ)でレウルキア王国の領内に入る。

(国境を越えられたら、二度と捕らえられない……!)


 礼拝堂の脇には、もう一頭の馬が繋がれたままになっていた。あまりにも都合が良すぎる――胸の奥で警鐘が鳴る。だが、迷っている暇はない。シンディは手綱を解き、その背に跳び乗った。

『決して深追いはしないこと。証拠を掴んだら、すぐに戻りなさい。これは命令よ』

 脳裏に、ディアナの言葉が蘇る。


(申し訳ございません、ディアナ様……。ですが、あの写しを取り戻せる機会は、今しかない――)

 このまま逃げ切られれば、アードラーの進軍ルートも補給計画も、すべてレウルキアに筒抜けになる。たとえ命令に背くことになろうとも、それだけは決して見過ごすわけにはいかなかった。


 シンディは馬腹を強く蹴った。

 雲に閉ざされた夜空の下、黒い影を追って、彼女は北の荒れ野をひた走る。ほどなくして、国境を示す古びた標柱がぼんやりと浮かび上がる――

 その向こうに広がる異国の闇が、アードラーの黒鴉を静かに呑み込んでいった。



いよいよ、『第5章 国境の死線』スタートです!

まずは、「19.密偵の追跡、裏切りの逃亡」をお届けします!

 何だか、怪しい雰囲気になってきましたね……。

 どういう展開が待っているのか、ドキドキです♪

 シンディちゃん、大丈夫でしょうか??

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