18.溶けゆく氷姫、夜の獣
朝の一つ鐘を告げる重々しい音が、静まり返った『交易都市フェルゼン』の夜に響き渡る。
執務室の机には、いまだに山積みの書類が残されていた。ディアナはただひとり、疲労の滲む瞳でその一枚一枚に目を通していた。
不意に静寂を破るノックの音が、彼女の耳朶を打った――
「はい……、誰?」
だが、ディアナの誰何に反応はない。不審に思った彼女が席を立ち、警戒しながら扉を開ける。そこには、予想もしない男が立っていた。
「ザック……、どうしたの、こんな時間に?」
ザックは何も答えなかった。無言のまま、彼女の身体を部屋の奥へと強引に押し入れ、背中に回した手で荒々しく扉を閉める。
その刹那、ディアナは初めて彼の異変に気づいた。いつもなら冷徹な蒼炎を宿しているはずの瞳が、かつて見たこともないほど異様に血走っている。
「ザック、貴方――」
危険を察知し、誰かを呼ぼうと息を吸い込んだ瞬間――凄まじい力がディアナの身体を捉え、背後の壁へと激しく叩きつけた。その衝撃に、肺の空気が弾け飛ぶ。
ザックは感情の失せた目で彼女を見下ろすと、その左手だけでディアナの両手首を掴み、頭上の壁へと圧しつけた。鉄枷のような怪力に、身動きひとつできない。
悲鳴を上げようとしたディアナの唇は、容赦なく、そして強引に奪われた。
抵抗する隙も与えず、生暖かい舌が歯列を割って押し入り、彼女の口腔を蹂躙していく。
「んッ……、んくッ……」
生まれて初めて突きつけられる雄の本能――
信頼さえ一瞬にして瓦解させる暴力的な行為――
恐怖と拒絶に思考の糸が千々に乱れる一方で、ザックの圧倒的な熱に彼女の肉体は抗えない快美の焔に呑み込まれていく。
(……嘘。私、無理やりにされているのに――)
絡められる舌の熱さに抗えず、身体が本能的な快楽を覚えていく。【氷姫】の仮面が溶かされ、「ただの女」へと変えられていく恐怖にディアナは心底から戦慄した。
それは一分近くも続けられた。熱い吐息を注ぎ込まれるたびに、全身から力が抜けていき、膝がガクガクと震えてその場に崩れ落ちそうになる。
その時、廊下から異変を察知したシンディが、勢いよく部屋に踏み込んできた。
「ディアナ様――ッ!?」
目の前の光景に驚愕したのも束の間、シンディは瞬時に両腰から<冰刀>を引き抜いた。
「離れなさいッ!」
鋭い叫びとともに、絶対零度の冷気がザックを目がけて一閃される。
ザックは野生の獣じみた反応速度でその斬撃を紙一重で躱すと、ディアナを突き放すようにして離した。そのまま迷わず窓硝子を突き破って、外へと飛び出す。
そこは二階の高さであったが、彼は黒獅子そのものの身軽さで宙を回転し、音もなく地面に降り立った。そして、振り返ることもなく、深い夜の闇の中へと姿を消していった。
硝子の破片が散らばる床に、ディアナはへたり込むようにして崩れ落ちた。四肢の先まで甘く痺れて、指一本動かせなかった。
「ディアナ様、ご無事ですか!?」
霞がかかった視界の中で、シンディの声が遠く聞こえた。
心臓がバクバクと早鐘を打ち、体中が燃えるように熱かった。ディアナは乱れた息を整えようとしたが、かつて経験したことのない官能の濁流に押し流されそうだった。
あのザックが自分に牙を剥いたという驚愕と恐怖――
信頼を無残に踏みにじられた激しい怒り――
そして、何よりも暴力的な愛撫に抗えず、ザックという雄にこじ開けられた女の本能――
それらの強烈な刺激が背筋をゾクリと粟立たせ、ディアナの身体を灼き溶かしていく。下肢に広がるじわりとした染みが、彼女の理性を激しく責め苛んだ。
「ディアナ様……、お顔が……」
シンディが案じるような眼差しで、ディアナの顔を覗き込んできた。
「……触らないで」
ディアナは、ひどく掠れた声で拒絶した。まだザックの感触が残る唇を手の甲で強く拭う。蒼灰色の瞳に涙を滲ませながら、真っ赤に火照った顔を背けた。
「何でもないわ。……私は、大丈夫よ」
その言葉が虚勢であることを、自分自身が嫌と言うほど分かっていた。
――昨夜の出来事は、悪い夢などではなかった。
『交易都市フェルゼン』の朝は、いつもと変わらず冷徹な光を領館に投げかけていた。しかし、執務室に向かうディアナの足取りは、いつになく重い。
上質な騎士団長服の袖に隠された両手首には、今なお生々しく、赤黒い指の痕が残っている。だが、それ以上に彼女を苛んでいたのは、衣服が擦れるたびに下肢の奥からじわりと這い上がってくる、あの忌まわしくも甘美な熱の残滓だった。
(思い出すなッ……。あれは、無理やりにされたことよ……!)
信頼を裏切られた怒りと、抗えない雄への恐怖を思い出す。それなのに、領館の廊下を進むうちに、自分の中にある「女の本能」が、ザックという圧倒的な雄を求めて疼きだす。その背徳的な自己嫌悪に、ディアナは眩暈に似た衝動を覚えていた。
だからこそ、曲がり角の先、朝の光が差し込む廊下で彼の姿を認めた瞬間、ディアナの心臓はドクンッと大きく跳ね上がった。
「団長……」
そこに立っていたのは、ザックだった。
いつもと変わらぬ冷徹な蒼炎の瞳。しかし、その顔色には隠しきれない憔悴が色濃く影を落としており、何より彼の左腕は「漆黒の金属鎧」の合わせ目から、昨夜の傷による赤黒い血が滲み出ていた。
ザックは、自分が犯した大罪のすべてを鮮明に覚えていた。
あろうことか、命を賭けて支えると誓った主君の唇を奪い、その身を力ずくで壁へと押さえつけた。その生々しい感触のすべてが、細胞の一つひとつに刻み込まれていた。
「昨夜のこと、俺は……」
絞り出すような声だった。ザックはディアナの前に歩み出ると、ただ深く頭を垂れた。
操られていたという言い訳など、意味をなさないことだと知っていた。ただ、彼女の尊厳を穢した罪に対する血を吐くような謝罪の言葉を、身を強張らせながら紡ごうとした。
だが、その言葉がディアナの耳に届くより早く、彼女の身体が拒絶反応を起こしてビクンッと跳ねた。
「……ッ!」
ザックの低い声が鼓膜を震わせた瞬間、昨夜、耳元で浴びせられた荒々しい息遣いが脳裏に蘇る。口内を蹂躙する彼の舌先、胸元を弄る大きな手――嫌悪と快感が生々しい記憶となって、ディアナの全身を支配した。
ディアナの白い頬が、カアッと真っ赤に火照っていく。それは恐怖でも怒りでもない。彼女の中の「女」が昨夜の官能を思い出し、その残滓が疼きだしてしまったことへの猛烈な羞恥だった。
『いやよ、近づかないで……』と告げたつもりが、言葉にならなかった。かつてない屈辱に唇を噛み、ディアナは無意識に後退った。
「……下がって、ザック。お願いだから……」
震えて上ずった声が、廊下に小さく響く。
頭を垂れたまま硬直するザックを、蒼灰色の瞳でディアナが睨んだ。その眼には、悔しさと羞恥の涙が湛えられていた。
このまま顔を合わせ続けていたら、彼の発する雄の匂いに包まれていたら――身体の奥の疼きに呑み込まれてしまいそうだった。
「今は、貴方の顔を見たくないわ……」
それは上司としての冷徹な命令を装いながらも、溶け出した氷を覆い隠す最後の防壁だった。そのひび割れた虚勢を辛うじて保ちながら、ザックが顔を上げるよりも早く、ディアナは彼を避けるようにしてその脇を早足で通り過ぎていく。
残されたザックは茫然と立ち尽くしたまま、両拳を固く握りしめた。
最愛の主君に謝罪すら許されず、ただ拒絶されたことへの絶望――
そして、すれ違いざまに微かに漂った、ディアナの甘く昂ぶった残り香が、彼の胸をさらに深く抉っていた。
二人きりになる恐怖と羞恥にただ惑うディアナと、己の罪の重さにただ立ち尽くすザック――
歪んでしまった二人の距離は、領館の空気すらも重く変えていくのだった。
バタンッと重々しい音を立てて樫材の扉が閉まった瞬間、ディアナはその扉に背中を預け、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
ここは誰の目もない、彼女だけの執務室――
そのはずなのに、室内に満ちる静寂がかえって耳の奥をうるさく叩く。
「はぁ……、くッ……、ふぅ……」
黒地に金の刺繍が入った、気高き騎士団長の制服――
その胸元をきつく握り締め、ディアナは何度も深呼吸を繰り返した。彼女の激しい呼吸に合わせて、そこに飾られた『六本』の金のチェーンがシャラシャラと乾いた音を立ててせわしなく揺れている。
だが、冷たい空気をいくら肺に送り込んでも、早鐘を打つ心臓の昂ぶりは一向に収まらない。それどころか呼吸を意識するたびに、先ほど廊下ですれ違ったザックの「漆黒の金属鎧」の隙間から滲んでいた血の匂いと、彼が放つ圧倒的な雄の熱量が脳裏に生々しく蘇る。
(落ち着きなさい、私……。私はアードラーの精鋭一千人を率いる騎士団長なのよ……ッ)
両手で自らの白い頬を包み込む。しかし、手のひらから伝わってくるのは、自分自身でも恐怖を覚えるほどの、燃えさかる炎のような灼熱だった。
彼の謝罪の声を聴いただけで、身体が疼いてしまう――その破廉恥な自分への羞恥が、被り続けてきた【氷姫】の仮面を内側から溶かしてしまいそうだった。
トントンッと小気味よいノックの音が部屋に響いたのは、彼女が執務机の椅子に腰を下ろし、辛うじて周囲を拒絶するような冷徹さを取り戻した直後のことだった。
「ディアナ様、シンディです。昨夜の領地警戒の報告に参りました」
「……入りなさい」
極力、声を震わせないように細心の注意を払って入室の許可を出す。
樫材の扉が開き、いつもと変わらぬ凛とした佇まいのシンディが書類を抱えて入ってきた。彼女は一礼すると、すぐに淀みない口調で報告を始める。
「現在、『交易都市フェルゼン』の北部におけるレウルキア王国との国境防衛網に変調はありません。また、あの野蛮人――ザックの動向についてですが、領館の警備兵の目撃証言によると、夜明け前に正面から堂々と戻ってきたとのことです……」
「……!」
シンディの口から「ザック」の名が出た瞬間、ディアナの指先がピクリと跳ねた。
書類に目を落としたまま、上の空で生返事をする。耳に届くシンディの報告は右から左へと通り抜け、脳裏は先ほど廊下で見せたザックの憔悴しきった表情と、今なお下肢の奥にまとわりつく甘い痺れの記憶で占められていた。
「ディアナ様……?」
唐突に、報告の言葉が止まった。
不審に思ったディアナが内心の動揺を隠して顔を上げると、シンディが書類を抱えたまま、怪訝そうに眉をひそめてこちらを凝視していた。
「……何かしら、シンディ」
「いえ……その……。お顔が真っ赤ですが、大丈夫ですか? 昨夜の襲撃で、どこかに怪我でも負われましたか……?」
シンディの鋭い眼差しが、ディアナの紅潮した頬と袖口に隠された両手首の痕へと向けられる。
その言葉は、一見すれば主君の体調を純粋に案じるものだった。しかし、昨夜のザックの暴挙をその目で目撃したシンディだからこそ、この赤面が単なる熱病などではないことを知っていた。アードラーを率いる長の矜持が今まさに悲鳴を上げていることを、内心では痛いほどに察していた。
だからこそ、彼女はあえてそれを『怪我』という理由にすり替え、主君に逃げ道を与えるようにして問いかけているのだ。
「部屋の空気が、少し篭っているだけよ。心配いらないわ」
「そう、ですか……。ならば良いのですが。それと、ディアナ様。昨夜のザックの件ですが――」
シンディは声を一段と低くし、周囲を警戒するようにして言葉を継いだ。
「朝早くにあの男を捕まえ、事の顛末を問い詰めました。彼奴の腕の凄絶な自傷痕が、何よりの証拠です。ザックは昨夜、ヴァイスの【看破】によって精神を侵食されていました。術に意識を搦め捕られ、人形のように操られてディアナ様を襲ったのだと……。本人は、当時の記憶は酷く混濁していると申しておりました」
「……ッ!!」
シンディの口から告げられた恐るべき真実に、ディアナの息が止まった。
ザックは自分を裏切ったわけではなかった。彼はヴァイスの【看破】に落ち、操り人形として動かされていただけだったのだ。
今朝、廊下で見せた憔悴しきった表情と、鎧の隙間から滲んでいた血の理由――そのすべての事実が、ようやく一本の線となって繋がった。
シンディがザックを裏切り者として糾弾せずに事実を報告してきたことも、彼が必死に呪縛と戦った痕跡を認めたからに他ならない。
(……よかった。ザックが、私の敵になったわけではなかった……)
その事実を知った瞬間、ディアナを縛りつけていた裏切りへの激しい怒りと困惑は、引き潮のように消え去った。
だが、安堵が胸を満たしたのも束の間、ディアナの身体の奥にあった熾火のような情動が劫火となって燃え上がり始めた。
(でも――昨夜の、あの感覚は……)
口内を蹂躙する彼の舌先も、胸元を弄った大きな手も――すべてはザックの肉体が発した「偽りのない『雄』の渇望」だったのではないか。そして、ザック自身もまた、己の内に秘めている本能の暴走に恐怖し、ひとりで葛藤しているのではないか――
憎むべき裏切りという「大義名分」が消え去ったことでディアナの中に残されたのは、ザックという圧倒的な「雄」にこじ開けられてしまった純粋な「女の本能」の疼きだけだった。
(ザックは術に操られていただけ……。悪いのはヴァイスよ!)
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、ディアナの中の「女」が彼の内に潜む「男の情欲」を本能的に察知して彼女の氷壁を甘く溶かしていく。
「ディアナ様? やはり、まだお顔が……」
「何でも、ないわ……。今日の報告はここまでにしましょう。下がっていいわよ、シンディ」
「しかし……」
「大丈夫。私は、平気よ……」
その言葉に、不安げな視線を投げかけながらも、シンディが退出していく。
(ザック……。私、怖い――貴方と二人きりになるのが……)
自分の肉体を征服した……いや、生まれて初めて思い知らされた『女』の自分――
決して二人きりにはならないと深く心に誓いながらも、ディアナは自分を灼き溶かしていく甘く背徳的な疼きにひとり身を震わせるのだった――
「18.溶けゆく氷姫、夜の獣」をお届けします!
【氷姫】、トロトロに溶かされちゃいましたね(^_^;
これから二人の関係がどうなっていくのか?
次から新章開始です。
ぜひ、楽しみにお待ちください!




